-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

急いで畑沢へ向かいました

2015-10-18 20:03:11 | 近況報告

 待ちに待っていた「延沢城跡国指定三十周年記念祝賀会」に出席するために、朝7時に山形を出発して延沢に向かいました。山形、天童を過ぎて東根に入ると濃霧が視界を遮り始めました。当然、ヘッドライトを点灯しての走行です。村山市内は特に霧が濃くて、背炙り峠への道も霧の中です。峠から村山市内を眺望しても何も見えません。

 仕方なく、手前の「ミズキ」の実をパチリ。この木は実に元気です。最近、どこでも枝をのびのびと伸ばしています。

 ところが、畑沢側は霧が極端に薄くなっています。峠を境にして、こんなにも違いがあるのは驚きです。それでも全く霧がないわけではなくて、うっすらと残っています。

 車を止めて後ろを振り返ると、コスモスが道端を飾っていました。

 少ない霧ですが、村の中が少しだけ幻想的になっていました。

 畑沢から祝賀会へ出席する先輩2人を乗せて延沢へ向かっていると、袋に入れられた籾殻が道路わきに山積みされていました。

 ところで肝心の祝賀会ですが、今日は疲れましたので次回の投稿にさせていただきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ「延沢城跡国指定史跡30周年記念式典」です。

2015-10-14 17:15:52 | 行事

 10月18日に予定されている式典が間もなくとなりました。昨日、実行委員会長から詳しい内容が葉書で連絡ありました。それを見て、少々、驚いています。延沢で8時30分となっています。私は山形から行きますので、7時には出発しなければなりません。背炙り峠から畑沢に入って、大先輩方を車に乗せます。その時間を入れて、1時間と30分かかるかなと計算しました。8時40分から常盤小学校の脇から城跡を目指して登るようです。本丸跡で大明神参拝と居合の奉納が行われます。絵になる光景が次々と繰り広げられそうです。当然、私は「撮ります」。そして報告します。

 

会長名は、個人情報保護のために消しております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢のとなり村がやりました

2015-10-13 19:02:35 | 近況報告

 畑沢へ行くのも久しぶりでした。9月23日以来です。「(馬鹿だから)風邪をひかない」と自慢していましたが、珍しくも風邪になり、それがさらに別の病気を誘因してしまいました。ようやく、回復したのですがリフォーム作業の遅れを取り戻すべく、連日、コンクリートの斫(はつり)作業でした。何とか目途が立ちましたので、畑沢へ出かけました。あいにく、今日は小雨が降っていました。それでもこの日を逃すと、中々、日程の都合が取れません。!ん、こんなことを言うと、「リタイアしている暇人が何を言うか」とお叱りを頂戴しそうですが、嘘ではありません。10月と11月だけは、いろいろと予定が入っています。それに「リタイア リタイア」と馬鹿にしないでください。毎日が暇ではなくて、毎日が「日曜大工」なのですから毎日が仕事なのです。分かっていただけましたでしょうか。

 さて、いつものように村山市から背炙り峠に向かいました。すっかり秋模様です。中沢の棚田を眺めるビューポイントから、棚田を越えて甑岳を撮影しました。紅葉しています。天気が悪いので鮮やかさが感じられませんが、まあそこそこでした。

 上畑沢に入ると、いつも御指導いただいている古瀬K氏に会いました。車を止めて、来る10月18日に行われる「延沢城跡国指定史跡」三十周年記念式典への出席に当たっての相談をしました。畑沢からは同氏の外にもうお一人が出席されるようです。どんな方々が集まり、どんな式典になるかが楽しみです。

 

 中畑沢と下畑沢の間にもビューポイントがあります。細野地区へのスーパー農道の上です。普通はそこから北の方向を撮影するのですが、今回は全く逆に南の方角を撮りました。スビタレは天の邪鬼でもります。

 一番、奥に見える山が背中炙り峠(古い道がある)がある場所です。この峠は畑沢のどこからでもよく見えます。写真の右端にかすかに引っかかっている建物は畑沢地区生涯学習推進センター(旧分校)です。左の一連の山の紅葉は、ピークではありませんが、かなり色づいています。

 

 

