-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その4】

2018-10-13 19:39:58 | 歴史

(3) 銀山との関わりで出て来る大戸姓

 野辺沢銀山との関わりで大戸姓が出てきます。銀山に関する三つの資料があります。「大銀山としての野辺沢銀山」「延沢銀山の話」「尾花沢風土記」です。これらの資料によると、西暦1741年~1743年に江戸の大戸伝右衛門が銀山の再坑を試みたが失敗したと書かれています。また、「大戸の先祖は銀山の山師であった」との口伝がありますので、私はこの大戸伝右衛門又はその人物に深い所縁のある者が、畑沢に定着したと見ています。徳専寺もこの時期に畑沢に移ったのではないかと思います。そしてこれと符合するようなことが「郷土Ⅱ」に次のように記載されています。当時の楯岡高校社会部の恐るべき調査能力です。今ではどうしても手に入らない、極めて貴重な記録を調べ上げました。

 

…延享四年には徳専寺が村内の市郎兵エなる人物に田地を質物に入れておりますので、既に畑沢の住民となっていたことがわかります。…

 

 延享四年(1747年)は、大戸伝右衛門が銀山の再坑を試みたが失敗した時期の少し後になります。「銀山採掘に失敗した大戸とともに、徳専寺は1740年代の半ばに銀山から畑沢へ移った」と考えても無理がなさそうです。古瀬姓と有路姓は総てが龍護寺の檀家となっていて、大戸姓のかなりの戸数が徳専寺の檀家であり、また徳専寺の檀家の殆どは大戸姓でした。銀山、徳専寺、大戸姓の間には時代的に強い繋がりを考えられ、大戸伝右衛門又は伝右衛門に所縁の者が、畑沢に定着した可能性があります。

 一方、山楯を守っていた荒屋敷などの村人は、徳専寺が銀山から畑沢へ移るよりもずっと前からそこに住んでおりますが、明治維新直後は、荒屋敷全戸が大戸姓であったようです。畑沢の古瀬姓や有路姓を見ても分かりますが、すべてが龍護寺の檀家になっていますし、当然、徳専寺が銀山から移転する前は、荒屋敷の人々も既に存在した龍護寺の檀家になっていたと思われます。それを徳専寺の檀家に変わるには、よほどの影響力を持つ人物が畑沢へ入ったと見るべきかと思います。大戸伝右衛門又は伝右衛門に所縁の者が、徳専寺とともに畑沢へ入り、荒屋敷などの村人に多大な影響力を持っていて、明治になってから荒屋敷の人々が大戸姓にした可能性があります。


 

(4) 石仏に見られる大戸姓

 上記(3)では大戸姓を銀山と関係付けて明治以降の大戸姓を考えてみましたが、実は既に江戸時代の石仏に大戸姓が出ています。南の沢にある墓地の石仏です。次の写真は嘉永四年(1854年)に造立した百万遍供養塔です。

 石仏の背面に、施主として「大戸☐☐☐」と「大戸△△△」の名が刻まれています。江戸時代は公式な場における苗字は禁止されていたのですが、私的な石仏には苗字が多く刻まれています。両家は大戸姓でありながらも、徳専寺の檀家ではなく、龍護寺の檀家で、荒屋敷に居住していました。両者のうち特に☐☐☐家は、享保年間に石仏や不動尊の堂も建てたようで、畑沢ではかなり勢いのある家だったようです。それらの状況を考えると、荒屋敷を中心とした家では、明治になってから☐☐☐家に倣って大戸姓を名乗った可能性もあります。☐☐☐家は、元々、畑沢になかったが、後から移って来たとの言い伝えがありますので、大戸姓を持ったまま畑沢の住人になったかもしれません。

 しかし、☐☐☐家と△△△家も、既に江戸時代において、銀山に関わる大戸家に倣っての大戸姓を用いていた可能性もあります。結局、大戸姓ルーツの確証は何処にもありません。

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畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その3】

