歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

後編!(下駄のロングストーリー)

2014年08月23日 21時09分27秒 | 日記

さて、江戸学のススメの「江戸の価格」の中で「下駄」が高い事に驚いた様だった。

これでも大分安くなったのだ。

さて天狗の下駄は歯が一つだ、ところが普通は二つだよね?何故?

回答っぽい奴=「昔の加工技術が低く、元々の天狗の下駄は板でなく、丸木を割ったもので、平らな所を足に、丸い方に歯を入れた。だが、それが2つ入れると割れた可能性がある」

つまり使用する木材が「へき解性」で割って作ったからなのであろう。(つまり推測)

では江戸時代は?

ここで、重要な事。この時代、日本のみならず世界的に木工技術が特に造船技術が飛躍的に進歩したのである。何とはなれば、イギリスは最高速度30ノットのカティーサーク号を作ったのも、この頃だ。

何故か?

理由は鋸(のこ)と鉋(かんな)の進歩にある。それまでも鋸はあったが、正直「使い物にはならなかった」のである。大体、木を加工する技術と言うものはシュメールの時代から大問題であって。良くオリエントの時代で「レバノン杉の伐採」とあるが、最初の頃、エジプトの古王朝時代には鉄が存在せず、またシュメールも最初斧は「青銅」だった。青銅は刃物としては鋭くて、ある種鉄を越えたものだった。だが斧となると、全く使い物にはならず、硬い木には使えず、柔らかい木にも、暫く切込みを入れると、金槌で叩いて整形する有様であった。

鉄が出来て、ようやく森林伐採が「簡単に出来る」ようになった。実は、この鉄の進化は中国と無関係ではない。中国の文化は、紀元前3000年の頃に商王朝が成立したが、この商王朝が出来た頃には中国は森林だった。黄土高原も同じく。その中、木を切れない為に文明が広がらなかった。虫獄4000年の歴史と言うが、オリエントは8000年ぐらいある。インドも同じくである。

つまり中国は文明として「新参者」なのである。その中国の文明発展を妨げていたのが森林だった。それが伐採されるようになって、ようやく中国の王朝が何とか形になったのである。その森林は最初畑を作るためにきっていたが、その後鉄が戦争に必要になり加速度的に減少し、黄土高原は漢王朝成立頃に砂漠化していたので、恐らく戦国時代に切り落とし果てたのだろう。

実は同じようにして砂漠化したのがスペインでドレークによって「口ほどにも無く惨敗」した「無敵艦隊」を作る為に国内の森林を切り落として砂漠化が進行した。スペインにとって黄金境からの黄金の入手は却って自分の首を絞めたのだ。もっと問題なのは1990年以降この砂漠化は急激に進行しており、それが止まったと言う知らせは聞かない。

この鉄器の進歩は必ず木工細工と共になっている。或いは森林伐採と対になっている。それは鉄の精錬にコークスを使うようになっても変わっていない。鉄の形態の変化は必ず、森林=材木と影響を及ぼし合っているのである。

最初の鉄は、鋭さと強靭さを求めていて、3000~3500年前にヒッタイトが鉄を作って以来、鉄の調質が問題となっており、戦争の刃物としての進化が先で、その技術の延長線上で木材加工の道具が出来た。

宮大工は何時の時代も大工の最高峰だが、この宮大工は、江戸時代になるまで平鉋(ひらかんな)は使わず、鑓鉋や手斧(ちょうな:同番組で材木問屋を説明するイメージビデオで使われていたのが「ちょうな」である。)を使って材木の表面を削った。また、五重塔などは、往々にして荒い木質を見えない所に隠している。それは鉋と鋸が使われず、使われない理由は質が悪かったのである。

特に鋸は、昔からあるにはあったが、凡そ使い物にならなかった。すぐに歯は欠けるし、直に錆びた。また綺麗な平らの鋼の板をしなやかに作れる事はなったのだ。

その最たるものが北斎の富嶽三十六景の中の板材を鋸で切る絵である。この鋸で板材が作られるのが、日本の戦国時代の前ぐらいで、それまでは割り材で作る事が多かった。その為船の船体を薄くて強い板で構成するのは、殆ど出来ないか、削り出しでやる手間のかかるものだったのである。

実は大きさだけならオリエントの時代に菱垣廻船程度は作っていたが、直に沈んだ。理由は、強度が話にならないからだ。だから外洋に出る船は鈍重ででかかった。

そこで下駄の話となる。

下駄に使われているのは、横4~5寸、長さ6~8寸程度。この程度の厚さ1寸の板材は大変高価だった。何故なら太さ1尺以上の丸太で無いといけないからだ。同番組で紹介されたように、材木は高かった。その材木の値段は太さで決まる。当時の柱では平屋で4寸角程度で、これが材木の規格となる。この材木が1尺なら4本取れる。それに比べると、下駄の板材は、鋸を入れる長さなどを考えても手間と技が要るもので、到底安くは出来なかったのだ。

また下駄に比べ草履は減り易く、消耗品で、下駄は耐久消費財である。履物と言うくくりで見ている時点で考え方が間違っているのである。更に言うと、下駄は歯を何度も変える。この歯は身と違い、小さな為に棒手振りの小資本でも買えたのである。だから容易に変えられたのだが、身の方は代々使われたようである。

更には、下駄は雨の時にも足が濡れ難い為に、上級の人が履くステイタスの高い履物だった。例えば花魁は高下駄を履いているが、それはステイタスを証明するものなのである。また、この頃普通に下駄を履いているのは、坊主である。この坊主も社会の寄生虫として、無意味に保護され、裕福を謳歌した。

さて、そう言うと、よく時代劇で子供が下駄を履いているじゃないか?と言う馬鹿が出てくるだろう。

大きさを考えろ!横2寸、縦5寸。つまり薪に毛の生えた程度の用材で作れる。だから子供用は比較的安くで入ったのである。

さて、最後にだが、宿代だが、金を払う宿では250~300文程度を出す。それでは4500円で大層高いではないか?と謂うだろう。そこが森永卓郎君が江戸時代の論説が無理なのである。

江戸時代の旅と言うのは往々にして木賃宿に泊まり、米やおかずは買ったり、取ったりして、自前で用意するのである。また木賃宿どころか、タダの宿も多かった。これを「善根宿」と言い、街道沿いにはあったのである。この善根宿を修行僧や六部(一般人が、坊主のような事をやりながら、旅をすること)が利用したが、一般人も別に差別は無い。

ただ伊勢講を旅の全てと言うのもどうかと思う。また出発起点により、費用がまるで違う。この伊勢講は遠くからの旅は命がけで、街道沿いには、旅の途中で死んだ人間の処理が、担当の藩の役目となり、これが結構な手間だったそうだ。基本的には、同じ出所の人間を関所で見つけると、故郷の近所か?と聞いて、後事を託すのである。その時持っていたものはきちんと取ってあって形見として渡されたと「泉光院」の旅日記にありました。

因みに、伊勢などの有名な所や廻船の止まる港などでは、関係が深い藩の問屋がありました。昔問屋は、その国=藩の品物を一括して扱う「国問屋」が一般的で、その後、商品ごとの「問屋」が整備されました。つまり十組問屋などが整備された後の話なのです。

その後も国問屋は地方政府の出先機関として残り、「泉光院」の出身「佐土原」と言う小藩でも国問屋は長崎、江戸、大阪などに存在した。旅の途中で死んだ人の後事は、この様な国問屋でも請け負った可能性がある。この後事は、死んだ人に世話した手間賃の払いもあるので、この辺は生臭い。

そんな感じで、色々書いていますが、まだまだ知らない事が山ほどある。もう、江戸時代は深い深い。

実際、時代劇が書かれない訳が分かった。

凄く手間がかかるし教養も深いものが必要だが、これが売れない。私は幾つもの立派な小説を見つけたが、これが初版で絶版絶版絶版の嵐。全く、このニッポンには、小説のよしあしの分かる奴が居ない!と思って憤慨する私でした。


再び江戸学のススメ「江戸の価格」を見る。森永卓郎やっぱり何も知らない。

2014年08月23日 20時21分53秒 | 日記

経済アナリストと言う肩書きで出ていたが江戸時代のそれは何も知らないようだ。

多分、幕末・明治・第一次世界大戦(成金)・昭和金融恐慌・軍部の乱脈経済・敗戦後の狂乱インフレ対策(強制貨幣の没収)などは知らない様だ。

挙句の果てには、勘定吟味役の荻原重秀の改鋳を褒めているが、この改鋳は古くはローマ帝国でも行われており、実は過去の事例に倣っている。

江戸時代にはまともな経済学が無いと経済音痴の慶応の下衆のカスの低能の詐欺の外道のフリチ○のふざけた諭吉の手下のクズがほざくかもしれないが、実は、経済学的なものは、参考として、道理としては考えていた。

その最たるものが、中国とローマの経済運営である。また政治学でも貞観の治などの政治学や、中国の故事(史記などの正史=国が制定した歴史書)を引いているのである。

日本の学問と言うと儒学や陽明学や朱子学その他水戸学などしか無いと思い込んでいる馬鹿も居るだろうが、とんでもない話で、法律の運用や制定などは、中国の法家(商鞅・管仲・呉子)などを引いている。特に管仲は法家の中でも重商主義で、重農非商の商鞅とは隔絶しており、この管仲の考え方は大いに参考にしている筈である。

実際、管仲は中国の春秋時代が生んだジョン・メイナード・ケインズと言っても良く、何より、その成長の過程が似ている。その辺は「管子」で読まれると良いだろう。また福祉国家的な思想があり、徳川幕府が良く見落とす「衣食足りて栄辱を知る」の生活が安定すれば金を使う。部分で潔癖症が強かった。

しかし、例えばイギリスなどでは「エリザベス救貧法」などと言うものが出てやっているが、日本は徳川幕府までは、庶民の救済は一切行っていない。その際たるものが羅生門の平安時代の朝廷である。徳川幕府では、宝永の大爆発の時の救済や、浅間山の大噴火の時も救済活動を行い。また三大飢饉があったが、その後全国家的な対策を取っているのは、それ以前の歴史には無い。

更には、道哲の寺などがどうだが、女郎の押し込め寺などと言うが、落ち着き先を用意しているのは、十分評価に値する。更には、当時は治療法の無い「疱瘡」の患者は放置せずに各地の「疱瘡寺」(泉光院の旅日記にある)を用意させ「扶持=公費補助」を当てている。つまり江戸時代に限定的だが公共福祉が存在したのである。

この様な徳川幕府の美徳を無視するのは、その後、徳川以下の民衆政策を平気で行った薩長土肥の「情報操作」があった事は否定できない。

また法家は往々にして「兵家」と重なる。先にあげた三人は三人とも固有の兵法を持っている。経済と連携した兵家の論理を当時の徳川が無視したとは到底思えない。また、この頃の江戸幕府ではギリシアやオリエントの情報も持っていた。

大体において、文化というものの伝達を知らないのである。例えば、今我々が使っているハサミは「ローマ式」である。糸きりハサミ(これはオーストラリアやイギリスでは羊の毛を刈るのにも大きな奴が使われる)は「ギリシア式」である。

更には、江戸時代の計算に「算盤」は最初使われなかった。それは「高等数学」では「使いにくかった」からである。江戸時代に算盤が使われるようになったのは関孝和が算盤で高等数学が出来るように工夫してからである。

それまでは算木を使っていた。算盤はローマの計算機であり「アバカス」は算盤より先に出来た言葉だ。この算木は、実は、占いの中でも使われる。数字には、おのおの意味があり、その意味付けが中国の春秋時代には確立しており、計算も占いの中で使われていた。だからである。姓名判断で、文字の画数で判断するのにも計算が使われている。

さて、改鋳による問題については、実は「日銀通貨研究所」のディスカッションペーパーに「江戸時代における改鋳の歴史とその評価(kk18-4-2)」に、論文として出ているので読まれてはどうか?

ちなみにであるが改鋳は様々な失敗が存在しており、実質上幕府の言う価値と相場が一致するのは珍しかった。この問題に将軍自身が乗り出したのは吉宗公以外に無く、その後の改鋳は、総じて、ローマ時代ほど人間が良くなかった為に、さほどの成果が上がらなかった。

折も折、ナポレオンが出てきた。ナポレオンは明治時代の人と思い込んでいる馬鹿も多いだろう。ナポレオンは、当時、オランダ王国をぶっ潰した。その結果オランダの旗を公式に立てていたのは長崎の出島しかない時期があった。だからオランダ人にとって出島は本当に国の最後の拠点だったと言う史実がある。

このナポレオンの行った貨幣制度はその後も信用を持ち「ナポレオン金貨」とは純度の高い金貨で近年まで「ナポレオン金貨の相場」は欧米のニュース番組では必ず指標として出ていた。

つまり含有比率を下げる改鋳は「通貨信用を落とす」と言う事になったのである。その後金本位制などの問題があって、金は一定の純度で作られねばならないという合意となったのである。

獨協大学では何を教えているのでしょうか?まぁ竹中平蔵より大分好きではありますが、とりあえず、薀蓄を少々。

後編に続く。うだだーうだだーうだうだだー