-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢 初夏の花たち

2015-07-20 14:21:07 | 自然

 今年の畑沢は雨が少ないので、いまいち緑の元気がないようです。それでも、それなりに初夏がやってきました。

何と言っても、畑沢の夏は山百合が雰囲気を出します。山百合の盛期はまだまだですが、早めに咲いているのも見られます。

 水気の多い沢筋に入ると、オオバギボウシ(大葉擬宝珠)が威張っています。

 

 人が入り込まなくなった山の小道には、ノギランの花が咲き始めましたが、全開にはもっと時間がかかりそうです。 

 花ではありませんが、カマキリ(蟷螂)が餌をどんどん食べて急成長中です。小さい時はかわいいんですけどね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夏を迎えた畑沢

2015-07-19 21:11:08 | 近況報告

 先週は、台風が来るかな来ないかな心配して畑沢への向かうのを止めていました。ようやく、台風11号が日本海へ抜けて温帯低気圧に変身し、さらに何やら得体の知れないものになりましたので、二週間ぶりに畑沢へ向かいました。

 背炙り峠への登り口で、畑沢出身で中沢へ嫁がれたお宅の御主人へ挨拶がてら立ち話をしました。その方は二週間前に胡瓜の苗を植えていましたので、その後、猿の被害から大丈夫だったかとお聞きしたところ、「胡瓜は2本の苗のうち、1本を抜かれてしまった。それよりもササゲは実が大きくなる前に、猿が来て食べられてしまった」とのことでした。にっくき猿です。そう言えば、私はしばらく猿に会っていません。猿から見れば、私に会っても何の得にもならないと言うことでしよう。スビタレは猿にも見放されています。

 峠路に入ると、上天気で絶好の景色が見えます。遠くに葉山が青空にくっきりと浮かび上がっていました。結構、高い山ですが、さすがに初夏になると残雪も消えていました。手前に見える三角形の水面は、高来沢堤です。

 峠を降りて、実家に着くと季節外れの紫陽花が咲いていました。変色している花が多いのですが、私のように遅咲きもあります。実家は県道に面していますので、道路を通る車がよく見えます。近年、多く通るのは畑沢とは関係ない方々です。写真のオートバイも畑沢の人ではありません。趣味で乗っているライダーです。今日もこのライダーが多く通りました。かっこいい自転車とかっこいいスタイルのサイクリングの10人程度の集団もいました。私の若い時のように格好いいです。と言うのは全くの嘘です。私は昔からそのような姿とは正反対に生きてきました。へそ曲がりなのです。人が右と言えば左と言うし、格好良くするどころか、ほぼわざと野暮ったい恰好をします。「世の中、これでいいのだー」と手が付けられません。

 畑沢を通って峠を抜ける四輪車も、普通の車ではありません。外車は当たり前、国産車でも高級車です。ナンバーを見ると、遠くから来たのが分かります。今日は、名古屋、金沢、宇都宮、春日部、さいたま、栃木、仙台、福島のナンバーが見えました。山形ナンバーは珍しいのです。何方も銀山温泉にいらしたようです。また、自分を振り返ります。私の愛車は、13年以上も乗っている国産の小型車、どんな泥んこ道に入っても決してビビらない汚さです。逞しさだけが誇りです。

 

 今日の作業は、二週間前に草刈りした後片付けでした。枯れた草を集めて燃やしました。池が富栄養化しないように、あえて燃やしました。燃やし方も上手になりました。火災にならないように、煙が出にくいように工夫します。

 

 池からトノサマガエルが見物です。しかし、この蛙は単なる見物ではないかもしれません。トノサマガエルは貪欲でしかも縄張り意識が高いのです。この後、他の蛙とにらめっこをして、相手をビビらせて退散させました。やるな!

 作業を終えて、風景を楽しみました。畑沢のビューポイントであるスーパー農道から南側をパチリ。遠くに見えるのが、背中炙り峠がある山並みです。右側の建物は、畑沢地区生涯学習推進センターです。

 

 畑沢地区生涯学習推進センター(長い名前です。)もきれいに草刈りされていましたので、御披露します。

 空をピービー言いながら飛んでいる隼らしき鳥がいました。幼鳥が親鳥にまつわりついていました。そろそろ、子離れの時期かと思うのですが。

 さらに足を伸ばして、熊野神社(おぐまんさま)へ行き、境内から大平山方向をパチリ。手前の植物はユキツバキです。

 これだけ遊ぶと、時間もかかります。夕方になってしまいました。再び峠を越えて家路を急いだのですが、林崎で車を停めてしまいました。夕日に染まる雲がきれいだったのです。台風が崩れて空気の流れがごちゃごちゃとなり、異なる高度ごとに異なる雲を作りました。様々な雲がごちゃごちゃです。いいなあ、このごちゃごちゃ感。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村差出明細帳を現代の畑沢と比較してみました。

2015-07-09 18:25:41 | 歴史

 畑沢村を含む野辺沢(延沢)領は、元和8年に最上藩が改易された後、一時、他の大名の支配になりましたが、江戸時代の大半は天領となっていました。天領を支配するために、徳川幕府の命を受けた代官が赴任していました。その代官に対して、村の年貢高を決める耕地面積、納めるべき各種の年貢高などの外に、戸数、人口を含めた村の詳細を名主たちが報告していました。それが「村差出明細帳」です。

 尾花沢市史編纂委員会が1978年に発行した「尾花沢市史資料 第5輯 村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」に下記の年の畑沢村の村差出明細帳が掲載されています。

  ① 天和二年(西暦1682年)

  ② 正徳四年(西暦1714年)

  ③ 元文二年(西暦1737年)

  ④ 天明八年(西暦1788年)

 この中で、最も詳しく記述してある上記②の村差出明細帳を取り上げてみます。先ず概略は次のとおりです。

1 提出時期……正徳四年(西暦1714年)七月廿七日

  徳川家継がわずか五歳で七代将軍になって三年目です。月日は新暦の九月五日に該当しますので、秋が近づいた夏です。

2 差出人……畑沢村の名主「九右衛門」、組頭「勘次郎」、同「三右衛門」、同「源兵衛」、同「庄右衛門」

  庄右衛門の屋号は今でも残っていますが、他の屋号は今はありません。

3 差出先  代官 秋山彦太夫

  

 さて、差出明細帳の中で興味あることだけを拾ってみます。今回は土橋を取り上げます。

………………………………………………………………

一、當村橋 長三間半 横八尺 土橋 三ケ所

………………………………………………………………

「當」は「当」の古い文字です。全体の意味は、

「当村には、長さ三間半(約6.5m)、横幅が八尺(約2.4m)の土橋が三ケ所にあります」

となります。街道は七尺(約2.1m)と言われていましたから橋の横幅は街道よりも広く捕られています。

 それでは、土橋とはどんなものでしょうか。川岸に大きな丸太や厚い板材を渡し、その上にさらに細い木の枝などを横に敷いた上に土をかぶせて作った橋です。こうすることによって普通の道と同じように表面が平らになるので、荷車なども通ることができます。土橋は当時の最も上等な橋になります。畑沢の道は、仙台方面から山形へ抜ける重要な街道ですから、千鳥川を渡る橋は総て土橋になっていたでしょう。

 次に土橋があった三ケ所とは、どこを指しているのでしょうか。当然、頭に浮かぶのは県道29号線状にある現在の橋です。

北の方から順番に現在の橋をお見せします。

 

① 下畑沢橋…荒町から畑沢に入って最初の橋です。

 

② 荒屋敷の橋…荒屋敷から県道9号線と「向かい」へ繫がっています。

 

③ 上畑沢橋…上畑沢の中央に位置しています。写真に見える石仏は、大辯財天です。

 

④ 西の入沢橋…いよいよ背炙り峠へ登って行きます。

 

⑤ 沼澤入口の橋

 江戸時代の古文書では三ケ所となっているのに、五つもの橋があります。このような違いが出たのは、今の県道が、かなりの範囲において江戸時代の街道とは別な場所に開設されたからです。古道は、荒町から入ると岡田沢に接しながら東の山裾を山楯を通って荒屋敷に入りました。荒屋敷からは現在生涯学習推進センターがある南の沢方面に入りました。そこからはほぼ現在の県道と同じルートを通って上畑沢を抜け、清水畑で峠の登り口である坂下へ向かいました。

 これでお分かりのとおり、古道になかった橋は①の下畑沢橋、④の西の入り橋です。村差出明細帳に載っていた三ケ所の土橋は、②の荒屋敷の橋、③の上畑沢橋、⑤の沼澤入口の橋です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊が出るぞう 猪も出るぞう

