1月4日のNHKの「小さな旅」を見た。
山形県鶴岡市行沢(なめざわ)の「とちもち」の話だ。
「新年を呼ぶ恵みのとちもち」がタイトル。
行沢では、入会地?(入会地(下記注1:いりあいち)(番組では共有財産といっていた))にあるトチの実を地域の人がみんなで拾って、餅米と一緒にトチ餅をつくという話であった。
入会地では昔(江戸時代)からトチノキを育てているとのこと。
このトチの実を拾って、灰を使ってあくを取り、手数をかけて餅米に入れて独特の風味(苦みがあるとのこと)があるトチ餅を作るそうだ。
この番組を見ていて、驚いたことがある。
それは、山に入って「トチの実」を各人が拾った後、いったん全部を集めて、平等に分け直すというところだ。
「成果主義」になれきってしまっているので、拾った分だけ自分の分というのは「当然」と思っていた。
それなのに、拾ったトチの実全部を全部集めて、平等に分けて再配分する。
よく考えてみると実に合理的であることが理解できる。
なぜなら、拾った分だけ自分の分にしたところで、どうやってそれを処理するのか?
食べきれないトチの実でいっぱいになってもしようがない。
また、灰を使ってあく抜きをするとのことだが、一つ一つ手作業で灰と一緒にこねて処理していくことは、大変な労力である。
さらに、仮に拾った分だけ自分の分という「成果主義」であるなら、そもそも「入会地」ということが成り立たない。
「入会地」は、住民がいわば共同で利用できる「山」である。
それが、「成果主義」になれば、共同で利用することそのものが成り立たなくなる。
そもそも山でトチの実を育ててきたのは、非常事態への備えからであろう。
飢饉や凶作の時、米がなくても「トチの実」を食べてそれこそ「生き残る」ためだと思う。
だから、そのことを忘れないように、行沢では、毎年9月になると「トチの実」を共同で拾って、暮れに「トチ餅」にして食べるのだろう。
一言で言うと、この行沢の「とちもち」づくりは、つながっていくための「知恵」である。
第一に、行沢の人々が共同して、非常事態に備えてトチの実を食べてでも「生き残る」ため。
第二に、「生き残る」ためには「入会地」での「共同」の「トチの実」拾いをして行沢の人々が「つながっていること」を忘れないため。
第三に、「入会地」を共同して作って、手を入れていることを忘れないため。
であろう。
仮に、「成果主義」で個人の「能力」に応じて「トチの実」を「独占」したらどうなるだろうか?
一時はいいかもしれない。
だが、「トチの実」を処理する「灰」はどこから手に入れるのだろう?
有り余った「トチの実」を「市場」で売ったとしても、誰がどうやって「トチの実」を食べられるようにするのだろう?
どこかの国は、「自己責任」「自己責任」と言って、「成果主義」をどんどん広めた。
結果、ピンハネしたお金を「市場」で「投資」して「マネーゲームに興じた」結果が現在の姿だ。
そこには、どこにも「非常事態」に備える準備がない。
「非常事態」に備えて「つながろう」とする意図も感じられない。
感じられるのは、「自己責任」「自己責任」と言って、人間を「分断」する意図だけが感じられる。
行沢のように人間が生き残り、生命が連続することさえ「分断」しようとする意図が感じられる(注4)。
すべての「つながり」を「分断する」意図だけが感じられる。
さっきまで、「世界不思議発見」を見ていた。
「ブータン」(注2)の王様の姿を写していた。
私が、感激したのは、ある女性が、
「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています。だから、私はこの国のために何かできることがあればやりたい」
というような意味のことを話していた。
わざわざ「愛国心」なんてことを「教条」的にいう必要はないのだ。
人々がほんとうにそう(注3)思っていれば、黙っていても人々は「国」にために尽くす気持ちを持つのだ。
それをわざわざ「法律」にせねばならないところに、どこかの国の愚かしさがある。
「自己責任」「自己責任」と言って、どこかの国は「自分の責任は棚にあげて」何もしてこなかった。
そのことが、「世界不思議発見」の「ブータン」を見て、どこかの国の現状と見比べてよく分かった。
注1:入会地
注2:ブータンでは、国民の95%が「幸福」であると感じているという調査結果が2005年に出ていると「世界不思議発見」で言っていた。
注3:どこかの国は、言ってることとやってることが正反対だ。口では、「愛国心」と言いながら、やってることは「成果主義」で「分断」している。もちろん、ここで「そう」思っているとは、「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています」を指す。
注4:実際、番組であったように勤め人は、「とちもち」を購入して送っていた。
山形県鶴岡市行沢(なめざわ)の「とちもち」の話だ。
「新年を呼ぶ恵みのとちもち」がタイトル。
行沢では、入会地?(入会地(下記注1:いりあいち)(番組では共有財産といっていた))にあるトチの実を地域の人がみんなで拾って、餅米と一緒にトチ餅をつくという話であった。
入会地では昔(江戸時代)からトチノキを育てているとのこと。
このトチの実を拾って、灰を使ってあくを取り、手数をかけて餅米に入れて独特の風味(苦みがあるとのこと)があるトチ餅を作るそうだ。
この番組を見ていて、驚いたことがある。
それは、山に入って「トチの実」を各人が拾った後、いったん全部を集めて、平等に分け直すというところだ。
「成果主義」になれきってしまっているので、拾った分だけ自分の分というのは「当然」と思っていた。
それなのに、拾ったトチの実全部を全部集めて、平等に分けて再配分する。
よく考えてみると実に合理的であることが理解できる。
なぜなら、拾った分だけ自分の分にしたところで、どうやってそれを処理するのか?