2018-10-12 10:10:10 | 歴史

(2)  北村山郡史に出て来る大戸・古瀬の姓

 田村重右衛門氏が1979年に著した「野辺沢家と霧山城」で北村山郡史上収文書を引用しており、その中に大戸姓の家臣名が次のように出ています。

  三百五十刈 大戸内匠助      千百刈   大戸大学


 しかし、この大戸姓2名は野辺沢家の直臣であり、笹田の家臣ではありませんので、荒屋敷の大戸姓とは異なると思われます。畑沢以外の尾花沢市内や鶴岡市内にも大戸姓がありますので、そちらの御先祖かもしれません。

「尾花沢市史の研究」で引用している「北村山郡史上所収文書」には古瀬姓の家臣も次のように記載されていました。


    知行之判取之事

    山検  柳渡戸  古瀬蔵人

    千五百六十束刈 十壱俵七升八合所

    田    北郷ニ有年貢ト一所

         七十 刈  一俵四升所

    ……

    元和四年閏三月十三日 光昌 花押

         有路小兵衛 殿

 元和四年(西暦1618年)は、最上家が改易され野辺沢家も領地召し上げとなる元和八年の4年前です。この時、古瀬蔵人は柳渡戸に住んでいて、北郷にも田を持っていたと見るのでしょうか。ただし、この資料にある「山検」が何を意味しているかが分かりません。

 また、「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」の「畑沢楯」の説明書きには、次の記載がありました。


  下畑沢の旧徳専寺南部の丘陵全体が、……。伝承では古瀬蔵人が楯主とされる。


 畑沢楯(山楯)は下畑沢です。楯主なら楯の近くに住居があるように思えますが、古瀬一族は上畑沢に住んでいますし、先述のとおり山楯の主は笹田であると思われます。また、畑沢で山楯の主について聞いてみましたが、山楯の楯主が古瀬蔵人であるとの伝承はありませんでした。

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畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その2】

2018-10-11 10:10:10 | 歴史

(1) 延沢軍記に出て来る有路・豊島の姓

 さて、ここで畑沢の姓に関わると思われる古文書を紹介します。延沢軍記の龍護寺本と片仮名本には、野辺沢満重(初代城主)が領内の重要な地点に武将を配置したことが記されています。

 ところで、「延沢軍記」についての説明は、2017年2月16日の畑沢通信に[「延沢軍記」のつまみ食い(1)]として説明してありますので、御覧ください。

 

-龍護寺本-

依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、小国越には切田作左衛門外三人、行沢には石山鉄之助、奥越には菅野八左衛門、二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥

 

―片仮名本―

依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥

 上の文章では見にくいので、次の表に野辺沢満重から命じられた場所と名を受けた家臣を整理しました。


   守備場所      命を受けた家臣

   上野畑 ‥‥‥ 鎌田丹波  添番‥高橋某

   楯岡越 ‥‥‥ 笹田甚五右衛門古瀬正太  添番同心五人

   小国越 ‥‥‥ 切田作左衛門 外三人

   行 沢 ‥‥‥ 石山鉄之助

   奥州越 ‥‥‥ 菅野八左衛門

   二藤袋 ‥‥‥ 細谷大學

   丹 生 ‥‥‥ 堀内傳内  倉番‥折原戸田の進  外二十人


 畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢領から楯岡へ行くには、畑沢村を通って背中炙り峠を越えていました。従って、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、そうではなくて「楯岡越えの方向」と解すべきです。その道筋には、山楯山、おしぇど山、背中炙り峠の三か所に楯がありました。しかし、野辺沢満重(没1559年)の時代は、関ケ原の戦い(1600年)のために用意されたと見られる背中炙り峠の楯は、まだ築かれていなかったはずです。そして、5に既述したように山楯とおしぇど山の楯は新旧の違いだけで、別物ではなく一つの楯と考えるべきです。そうすると、おしぇど山の楯を含む山楯の大将格の人物がこの笹田甚五右衛門と古瀬正太のどちらかになります。