 下畑沢の橋の周りに6台もの車が止まっていました。しかもその一台には得体のしれない仰々しい装置が付いています。そこに立っている人はヘルメットを着用して、ただ事ではない緊張感が漲っています。おまけに通行車両を整理誘導までしています。これは何かある。畑沢通信の現地特派員としては、そのまま通り過ぎるような鈍感さは持ち合わせていません。などと言うよりも、単なるスビタレの好奇心です。その場の人に聞きましたら、「橋を点検している。順番にすべてを点検する」とのことでした。事件とも事故とも、そして災害とも全く関係ありません。

 

 その場で興味を引いたのは、この点検作業だけではありません。橋の下を流れる水がどこかで堰き止められて、大きな淀みができていました。こうなると、私は直ぐに小学生です。点検作業はどうでもよくなりました。目は川の中を泳いでいます。いました。しかも結構なくらいに大きい魚が数匹です。30cmは十分にあります。腹鰭と尻鰭がはっきりと横に張り出して、前縁が白くなっています。背中には黒い斑点が散らばっています。婚姻色が出ている岩魚です。産卵のために上流に向かっているのでしょうが、人影があるのでうろうろ泳ぎ回っています。なお、畑沢を流れている千鳥川には漁業権が設定されており、しかも産卵期の漁獲は禁止されていますので、悪しからず。

 今度は尾花沢へ向かう途中、荒町との境に引っかかってしまいました。県道から農道へ入りますと、珍しい「はせ木(畑沢語 はしぇぎ)」が見えました。しかも4段掛けです。こんな手間隙(てまひま)がかかることをやっているのは、きっと大事な人に食べさせたいからだと思います。田んぼも無農薬栽培のようです。遠くで「宝沢山(おおひらやま)」が見守っているようです。

 ここで目を西側へ転じると、看板がありました。これが最近、話題になっている荒町衆の心構えです。私は何週間か前に、「荒町では、地区民以外の人には山菜取りをさせないようにした」との話を聞きました。「おっ、やっと気づいてくれたか」と私は喜びました。

 他人の山でも山菜取りできるのは、運命共同体である地区の人にだけ認められた慣習法のはずでしたが、いつの間にか地区外の人も勝手に「山菜取り」と称して他人の山に入るようになりました。これは入会権では予定していない行為で、言わば「窃盗行為」です。それが当たり前のように行われています。山菜取りだけではありません。山野草の栽培と称して、風流気取りで盗掘が行われています。もっと質が悪いのは、園芸店が大量に盗掘して販売します。

 このブログで私もそのことを指摘していましたが、実際に意思表示をしたのは、尾花沢市の常盤地区で荒町が最初のようです。しっかりとしたリーダーがおられるようです。畑沢やその他の地区でも堂々と意思表示してもらいたいものです。どうも国、県、市は頼りにならないようです。結局は地元の人たちが、自分たちの自然を守るしかありません。

 荒町の象徴的な山「なでつぎやま」も、険しい表情を見せながらそのように言っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背中炙り峠古道の断面図を訂正します。

2015-10-06 17:29:05 | 歴史

 背中炙り峠を通る村山市側の古道について、一昨年の12月に「乳母木地蔵堂からの古道がた筋ありました」を投稿しましたが、大きな間違いがあることに気づきました。古道が一筋だけではなくて二筋になっているのは、自分なりに大きな発見で正しいのですが、それらの古道が楯の防護柵の一つである切岸に作られていたという認識が誤りでした。確かに古道の肩の部分が切岸の一端である部分もありますが、大部分は切岸とは全く別に作られたものでした。

 元々、一帯は約45度の急傾斜地で、防御用にあらためて崖を作る必要がない場所です。45度というと、大したことがないように思われる方もおられるかもしれませんが、実はとんでもない急斜面です。例えば、大倉山ジャンプ台の勾配は35度ぐらいと言われています。テレビ中継などでジャンプのスタート台から下を見ると、スビタレには奈落の底を覘くような恐ろしさです。ましてや45度となると、その場に立つと80度ぐらいに感じてしまいます。斜面を登るときは、這いつくばってさらに立木を掴まなければなりません。恐らく昔は、立木を刈り取っていたでしょうから、城攻めの際には地面に鋭利な刃物などを突き刺して登らなければならなかったでしょう。45度ならば、さらに防御のために斜面を削るなどということは必要ありません。そんな斜面ですから、切岸などはあるはずがないのですが、そこは「れっきとした素人」のなせる業です。覚えたての「切岸」にとらわれて、単なる道路の肩を切岸としてしまいました。