食べきれないトチの実でいっぱいになってもしようがない。
また、灰を使ってあく抜きをするとのことだが、一つ一つ手作業で灰と一緒にこねて処理していくことは、大変な労力である。
さらに、仮に拾った分だけ自分の分という「成果主義」であるなら、そもそも「入会地」ということが成り立たない。
「入会地」は、住民がいわば共同で利用できる「山」である。
それが、「成果主義」になれば、共同で利用することそのものが成り立たなくなる。
そもそも山でトチの実を育ててきたのは、非常事態への備えからであろう。
飢饉や凶作の時、米がなくても「トチの実」を食べてそれこそ「生き残る」ためだと思う。
だから、そのことを忘れないように、行沢では、毎年9月になると「トチの実」を共同で拾って、暮れに「トチ餅」にして食べるのだろう。
一言で言うと、この行沢の「とちもち」づくりは、つながっていくための「知恵」である。
第一に、行沢の人々が共同して、非常事態に備えてトチの実を食べてでも「生き残る」ため。
第二に、「生き残る」ためには「入会地」での「共同」の「トチの実」拾いをして行沢の人々が「つながっていること」を忘れないため。
第三に、「入会地」を共同して作って、手を入れていることを忘れないため。
であろう。
仮に、「成果主義」で個人の「能力」に応じて「トチの実」を「独占」したらどうなるだろうか?
一時はいいかもしれない。
だが、「トチの実」を処理する「灰」はどこから手に入れるのだろう?
有り余った「トチの実」を「市場」で売ったとしても、誰がどうやって「トチの実」を食べられるようにするのだろう?
どこかの国は、「自己責任」「自己責任」と言って、「成果主義」をどんどん広めた。
結果、ピンハネしたお金を「市場」で「投資」して「マネーゲームに興じた」結果が現在の姿だ。
そこには、どこにも「非常事態」に備える準備がない。
「非常事態」に備えて「つながろう」とする意図も感じられない。
感じられるのは、「自己責任」「自己責任」と言って、人間を「分断」する意図だけが感じられる。
行沢のように人間が生き残り、生命が連続することさえ「分断」しようとする意図が感じられる(注4)。
すべての「つながり」を「分断する」意図だけが感じられる。
さっきまで、「世界不思議発見」を見ていた。
「ブータン」(注2)の王様の姿を写していた。
私が、感激したのは、ある女性が、
「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています。だから、私はこの国のために何かできることがあればやりたい」
というような意味のことを話していた。
わざわざ「愛国心」なんてことを「教条」的にいう必要はないのだ。
人々がほんとうにそう(注3)思っていれば、黙っていても人々は「国」にために尽くす気持ちを持つのだ。
それをわざわざ「法律」にせねばならないところに、どこかの国の愚かしさがある。
「自己責任」「自己責任」と言って、どこかの国は「自分の責任は棚にあげて」何もしてこなかった。
そのことが、「世界不思議発見」の「ブータン」を見て、どこかの国の現状と見比べてよく分かった。
注1:入会地
注2:ブータンでは、国民の95%が「幸福」であると感じているという調査結果が2005年に出ていると「世界不思議発見」で言っていた。
注3:どこかの国は、言ってることとやってることが正反対だ。口では、「愛国心」と言いながら、やってることは「成果主義」で「分断」している。もちろん、ここで「そう」思っているとは、「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています」を指す。
注4:実際、番組であったように勤め人は、「とちもち」を購入して送っていた。