 笹田姓と古瀬姓のうち、今も畑沢に残っているのは上畑沢の古瀬姓です。古瀬正太の一族とその近い位置関係にあった者たちが、明治以降に古瀬姓を正式に名乗ったと思われます。しかし、盾の大将格である古瀬正太の子孫が、山楯から遠くの上畑沢へ移ったとも考えにくいし、そのような言い伝えも全くありません。古瀬正太が山楯の守りに就いていたとは、とても考えにくいものです。

 さて、この笹田姓と古瀬姓は、延沢軍記の塚田本の拾勇士にも、「野辺沢家と霧山城」(田村重右衛門著 1979年発行)で引用している「北村山郡史の所領判別帳」にも出てきません。笹田甚五右衛門と古瀬正太は所謂、直臣という者ではなくて、それぞれの地に暮らしている土豪的な家臣だったと考えられます。ただ、野辺沢家の領地が召し上げられてから、野辺沢(延沢)領に残った家臣たちの名前の中に、笹田家に関しての記述が、延沢軍記の塚田本にあります。

  笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり

  ‥‥‥

  此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、

 名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり

 笹田は、単なる雑兵ではないらしく「頭立つる」程度ですので、配下の者を有している家臣だったようです。笹田は最上家改易後も暫くは野辺沢領に残ったようですが、今、尾花沢市及びその周辺にも笹田姓が残っていないことを見ると、その後に仕官などを求めて遠くへ移ったようです。荒屋敷の大戸正雄氏によると「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」、「荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門で、その配下の者たちは、荒屋敷にそのまま残ったものと思われます。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。それでは、どうして笹田が去った荒屋敷地区の家々が大戸姓を名乗ることになったのかが問題ですが、そのことについては、もう少し後ろのところで考えます。

 さて、それでは「楯岡越」の守りを申しつけられた、もう一人の家臣である古瀬正太は、何処の楯を守っていたのでしょうか。古瀬正太のいた時代に、まだ背中炙り峠の楯がなかったであろうことは、前述しました。また、背中炙り峠の楯は、「村人のための城」程度ではなく、その位置的な関係や構造を見ると、楯岡側からの攻撃に対処するための本格的な楯です。野辺沢軍が南へ出陣する時と、南からの侵攻に対する防御の要です。守りには直臣クラスの者が関わっているものと思われ、とても古瀬正太の子孫がその大将格を務めることも考えられません。ただ、古瀬姓が住んでいる上畑沢は背中炙り峠に最も近く、同地区には楯跡そのものと堀切に関する「ほっきり」というかなり専門的な言葉が残されています。背中炙り峠の築造とその守りに深く関わっていた人々だったことは間違いなさそうです。それでは、古瀬正太は上畑沢に別の根拠地とすべき「村の城」を持っていたと思われますが、上畑沢にそれらしき跡がまだ見つかっていません。しかし、何処かに必ずあったはずです。古瀬姓はこの古瀬正太が配下に置いていた村人たちを中心にして名乗られることになったことでしょう。

 次に、延沢軍記の塚田本には、十勇士の一人として豊島姓の家臣も出ています。

      延沢家拾勇士

   有路但馬 弐百八拾石      笹原岩見 弐百五拾石

   落合周防  百五拾石      豊島飛騨  百五拾石

   松倉 五拾石  土屋 三十石  鎌田 五拾石

   細谷 二十石  高橋 三拾石  石川 弐拾石


 この中で、畑沢に関係する姓は、有路但馬と豊島飛騨です。有路但馬は笹原岩見とともに野辺沢家の家老なので、延沢軍記には厭というほど登場していますし、有路姓は別の資料のところで後述します。この家老たちとともに、豊島姓の者も十勇士として名を並べています。なお、延沢軍記では「豊島」も「豊嶋」も混在していますので、使い分けしていないようです。

  豊嶋 先祖武蔵の士、豊島太郎とて弓の名人なり、小笠原基正の門、其族宝蔵院流槍の名人

    なり、此地に来り、大學介の臣たり

 大學介とは、野辺沢家の先祖、北条大學介平満定のことで、西暦1330年に紀州熊野からやってきたと伝えられていることから、この豊島家は大分、前から野辺沢家の家臣になっているということになります。そして、最上家改易後も野辺沢領に残った者がいたようです。

