普賢岳の噴火前の一連の流れをドラマ化した番組を見たが駐在さん役の不和万作の皆を気にかける演技が私の涙を誘った。
ドラマでは、悪い事を描けないので、そのままで終わったが、実はニュースなどで、特に地元のニュースでは小汚い点が出ているのを全く気にせずに糞みたいな事をほざいているクズがいた。
ドラマでは九大の地震研の教授の苦悩を描いていたが、あんなものではなかった。実際、噴火の一週間後ぐらいの日に危険地域の交通封鎖は島原の無垢な市民の脅迫によって無理矢理開かれる事が確定していた。
そして馬鹿どもの甘い楽観主義を現実が教えてくれたのだ。噴火の発生はありえないとは、津波なんぞ起きないとほざく経団連の糞馬鹿や東電の糞馬鹿と同じ程度の糞を20年ほど前に島原でやったのだ。
何故請うまで悪感情なのかといえば、当時のテレビを見ると分かると思う。見ている人は大体分かるのだ。
大体島原にいる奴で、理科年表を見た事のある奴はほぼいない。0といっても過言ではない。その中の地震の項目は、小さな字で書かれているが、それはそれはおどろおどろしい記録の連鎖である。私も東北大震災が起きる前に、江戸時代と明治時代に大きな津波があって、一万人ぐらいが死んだんだけどなぁ~。と思っていた。そこまで知っているのだが、まさかあれが起きるとは思わなかった。
そんな私の馬鹿の吹聴する楽観主義を本当に心底嫌うようになった所以が普賢岳火砕流である。同時に島原の連中が嫌いになった。何故なら嘘を言わないで、皆の安全を考えている九大の地震研の教授を馬鹿が馬鹿面して、知ったような事をほざいて、こき下ろしまくったのである。その結果死人が出た。死んだ人は可哀想と思うのだが、しかし、度胸がよすぎたという事も否めない。それは、それぐらい甘く見ていたのだ。
警告は大声ではないのだが、だが確実にしっかりと言われていた。それを信用したのは死人が出た後だった。「それでは遅い」九大の教授は、それを言っていた。だが「そんな事は起きない」と過去の事例を知るわけでもないし理科年表の地震の歴史を見た事のない奴等が馬鹿が馬鹿面をして馬鹿だから断言した。その馬鹿に馬鹿であると分からせる為に「貴重な犠牲」が起きたのであり、危険を危険と理解していれば、そんなもの出なくてよかったのだ。
この九大の教授の発言を九大の教授の責任にしたと言う行政の不心得も大したものだった。それを義務と誠実の人、九大地震研の教授は一人でプレッシャーに耐えて、自分の科学的見識と良心と、悪態をつく島原の連中の命を守っていたのである。だが火砕流が起きてもぶちぶち下らないことをほざく奴がいたのを私は知っている。
それからすると地震学者が起訴され、有罪が確定するとは、言い方が違うかもしれないがチャップリンケースと同じような法律上の命名が行われるのではないかと思う。
この問題は「馬鹿こそ無敵である」と言う下衆で低脳で無能なモンスターの問題となる。知れば知るほど不幸になるなら知らない馬鹿で低脳治れだけど権限だけは持っている、そして責任を他人に取らせる権限も持っている。そんな奴が仕切る世界は、常に福島第一原発を爆発させる愚行を繰り返すだけである。その際たるものが米倉経団連会長の馬鹿面と英断と今痴呆症の頭で思っている愚行であろう。
さてイタリアの地震問題で地震は起きないと言った地震学者と政府関係者が有罪を取られた。だが私は普賢岳火砕流問題の前後を知っているから辟易している。また、この問題を考える上で1990年代にギリシアで起きたVAN法の問題を考える必要性がある。
これはギリシアの地震学者でソクラテスとか言う先生だったか?彼は地中に張り巡らせたセンサーの微弱な電流を計測して地震を開発した。これをVAN法と言う。このVAN法は、実に大きな話題となった。それは的中率の高さである。基本的に90%以上の的中率であり、全体を含めても80%を越えるものだった。また的中は起きるか起きないかだけに留まらず、何時起きるかも日にち単位で確定した。一年間ぐらい疑いの眼で見られていたが、その後は神の方法と言われて信用されるようになった。