 さて、そうしますと古道は楯の防御施設に仮住まいをしているわけではなくて、あくまでも街道そのものを作るために、45度の急斜面の山腹をトラバースして砂岩層を削り取ったことになります。かなりの難事業だったでしょう。そこまでしても作るほどに大事な街道だったのです。しかも、一本だけでなく二本の道路を掘削しました。急斜面に幅約2mですので大変に危険にもかかわらず、金銀の運搬などで沢山の人馬が通ります。そこで、街道を2本して上り下りで使い分けしなければならなかったのでしょう。全国的に見ても珍しい街道のような気がしますがいかがなものでしょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村にお神楽がやってきた

2015-10-04 12:13:02 | 思い出

 風邪をひいて、自宅で監禁状態になっています。スビタレですが、体だけは人並み以上に丈夫だと自慢していたのですが、風邪に負けるとは情けない話です。しょうがないので、畑沢へも行かずに自宅でパソコンをいじっていましたところ、畑沢の秋の紅葉が出てきました。一昨年11月上旬の写真です。この写真で昔のことを思い出しました。

 紅葉を見ると思い出すことがあります。小学1、2年生のころのお神楽です。この紅葉を小道具にして、お神楽の一座が芝居の舞台を飾っていました。そこで、今回は、私が今、まとめている「畑沢のまとめ」の原稿から以下に抜き書きします。

 

お神楽がやって来た

 まだテレビが普及する前、村の娯楽として楽しまれた物ものの一つにお神楽がありました。お神楽は年に二回やってきました。一般的にお神楽と言うと、村に代々伝わってきて村人が神社で舞う「舞」を意味します。ところが、畑沢を含めて常盤地区一帯では、「お神楽」とは農閑期に職業的な集団が外部からやってきて専門的に興行する舞と芝居のことを意味しました。

 年二回の興業があり、第一回目は、田植えが終わったころです。各家を周りながら、獅子舞で一家安全を祈願しました。秋の稲刈りが終わったころが第二回目のお神楽でした。秋のお神楽は下畑沢では有路家、上畑沢では古瀬家が会場となって行われました。興業は二部から成っていて、昼過ぎごろに行われるのが獅子舞と天狗の舞です。会場となった庭に蓆が何枚も敷かれた広い会場です。獅子舞は単なる獅子だけが踊るのではなくて、獅子とヒョットコのコメディです。静かに獅子が寝ていると、ヒョットコがやってきて、寝ている獅子をからかい始めます。獅子が中々、目を覚ましませんので、段々とヒョットコは図に乗り始めて、いたずらが過激になってきます。すると、さすがの獅子も目を覚ましてヒョットコを追いかけます。逃げるヒョットコの演技が見事なので、毎年、何度も見ているにもかかわらず、今にも食べられそうな様子にハラハラドキドキしつつ、逃げる姿の滑稽さにも笑いが止まりませんでした。天狗の舞は、「神楽」に相応しい神に捧げる厳粛さがあり、怖い感じもありました。

 翌朝、一座の中から3、4人の一行が各家を回って獅子舞で厄払いをしながら、言わば興業代金に相当する「一升米」を布袋で受け取っていました。夜は演劇です。丁度、現在の新劇調の芝居です。日中のうちに舞台となる先ほどの家の大広間を仕切って、芝居の舞台と客席が準備されました。夕食を終えた観客が、部屋が満杯になるほどに集まりました。一座は毎年、異なる芝居をなさったようですが、何分にも私は子どもでしたので、二つの芝居しか記憶にありません。その記憶にある芝居の一つが、「番場の忠太郎」です。一座の座長が忠太郎の役で、母親役も男でした。子どもにはよく理解できない内容ですが、汗だくで演じている役者の意気込みだけは伝わってきました。翌年は一変した芝居でした。雑誌「少年画報」で人気漫画の「赤胴鈴之助」です。主役の赤胴鈴之助、友人の竜巻雷乃真、悪者の手先ガクリン坊は少年か青年の設定ですが、役者はおっさんたちです。本当は大きな違和感があるはずですが、子ども達にはよく理解できる芝居でした。赤胴鈴之助は窮地に嵌ると、真空切りで悪者を懲らしめてフィナーレを迎えました。観客の拍手喝采です。

 永年の間、村人に親しまれた神楽でしたが、やはりテレビが普及すると娯楽性が薄れて夜の演劇がなくなり、さらに各戸を回っての厄払いもなくなってしまいました。あの神楽の一座の人たちは何処から来てくださっていたのか、今でも分かりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする