宮崎県に飫肥(おび)と言う地名があることは知らなかったです。
期待せず訪れたのですが、まず案内所へ行きました。
そこでボランティアのガイドさんと出会い
1・2分話すと「時間はあるのですか?」と聞かれ
「十分ありますよ」と答えると
微笑みながら「では参りましょう」と。
まずは飫肥(おび)というところは
飫肥杉という有名な杉が生産されるところなんだそうです。(日本一とか?!)
油分があって建材として優れているそうです。
(水を弾くそうです。)
パワースポットに立つと不思議な力を受けることができるそうです。
(ガイドさんの頭皮に頭髪に異変が起きました)
そして今回一番感銘を受けたのは
ガイドさんから解説を受けた「小村寿太郎」のことです。
教科書で習った小村寿太郎は日露戦争後ポーツマス条約の時の外交官、外務大臣。
日露戦争は日本が勝ち朝鮮半島や清国の租借権や樺太の南半分は取れたのですが
賠償金を獲得するところまではいかなかったのです。
実はそこに大きな判断があったそうです。
もし日本が賠償金をロシアに求めていたら
ロシアは終戦を認めず戦争は泥沼化になり海軍で終わらず
陸軍が主体の地上戦がさらに激化するとなっていたそうなんです。
英語もロシア語も堪能な小村寿太郎だったので
敵はフランス語で話し合っていたのだそうです。
その内容を聞くと「これ以上賠償金を求めることは
日本にとって良くない」と判断して講和条約に調印したそうなんです。
その結果日本に帰ってきた小村寿太郎は国民から総スカンくらったとか。
ガイドさん曰く「もし小村寿太郎がいなかったら今のウクライナの様になっていたかも?」
150センチにも満たない小さな小村寿太郎が大男の欧米人と渡り合った姿を想像すると
今の日本があるのは小村寿太郎のお陰かも?なんて大袈裟ですが
ガイドさんの話を聞いてそう思えました
なんと2時間以上ガイドをしてくれました。
許可をもらって撮影させていただきましたが
70歳には思えない若々しいガイドさんでした。
ご本人は「あの4本の杉の真ん中にいつも立ってるからパワーをもらっている」と
「関税自主権を回復させた」という
大きな成果がありましたね。
陸奥宗光や小村寿太郎のような
外務大臣が今の時代にも
必要な気がします。
宮崎、やっぱり行かなくちゃ。
日清戦争の講和条約である
下関条約について学ぶことが多かったです。
時代が違うと言えばそれまでですが
明治時代の政治家は
大きな志を抱いていた気がしますね。
ガイドさんがいるといろんなことが知れて興味深いですよね♪親切なガイドさん、楽しそうですね!
パワースポットも良いことありますように!
小村寿太郎のように4か国語くらい話せてほしいですね。
彼がフランス語を理解してなかったなら
賠償金の請求に固執して戦争は終わってなかったでしょうね。
今頃北海道はロシアの領地だったかも知れません。
九州より東北が好まれるでしょうね。
でも一度は九州一周してほしいですね。
旅にも深みが出ますよね。
ただ聞いてもすぐ忘れるのでメモが必要になります。