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畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その1】

2018-10-10 19:38:38 | 歴史

 閲覧者から有路姓、古瀬姓、大戸姓についてコメントをいただいておりました。その時から大分、日数が経ってしまいましたが、あらためて畑沢に残っている苗字について、歴史的な面から検討してみます。何回かに分けて投稿いたします。

 個々の姓の説明に入る前に、畑沢の姓について概略を説明します。今の戸数は昔と比べると激減していますので、昭和30年ごろの畑沢における戸数を対象にします。その頃、畑沢の姓別の戸数は次のとおりでした。

大戸……24戸   古瀬……18戸   有路……15戸    豊島……4戸   菅戸……2戸

青井……1戸   矢萩……1戸   川辺……1戸         【合計66戸】

 

 大戸姓、古瀬姓、有路姓が圧倒的に多いことが分かります。明治8年(西暦1875年)に平民苗字必称義務令によって、国民すべてが苗字を名乗らなければならなくなった時に、元々、先祖が苗字を有していた家ではその姓を名乗ったでしょうが、その他の大部分の家では新たに姓を考えなければなりませんでした。その際に、自分に関わりがある地元の有力者に倣った姓にすることが多かったようで、畑沢の場合もそのために大戸、古瀬、有路の姓が多くなったと思われます。

 それでは、その三つの姓について考えるにあたって、大まかに三つの姓とその所在について考えてみます。畑沢の中でも分家や引っ越しがあったようですので、それらを整理して元々の大戸、古瀬、有路の姓の所在を下の図にまとめてみました。

 道は現在の県道ではなくて、古道を示しました。地図は、かなり大雑把な内容になっています。大戸姓は岡田沢から荒屋敷地区、有路姓は向かい地区、古瀬姓は上畑沢・清水畑地区に始まると仮定しました。

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少しだけですが、山の木の葉が色付いてきました

2018-10-07 18:16:41 | 近況報告

 実家のペンキ塗りをしていますが、昨晩はカメムシの大群に恐れをなして山形へ退散したので、再び早朝に山形を出発して峠を越えます。いざ峠への道に入ろうとしていた時に、東の山々が奇麗に見られました。背中炙り峠の楯跡がある山もはっきり見えます。いい機会ですので、村山市中沢方面から見た楯跡の解説をします。えっ、何回も見せられたので、もう結構とおっしゃるのですか。そう言わないでください。私にできるのは、それぐらいしかないのですよ。

A;「背中炙り峠」  峠の地蔵堂、湯殿山、山神があります。

B;「曲輪」  最も北側の曲輪です。

C;「堀切」  主郭に登る虎口もあります。

D;「主郭(しゅくるわ)」  楯跡で最も標高が高くなっていて、さらにその上に櫓の跡があります。  

E;「堀切」

F;「曲輪」  最も南側の曲輪です。単なる平坦な地形ではなくて、台状の地形も見られるなど複雑さがあります。謎が多くあります。

G;「堀切」  二連の堀切です。事情がありそうな地形もあります。

H;「堀切」  ささやかな堀切です。

I;「堀切」  さらにささやかな堀切です。

 

 ペンキ塗りを始めたものの、ほんの二時間ほどで小雨が降ってきましたので、作業を中止し秋の雰囲気を楽しみに山際を散歩しました。山の本格的な紅葉はまだですが、気の早い樹種は赤くなっていました。紅葉が早いのは漆です。実(み)が豪華な簪(かんざし)のようにぶら下がっています。漆の実には蝋の成分があると聞いたことがあるようなないような。ところで、この漆では、漆塗りできないそうですね。ついこの間まで漆塗りに使えると思って、いつか大きく成長させれば、樹液を採れると期待していました。金に目がくらんでいたのでしょうかね。

 沢の中に入ると、ツリフネソウなども咲いていました。外にも、しそ科の花も咲いていましたが、名前が分かりません。ネットで探すと、アキチョウジの画像が似ていましたが、全く自信がありません。

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