館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2018梅雨明けの沖縄その4・特別展「戦場となった恩納岳」。

2018-07-02 05:21:21 | 旅は続く



晴れると沖縄の海は化ける。浅瀬・深場・サンゴ礁の有り無し・リーフであるか・・などなど、海の条件で七色に輝く!

恩納村博物館は海辺を通る58号線沿いにある。ロケーションは抜群の地だ。




今年の5月1日に出版されて、5分の3ほど読んだところで、今回の沖縄だった。

陸軍中野学校・・・戦時中諜報員養成のために作られた学校だ。

彼らが沖縄の各地に潜伏し、西表や波照間など離島で暗躍し、中には住民にスパイ容疑をかけ、殺したりした事実は、今までの来沖で知っていた・・・

この本の後半でそれらの仕業は解き明かされるようだが、前半は「沖縄本島北部で、ゲリラ戦を行うため師範学校・中学生で構成された鉄血勤皇隊よりこ半年も早く少年らを半ば強制で召集しゲリラ戦を行った事実」を、この本で知った。

その主に16歳から18歳までの少年たち(中には14歳もいたという)のゲリラ戦闘部隊の名は「護郷隊」であった。

純粋な「故郷を護る」という少年たちの気概は、やがて、狂気の態を生んでゆくのだった。

防衛召集は、17歳以上の男子が召集対象であったが、1944年12月の陸軍省令第59号「陸軍召集規則」改正および第58号「防衛召集規則」改正で、一部地域のみ防衛召集の対象年齢が引き下げられた。「前縁地帯」と呼ばれる帝国本土とは区別された地域(沖縄県、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島、台湾など)に限り、17歳未満(14歳以上)であっても、志願して第2国民兵役に編入された者は、防衛召集できるとされたのである。
これらの陸軍省令について、内務省は、「事実上徴兵年齢の引き下げにあたるので、法的には法律である兵役法の改正によってなされるべき」であるとして、憲法違反の疑いもあることを指摘していた。

なんだか自公で「閣議決定」を連発し、憲法違反を厚顔で行ってる昨今がかさなるぜ!

まさに本土決戦・天皇の松代大本営への避難、などなど、本土での準備が整うまで、沖縄は捨て石になって「時間稼ぎ」のためになりふり構わない状況だったのだ。



この博物館は歴史の道歩きで、詳細な道の情報を得るためにまず立ち寄ると決めていたが・・・・

僕が沖縄に着いたその日、ミネさんから「恩納村にゆくなら、博物館で、護郷隊の特別展をやっているらしいから、見たほうが良い!」と連絡が入った・・
あのお方、どこでそんな情報を手に入れたのだろう・・・(スナックじゃないことは確かだが・・・)

実にタイムリーな情報で、博物館は何倍にも存在感を増したのだった。



ロビーの半分ほどを使い、見やすい展示と、ビデオの上映が行われていた。責任者(たぶん今回の企画にかなりかかわった人)の方は、「どこから来たのか」など僕に訪ねる。「群馬」というと、驚いた様子で、何で知ったかとか、いろいろな話や、資料をくれたりと、ここでもありがたい出会いがあった。

30分もあれば見終わる展示だったが、1時間も居心地よくここにとどまったのだった。



 沖縄戦に参加した大本営直轄の第三、第四遊撃隊の秘密名。第一護郷隊、第二護郷隊と称し、おもに徴兵適齢前の16~19歳の青少年を召集して編成、第32軍崩壊後はゲリラ活動を行った。第一護郷隊91人、第二護郷隊73人が戦死。(琉球新報2003年の記事より)

この南部糸満からの矢印は、初日に見た沖縄水産勤王隊の学徒である。




強制された志願・・・・国が守るべき少年たちの召集は、統帥部の最低限の理性が崩壊し、人間以下に成り下がっていたと言うことだな。


この「護郷隊」まさに、僕にとっては「アナーザーサイドOF沖縄」だ。慰霊碑も恩納村安冨祖や名護に有るらしい。
行かねばならない!!!!!



貴重な資料を頂いた。




広報にこのようなことが掲載される島である。

戦争の終わってない島は、今も、基地を押し付けられ、無関心なヤマトンチュに心を傷つけられているのだ。
コメント
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