「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20041104

2004-11-04 | 矮小布団圧縮袋

○Love Fighter更新連続。会報50号のテキストも、やっとこゆっくり読む時間がとれる(改めて見るとボディの衝撃的・接近ショット♪が多かったのだこの会報)。曲の後ろで流れていた映像って繋ぐと映画ぽく、かなりシックな色彩なLIVEだった記憶がある…今年の[si:]こそDVDにならないかなぁ。しかしDVDかLIVE盤CDかが出ても今年の夏の剛さんLIVEのあの場で味わった「生」の体感の感覚というのは全く一期一会で完全再現不可能なんじゃないか、なんて思いが同時にありつつのソフトの熱望、という、お腹のあたりからじわじわ湧いてくる甘美なジレンマに陥るのであった。テキストのinterviewの方でバンドの人との関係のくだりを読むと、自分が学生の時の音楽系サークルの先輩後輩とか先生とかとの自然な関係性を思い出した。学んでいる人自身の新しい認識の獲得とか、能力向上のための「どうしたらよいか」が大切にされて育てられる場所は、喩えて言えば一種の「学校」のようなものだ。利潤追求の効率的「どうしたらよいか」ばかりがえげつなく優先される場所ではない。つよしくんの周りの人々の「こうした方がいいよ」という言葉が「正直」だった、というのは、その場所が、(「誰が儲かって成功するか」とかではなくて)結局のところ「よい音楽をどう作っていくか」の目的(真理の追究みたいなもの)が大切な、「一生が勉強」の「学びの場」のようなものでもあったからではないだろうか。彼はそれを今回「音楽」によって知ったのだろう。“「仕事」じゃない”と言っていた言葉は、そういう意味としても考えられる。しかし昨今、例えば学校法人すら経営戦略だ経費削減だ明示化された業績評価だ実学志向だ何だとみみっちい効率化が優先され、社会においてもそういう形には見えにくい試行錯誤の経験の「学び」や「求道」の場所の存在意義や余裕が認められ難くなっている状況である。「試行錯誤で一生学び続けていく」人も存在するのだ、ということの理解能力のない幼いファンも案外多いらしい、てな話も悲しいことだが、ある種それは大人も子供も含めて哲学を失って短絡的で幼稚な昨今の社会の風潮で、しかたがないところもあるのかもしれない。(20041104)

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