かねてから馬頭観世音の石仏を捜していました。既に畑沢の馬頭観世音の石仏は、3体が見つかっています。堂ヶ沢、延命地蔵堂脇、坂下の場所にあります。
もう1体があると言うことを有路S氏から聞いていたのは、荒屋敷から南の沢へ登った場所です。県道を拡張する時に石仏を山の方へ移したと言うことでしたが見つかっていません。私に教えて下さったS氏も今年の5月初めに亡くなってしまいました。その後、大戸H氏が、石仏らしき大きな石があったとの情報を提供してくださいました。そして、ようやく先日に土を掘り返して調べてみました。かなり大きな角ばった石です。角ばっている点では石仏の可能性が大でしたが、尋常でない厚みがありました。
重すぎるので掘り起こすことを諦めて、仕方なく表面を水できれいにして調べることにしました。少なくとも3面には、全く文字が刻まれていません。さらに、予想もしないことが分かりました。流紋岩だったのです。畑沢では立石山と大平山の上部からだけ産出します。畑沢ではタデスエス(立石石)と呼んでいるとても硬い石です。畑沢で産出しても、石仏には滅多に用いません。ただ例外的に延命地蔵堂の「湯殿山・象頭山」と沼澤の「湯殿山」に用いられているだけです。普通は畑沢の石切り場である「ローデン」か「ゴロウ」から切り出された凝灰岩が石仏に用いられます。とても馬頭観世音に用いることは考えられません。今回見つかった石は、馬頭観世音ではありませんでした。
それでは、これは何でしょうか。こんなに大きい立石石が、こんなところに自然に存在する訳がありません。ただ一つ考えられるのが、江戸時代に石橋として使われた石材です。ここは、南の沢から流れてきた小川が、南の沢から荒屋敷方向へ道の下を通る場所です。石橋はどこにでもある物ではありません。畑沢には石橋に関する伝説と石仏が残されています。天明7年(1877年)に畑沢村の飢饉から救うために、古瀬吉右衛門が私財を投げ打って、畑沢から尾花沢までの街道に48もの石橋を造りました。昔の街道は県道に変わりましたので、その石橋も分からなくなったのですが、これまで沼沢で千鳥川に架かっている橋のたもとにその頃の石材が保管されています。今回のこの石は、古瀬吉右衛門が作った石橋の二つ目に残された大事な証拠のようです。