だが問題もあった。それは論理的にはプレートテクトロニクスなどの理論とは隔絶したものであると言う事(細かい事は知りませんが)それと日本などの地震予測方法とは違うものだった。地震予知は出来ないとは東京大学の鼻から息が漏れる発声法で有名なゲラー博士の「予測は出来ません」の発言がバ歌人の委員会で言われたが、ある意味正しかった。まぁ何時からなのか?は極めて特殊性が高いのでナカナカ断定や特定は出来ない。ただプレートテクトロニクスの方向性から、歪が原因となっているのは分かる。
しかしVAN法の問題は別の方向性から発生した。
「正確すぎたから」である。
VAN法は90%以上の的中率がある。だが、その正しさが「予定」に組み込まれたのである。通常「分からない」から「仕方がない=責任を取らせられない」であるが、確実となると「厄介事の合理的回避」をするのである。確実な予測だから必ず来るに違いない。だがそれが起きないと仕事を止めた損害をペイする状態とならない。だから地震が起きる予報は一旦発令し、それが角度の高い情報であればあるほど、その予報に拘泥するのである。そして発生するまで待って、その結果損失が出る。その責任は確度の高い情報の所為となる。
これは「適当な予測」で「起きる」と判断して信じた結果である。イタリアの訴訟問題は、その逆となった。地震は起きない。それを信じたのである。
VAN法は、その様な問題があってから「確度の高い予測方法」でありながら、VAN法の予測結果は報道されなくなったのである。つまり細かい実証を公表せずに確認してN増し(経験を溜めること)をやるに留まっているのである。
これが現実で、この10年ほどは、全くVAN法の情報を聞かない。これが的中率90%の地震発見法の末路である。
このVAN法を日本でやろうとした動きがあったが、断念した。理由は、日本の国情にあっているか?広い計測領域が取れるか?また電気的ノイズは無いのか?を考えるとギリシアと日本では違いすぎる事が問題となり、結局ダメだとなったのである。
色々やれそうな場所があったが、結局、VAN法は基本的にあだ花で終わったのである。だが基本的に、この問題は社会的に影響を受ける問題であり、予測が不安定なまま、大きな損失が発生する場所で生活するという問題をどう取り扱うか?の問題に結論は出ない。
精々仮設住宅の技術が上がるだけで、経済的に自立する為の法案はナカナカ出来ていない。それもだが現象が命に関わるから、社会的活動を一時期、場合によっては長期停止しなければならない。それは命を守る為ではあるが、経済的には打撃を与えるという問題は、認識はされるが、方法論はない。また大体大学の教授に押し付けられる。判断も分析も責任も。それは裁判をやって有罪になるほど酷くはないが、まぁ1990年の島原の連中の圧力は相当なものだった。
側近がある程度守れる状況を警察レベルで用意しないと出来ないのだが、問題が発生しても他人事でやっていた。結局、孤立無援である。九大の先生はよく耐えた。そして、数十人の死者は出したが、道路を開放したら、数倍は最低でも被害が出ただろうと言われている。
守る側に対して、楽観主義者の凄まじい事。そんな事もありながら、地震の存在を肯定できる人は、そう滅多にいない。九大の先生は、特別ボーナスを貰っても良いぐらいだ。だって、それだけのキツイ仕事をしたのだ。
結局、そう言うのは役所のやる事であり、文科系がやる事だが肝心の事を馬鹿文科系大学では判定、構想、執行をしない。その結果、最大の問題は、個人の努力に押し付けられるのである。
そう言う一連の問題があって、イタリアの裁判を聞くと、いい加減にしろ馬鹿の白痴野糞馬鹿野郎!と思う。
一番良いのはアメリカのFEMAの様な危機専門部署があり、そこに学者が色々アドバイスを行い、その災害の問題を対処する行動部署と連携して行う。そう言う組織が無いから、こんな事になるのではないだろうか?
普賢岳の後、長崎の消防署は、一応普賢岳対策は、消防署レベルだけど試案と、その計画はしている。しかし上の市役所はどの程度実感を持っているか疑問である。
事ほど左様に確たる対策は、何処にも出来ない。また正確な予測が可能と言う事例はギリシアでしかなく、そんな状態で、危険か危ないかは、判断できないと言うのが正しいだろう。
彼らの一番の責任は、分からないと言わなかった事だ。
だが、それが禁固何年の意味があるだろうか?