-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

東根にも源右衛門がいました。

2015-10-03 09:58:17 | 歴史

 畑沢の有路源右衛門家の家系図によると、源右衛門とは、野辺沢氏に家老として仕えた有路但馬守の孫が改名した名前で、その後代々、引き継がれた名前とされています。有路但馬守の息子である猶昌は二歳(数え年)の時に父親と死別して、母方の親戚である里見蔵人に預けられました。さらに、猶昌が成長すると有路治郎右衛門の養子となりましたが、治郎右衛門に実子が生まれたので、猶昌の新たに家を畑沢に建てたということです。

有路家の氏神として建てられた熊野神社

 さて、話は変わりますが、先の投稿で紹介しました「東根市史編集資料」を眺めていると、東根城主のことに目が留まりました。城主は里見源右衛門。元和七年(西暦1627年)に里見源右衛門景佐が亡くなって、息子の源右衛門親宜が家督を継ぎました。ところが、翌、元和八年には最上が改易され、里見源右衛門親宜も阿波に流され、その子孫は東根源右衛門と称していたそうです。

 さて、有路但馬守の妻が里見家に所縁があり、かつその孫が「源右衛門」と名乗ったのは、この東根の源右衛門と関係があるように感じてしまいました。野辺沢家は二万石の領主で、最上家臣の中では最高幹部の一人でした。有路但馬守はその野辺沢家の筆頭家老ですから、有路家の縁組相手が里見家であったとしても不思議ではないような気がします。ただし、これは尋常な状況での縁組ではなかったのではないかと想像させることがあります。関ケ原の戦いが終了してほぼ完全に徳川の世になったのですが、最上家内部では家督相続等に関連して揉め事が絶えることがありませんでした。最上家が改易される三年前(西暦1619年ごろ)には、里見源右衛門景佐は「最上家が滅びる」と予言していたそうですから、景佐はそのための対策として、緊急に有路家への縁組をしていた可能性があります。何しろ、この時期には有路但馬守は高齢だったはずですから、今さら縁組と言うのも極めておかしな話です。また、既に有路但馬守には成長していた子供がいたであろうことは当然に考えられることです。新たに東根城主に所縁の人を迎えるとなると、正妻を交換するぐらいの覚悟が必要ですし、嫡男がいればこれを廃嫡しなければならない事態も生じます。

 ところで、最上の封人の家(最上町堺田)が有路小三郎を祖とすると言われています。しかも野辺沢家の家老の血を引く者だったとの伝説があります。小三郎は背中炙り峠の楯を任されていたような重要な人物見られますので、家老の家柄だったというのは十分に可能性があることです。また、小三郎は最上家改易の前に堺田に移り住んだとも言われているところを見ると、有路但馬守の跡継ぎを止めてしまったとも思われます。

 これらのことを繋げて考えると、最上家内部のいざこざによってどんなことが起こっても不思議でない危機的状況の中で、家臣たちは生き残りをかけた対策に翻弄されていたものと思われます。その一つの対応が有路家と里見家の無理やりな縁組であったかもしれません。そのために、家族の仲を引き裂かれて泣く泣くその決断に従っていたのではないでしょうか。この話はあくまでも私の拙い想像ですが、それでも私がこれまで謎に思っていたことが解決するような気がします。

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ふと、こんな資料を見ました。

2015-10-02 19:13:06 | 歴史

 山形県立図書館で、畑沢の江戸時代の生活を比較するために、東根市史の資料を見ていました。

 「元禄五年 村山郡猪野沢組野川村覚書之帳」という資料でした。眺めていたところ、ふと、見たことがある漢字を含んだ、次の内容に興味を持ちました。

(元々は縦書きですが、横書きに表わします。)

 一、寺退転之地 壱ケ所 (禅宗 正福寺、只今竹藪ニ而成候)

   但 何年前ニ退轉申候哉不奉存候

   現代語訳

 一 寺がどこかへ行った場所が一ケ所  (禅宗の正福寺でした。今は竹藪になっています。)

  ただし、何年前にいなくなったのかは分かりません。

 

 この中の「正福寺」はどこかで見たような気がします。以前、このブログで畑沢村差出明細帳のことを取り上げたことがあります。その中にあった山伏の名前が「正福寺」でした。その時は、特段、その名前についての説明をしていませんでしたが、実はその名前に違和感を覚えていました。他の地区の山伏の名前を見ると、どこも「〇〇院」とか「〇〇坊」になっていました。山伏でありながら「〇〇寺」となっている者はいません。畑沢だけが何故、このような名前となっていたのかが不思議でした。でも、私のいい加減な性格が「まあ、いいか」で済ましてしまっていたのです。「どうせ私は素人ですから分かるはずがない」の調子です。

 しかし、この野川村の資料に接することで、学術的ではないが「想像的」な発想が生じました。決して「創造的」ではありませんことをお断りしておきます。

 全国的に見れば、「正福寺」という有名なお寺はありますが、それでもそんなに簡単に名乗れるものではないはずです。江戸時代においては、寺も幕府の支配体 制に組み込まれて、「お役所」的に役割さえも与えられています。すなわち、野川村の正福寺も畑沢の正福寺も好き勝手に名乗ったものではないと思います。とすると、この二つの「正福寺」は同一である可能性が出てきました。元禄五年は西暦1692年です。野川村とは、現在の東根市大字野川のことです。西暦1692年には、既に正福寺はなくなっており竹藪になっているほどに荒れ果てていました。寺がなくなってから10年以上は経っていたのでしょう。この野川村の覚書帳には、外に禅宗の「龍昌寺」があると書かれています。龍昌寺は正福寺がになくなってから建てられたのか、それとも正福寺と並存していて競争があったのかは分かりませんが、同じ村に二つの禅寺が共存することは難しかったでしょう。龍昌寺がいつ建てられたかを調べれば、このあたりが判明することと思います。さて、畑沢村の差出明細帳は正徳四年(西暦1711年)です。野川村から正福寺がなくなった時代よりも20年以上も後になります。そこからが私の想像的思索の世界に入ります。

 事情があって野川村を出た若い正福寺は、背中炙り峠を越えて畑沢村に着きました。しかし、畑沢村は、既に禅宗の龍護寺の檀家になっていたので、寺を建てることができません。しかし、寺としての宗教知識と読み書きができるので、「山伏」として生きることにしました。

 と言うのが、私の「想像的思索」の全部ですが、なんとも乏しい想像で申し訳ありません。

 

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