2015-07-09 10:42:22 | 自然

 これは決して太平洋側の地域のことではありません。畑沢のことです。日本海側の豪雪地帯には、冬眠をするツキノワグマは生息していましたが、イノシシは豪雪地帯には棲息していないと言うのが私たちの常識でした。ところが今では尾花沢市内でも普通に出没するようになりました。イノシシだけでなく、シカ(鹿)までもがいるのです。イノシシやシカの足は、カモシカと異なり雪の中にめり込んでしまうので、雪深い所には生息できないと言われていた気がしますが、しかし、実はずっと昔は豪雪地帯にも生息していて、狩猟などによって絶滅したらしいと言うのが真相のようです。

 熊もイノシシも、大変に危険な獣ですから、絶対に会いたくありません。幸い、あれほど山中に出入りする私ですが、一度も出会ったことがありません。このイノシシの看板は危険を知らせるものです。この看板がない所にも熊やイノシシが出没します。「看板がないのに、熊が出た。誰の責任だ」とは言えません。

 ところで熊やイノシシが出るようになってから、悪質な山菜や山野草の盗掘者が減少したような気がします。畑沢などのように人口が減少した地域では、悪質な採集者を見張ることができなくなってきました。村人に代って、熊とイノシシが山を守ってくれているようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりのビッキです。(ツチガエル)

2015-07-08 10:00:51 | 自然

 これまで畑沢のビッキとして、トノサマガエル、モリアオガエル、アマガエル、ヤマアカガエルを投稿しましたが、まだツチガエルとヒキガエル(ガマガエル)は取上げてきませんでした。さすがにヒキガエルはお目にかかれないと諦めていますが、せめてツチガエルは写真に納めたいと思ってきました。しかし、これもお目にかかれませんでした。ところがやっとのことに屏沢の小川にいました。ツチガエルの「ツチ」は「土」と思っていましたので、水辺よりも畑の中と思っていました。昔の思い出でも、畑の土を耕していた時に飛び出してきたような気がします。ところが、「土」なのは蛙の肌の感じで、土の中というよりも水の中にいるような蛙でした。足には立派な水かきがあります。しかもトノサマガエルやヤマアカガエルと同じように、アカガエル属でしたから驚きです。私の思い込みには、いつもながら感心するほどに呆れ返ります。

 

 近くには羽化したばかりに見えるカゲロウがいました。もしかしたら、ツチガエルはこれを食べようと狙っていたのかもしれません。私はツチガエルの食事を邪魔してしまったようです。カゲロウにも小学校時代の思い出があります。夕方、子ども達が、「火の用心 マッチ一本、火事の元 子どもにマッチを預けるな」と子供が叫びながら人家の近くの道を廻っていました。6月になると、この時間帯にカゲロウが無数に婚姻飛翔のために空に真っ直ぐ登っていき、やがてスーッと羽を休めて降りてきます。これを何度も繰り返していました。「火の用心」が終了するやいなや、男の子たちはこの虫を追いかけまわし、捕獲数を競いました。

 

 千鳥川近づくと、オニグルミの下に生えている植物の葉が黒っぽく変色していました。このような現象は経験したことがありません。今年はオニグルミから何かが落ちてきて、下の葉を汚したようです。写真の葉は、アブラチャンの葉です。

 こちらにぷいと背を向けているのはイナゴの幼虫です。まだまだ青二才ですが、堂々としています。私は後ろに回ってカメラを向けましたが、さすがイナゴ殿は、後ろにも目を向けています。恐れ入りました。

 千鳥川の川面に目を移すと、魚がいました。ここには5年ほど前、30㎝ほどのウグイが群れていましたので、ウグイかなとも思いましたが、とりあえず安物のデジカメのレンズを思いっきり望遠してパチリ。パソコンでさらに拡大したところ、イワナ特有の斑点が現れました。再びイワナが戻ってきました。不思議なものです。ウグイが増え始めるとイワナがいなくなり、ウグイがいなくなるとイワナが現われます。ヤマメとイワナについては、「棲み分け理論」などと学説をとなえる方がいらっしゃいましたが、私はウグイとイワナについて学説をとなえる気持ちはありません。ただ単に「ザッコえだ」です。

 

 休耕田の池の水面には、ミズスマシが何匹もいて、ちょこまかと忙しく水面をくるくると回っています。私達には単なる「虫ころ」ですが、今では尾花沢市内の水田地帯でもこの虫もかなり珍しい生き物だそうです。何でもかんでもが、「珍しい生き物」になってきています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする