○朝、出勤前のWSで見た東京ドーム公演の画像よりも、夜帰ってきて今どんなもんやから突然流れてきて耳に入った「愛されるより愛したい」の2番の歌詞のインパクトの方に久々、がんと頭を殴られたような気分がした。11年たっても強烈なものがあると思う、というよりも、いや、11年後、30歳になんなんとするKinKi Kidsが歌うからこそ、その象徴するところの重みが問われるのだろうと思う。「泣いたっていいじゃん」といいつつ「だけどね」と強がり、「鏡にうつる僕」を「誰だろう」と疑う精神の空隙。何が名曲なのかといって、こういう衝撃的にアナーキーな象徴的表現を歌っていて存在自体が共鳴していたという最初から(爆)。11年前からおまいらはこの意味をわかって歌っていたのか。そして今30になんなんとしているおまいらは「ぎりぎりのおとなたち」になっていないのかどうなのか。そして11年前から既に年齢だけは大人に踏み込んでいたワシは、今11年後どのくらいの中身の大人になっているのか。発売戦略がどうだった、事務所がその後どうであった、などという世知辛い諸事情は(当時の自分はあまり詳しくなくてそういうのをたいして考えてもいなかった)おいといて、っておいとけないぞと憤慨する人もいるかもしれないが、いちおうおいといて、ただこの歌だけを耳にし、この歌詞だけを聴く時、歌の言葉というものは、否応なくそういう意味を、聴く者に投げかけてくる。ひところ8年くらい前か、どんなもんやか何かで「意味なんか考えてちゃいけないんです」的な台詞を聞いたことがあった、が、意味は否応なく、気づこうと気づくまいといつのまにか、入ってきてしまうものだ。それを拒絶するのは抑圧というもので、知るということから、抜け出すことは始まるのだろうと思う。だって歌詞でさえ「こわさなきゃ、明日はこない」って言ってるんだから。11年前の1997年頃、自分もまた、こういう人々を見て「自分はまだ日本の東半分の文化しか知らない。一度、西日本を見なければいけない」と大それた出来心を起こし、本州の東の端から日本の西の端への大移動を企画し始めたのである。それが幸か不幸か、ここまで来なけりゃ味わなくてよい辛苦を知ることになったのかもしれないし、同時に、ここまで来なければ人生で味わうことがなかったような感動や人との出逢いや旅の手応えを知ることになったような気がする。あいかわらず風来坊の一人暮らしは続いているが、多分、人との付き合い方は、11年前とは全然変わってきている。それは正直しんどいの人が開始当時とは違ってめっきり女性あつかいが手慣れてきたというのとは特に関係はないけれど(笑)年月というのはそのくらい変化はあるものだという、しかしまだ死なずに生きていて、こうしてその音を聴いていて、今その意味を考えている、という事実。それが自分の祝辞でもある感慨ですな。酷暑御身御大切に。(20080722)
○朝、出勤前のWSで見た東京ドーム公演の画像よりも、夜帰ってきて今どんなもんやから突然流れてきて耳に入った「愛されるより愛したい」の2番の歌詞のインパクトの方に久々、がんと頭を殴られたような気分がした。11年たっても強烈なものがあると思う、というよりも、いや、11年後、30歳になんなんとするKinKi Kidsが歌うからこそ、その象徴するところの重みが問われるのだろうと思う。「泣いたっていいじゃん」といいつつ「だけどね」と強がり、「鏡にうつる僕」を「誰だろう」と疑う精神の空隙。何が名曲なのかといって、こういう衝撃的にアナーキーな象徴的表現を歌っていて存在自体が共鳴していたという最初から(爆)。11年前からおまいらはこの意味をわかって歌っていたのか。そして今30になんなんとしているおまいらは「ぎりぎりのおとなたち」になっていないのかどうなのか。そして11年前から既に年齢だけは大人に踏み込んでいたワシは、今11年後どのくらいの中身の大人になっているのか。発売戦略がどうだった、事務所がその後どうであった、などという世知辛い諸事情は(当時の自分はあまり詳しくなくてそういうのをたいして考えてもいなかった)おいといて、っておいとけないぞと憤慨する人もいるかもしれないが、いちおうおいといて、ただこの歌だけを耳にし、この歌詞だけを聴く時、歌の言葉というものは、否応なくそういう意味を、聴く者に投げかけてくる。ひところ8年くらい前か、どんなもんやか何かで「意味なんか考えてちゃいけないんです」的な台詞を聞いたことがあった、が、意味は否応なく、気づこうと気づくまいといつのまにか、入ってきてしまうものだ。それを拒絶するのは抑圧というもので、知るということから、抜け出すことは始まるのだろうと思う。だって歌詞でさえ「こわさなきゃ、明日はこない」って言ってるんだから。11年前の1997年頃、自分もまた、こういう人々を見て「自分はまだ日本の東半分の文化しか知らない。一度、西日本を見なければいけない」と大それた出来心を起こし、本州の東の端から日本の西の端への大移動を企画し始めたのである。それが幸か不幸か、ここまで来なけりゃ味わなくてよい辛苦を知ることになったのかもしれないし、同時に、ここまで来なければ人生で味わうことがなかったような感動や人との出逢いや旅の手応えを知ることになったような気がする。あいかわらず風来坊の一人暮らしは続いているが、多分、人との付き合い方は、11年前とは全然変わってきている。それは正直しんどいの人が開始当時とは違ってめっきり女性あつかいが手慣れてきたというのとは特に関係はないけれど(笑)年月というのはそのくらい変化はあるものだという、しかしまだ死なずに生きていて、こうしてその音を聴いていて、今その意味を考えている、という事実。それが自分の祝辞でもある感慨ですな。酷暑御身御大切に。(20080722)