畑沢村を含む野辺沢(延沢)領は、元和8年に最上藩が改易された後、一時、他の大名の支配になりましたが、江戸時代の大半は天領となっていました。天領を支配するために、徳川幕府の命を受けた代官が赴任していました。その代官に対して、村の年貢高を決める耕地面積、納めるべき各種の年貢高などの外に、戸数、人口を含めた村の詳細を名主たちが報告していました。それが「村差出明細帳」です。
尾花沢市史編纂委員会が1978年に発行した「尾花沢市史資料 第5輯 村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」に下記の年の畑沢村の村差出明細帳が掲載されています。
① 天和二年(西暦1682年)
② 正徳四年(西暦1714年)
③ 元文二年(西暦1737年)
④ 天明八年(西暦1788年)
この中で、最も詳しく記述してある上記②の村差出明細帳を取り上げてみます。先ず概略は次のとおりです。
1 提出時期……正徳四年(西暦1714年)七月廿七日
徳川家継がわずか五歳で七代将軍になって三年目です。月日は新暦の九月五日に該当しますので、秋が近づいた夏です。
2 差出人……畑沢村の名主「九右衛門」、組頭「勘次郎」、同「三右衛門」、同「源兵衛」、同「庄右衛門」
庄右衛門の屋号は今でも残っていますが、他の屋号は今はありません。
3 差出先 代官 秋山彦太夫
さて、差出明細帳の中で興味あることだけを拾ってみます。今回は土橋を取り上げます。
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一、當村橋 長三間半 横八尺 土橋 三ケ所
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「當」は「当」の古い文字です。全体の意味は、
「当村には、長さ三間半(約6.5m)、横幅が八尺(約2.4m)の土橋が三ケ所にあります」
となります。街道は七尺(約2.1m)と言われていましたから橋の横幅は街道よりも広く捕られています。
それでは、土橋とはどんなものでしょうか。川岸に大きな丸太や厚い板材を渡し、その上にさらに細い木の枝などを横に敷いた上に土をかぶせて作った橋です。こうすることによって普通の道と同じように表面が平らになるので、荷車なども通ることができます。土橋は当時の最も上等な橋になります。畑沢の道は、仙台方面から山形へ抜ける重要な街道ですから、千鳥川を渡る橋は総て土橋になっていたでしょう。
次に土橋があった三ケ所とは、どこを指しているのでしょうか。当然、頭に浮かぶのは県道29号線状にある現在の橋です。
北の方から順番に現在の橋をお見せします。
① 下畑沢橋…荒町から畑沢に入って最初の橋です。
② 荒屋敷の橋…荒屋敷から県道9号線と「向かい」へ繫がっています。
③ 上畑沢橋…上畑沢の中央に位置しています。写真に見える石仏は、大辯財天です。
④ 西の入沢橋…いよいよ背炙り峠へ登って行きます。
⑤ 沼澤入口の橋
江戸時代の古文書では三ケ所となっているのに、五つもの橋があります。このような違いが出たのは、今の県道が、かなりの範囲において江戸時代の街道とは別な場所に開設されたからです。古道は、荒町から入ると岡田沢に接しながら東の山裾を山楯を通って荒屋敷に入りました。荒屋敷からは現在生涯学習推進センターがある南の沢方面に入りました。そこからはほぼ現在の県道と同じルートを通って上畑沢を抜け、清水畑で峠の登り口である坂下へ向かいました。
これでお分かりのとおり、古道になかった橋は①の下畑沢橋、④の西の入り橋です。村差出明細帳に載っていた三ケ所の土橋は、②の荒屋敷の橋、③の上畑沢橋、⑤の沼澤入口の橋です。