お久しぶりです。電気工事士筆記試験が終わってから、今度はひたすらリフォーム作業に頑張っています。頑張り過ぎて、様々な障害も生じました。医療機関のお世話にもなりました。それでも原因が分かりませんし、治りもしません。居直って、また作業に精を出しています。今日はアルミサッシの窓を取り付けました。お蔭で疲労困憊です。
さて、少し前に封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったと思う一つ目と二つの目の理由を上げました。三つ目の理由は、時期的なことです。
「背中炙り峠の楯は、関ヶ原の戦(西暦1600年)の前に、上杉勢に対する備えとして整備されたもの」と歴史学者の保角里志氏は考えています。そうだとすると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利し徳川家康が実権を握ると、最上義光の家臣である野辺沢遠江守には、もはや「背中炙り峠の楯」を守る必要性はなくなりました。
しかし、まだ完全に豊臣勢力が亡くなった訳ではなくて、さらに大阪冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)が起こりました。また丁度この時、最上藩の内部でも戦さがありました。最上家の重臣である清水義親が豊臣に内通していると疑われ、藩主最上家親の命を受けた野辺沢遠江守らによって滅ぼされました。その後も最上家内部の争いが絶えず、その中で野辺沢遠江守も渦中にあり、決して安心できる平和が訪れた訳ではありませんでした。そのような状況の中で、有路小三郎は堺田(現在の最上町の中)に住居を移しました。そして、その後に最上家が改易(西暦1622年)されています。何故、有路小三郎が堺田に移ったのでしょうか。そこで、有路小三郎家の古文書が掲載されている「最上町史歴史資料第11号堺田有路家旧蔵文書」を調べてみましたが、残念ながら有路家が堺田に移り住んだころを記録した古文書はなかったようです。普通の場合これほどの旧家ならば、「我が先祖は〇〇から来た由緒ある〇〇」などといった文章が見られるものですが全く見当たらず、それから暫らく時代を経た名主としての記録だけになっていて、有路小三郎が移り住んだことを故意に隠しているような感じさえ受けました。しかし、有路家が野辺沢家の家臣であったことは、しっかりと伝えられていたようです。
さて、ここで畑沢の有路但馬守の子孫について考察してみます。畑沢に帰農した有路但馬守の息子(猶昌)は、二歳(数え歳)の時に但馬と死別しました。このことで不思議に思うのですが、但馬が息子に死別したのはかなりの高齢だったはずです。とても二歳の息子がいるような年齢ではなかったはずです。有路但馬守は、西暦1582年に野辺沢満延の下で最上義光と戦った記録に残っています。それから有路但馬守が死亡したと推定される1628年までで46年ありますし、さらに最上義光と戦った時には既に一人前の武将だったはずですから、少なく年齢を見積もっても、その時には20歳から30歳ぐらいにはなっていたでしょう。そうすると、死亡した時の年齢は、66歳から76歳ぐらいの間であったと思います。息子が誕生したのは、有路但馬守が65歳から75歳の間だったことになります。これは現在でもそうですが、子を設けるには当時は考えられない年齢ではないでしょうか。かなりの無理があるような気がします。この経緯には何か特別な事情があるような気がします。有路但馬守の子孫だったと言う畑沢の有路源右衛門家には、古文書が残っていたらしくて楯岡高校社会部が発行した「郷土Ⅱ」には、以下の趣旨の記述がありました。
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猶昌が二歳の時に有路但馬守が他界した。猶昌は外戚である里見家で養育された後、有路治郎右衛門の養子となったが、治郎右衛門に実子が生まれたので、慶安元年(1648年)に畑沢に家を建てて有路家の中興の祖となった。
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当時のことですから、名のある家名を残すためには嫡男を養子にやるということは考えられないので、猶昌は嫡男ではなかったと考えるべきものと考えられます。とすると、有路但馬守の嫡男は猶昌ではなくて、別に嫡男がいたものと思われます。但馬の嫡男は、堺田に移り住んだ「小三郎」である可能性が高くになります。堺田の有路家には、そのことを書き残した古文書はなかったようですが、野辺沢家の家老だったという口伝が残されています。何らかの理由によって野辺沢領の外に移ったので、書き残すことができない特別な事情があるはずです。移った後に最上家が改易されてしまったので、そのまま堺田に住み続けたかもしれません。
熊野神社の中に架けられた垂れ幕
有路一族の家紋かな