館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2024秋の沖縄旅・・激戦地「西原」を歩く。

2024-11-01 04:10:31 | 旅は続く


今日のは長いのだ・・・一緒に、戦跡・史跡を巡ったような、気持ちのなってもらえたら、嬉しいが・・・・

実は沖縄1週間前からのどが痛かった。のどが痛いだけで、他の症状は無かった。湿気のある沖縄に行けば改善するか?と、期待したが、相変わらずのどが痛かった。初日は改善傾向、2日目はちょっと微熱を感じたが、1日雨だったので、映画と対馬丸記念館周辺散策以外は、ホテルで体を休めた。昨年の大沼か?と、思ったが、それほどひどくは無く、日常生活は大丈夫だった。合わせて、風邪薬を飲み続けていたので、便秘が続き、やがて下痢って感じだった。結局、書いている今も完璧では無く、時々せき込む・・・・(たばこやめればいいんだよな・・・)。
3日目、メイン企画、「西原散策」は少し遅い出発。バスで行く予定だったが、「てだこ浦西」までモノレール・駅でタクシーを拾うのコースが、金銭的には1000円弱増えるが、時間はかなり短縮なので、こちらに変更した。

本編は長い・・ひたすら長い・一緒に7キロの散策をやってみるか・って方、お付き合いください。







45年4月1日に本島に上陸した米軍は、首里にあった日本軍司令部を目指し、村々を蹂躙しながら南進する。5日には第一防御線で戦闘が始まり、第一陣は19日には崩壊。戦闘は第二防御線に主戦場を移す。これが、前田高地、そして幸地・運玉森、いわゆる西原の戦いだ。嘉数・前田・西原の戦闘はおよそ28日におよび、この戦いこそ、日米が死力を尽くして戦った、主戦場だった。双方合わせ11万余の戦死者を出した。米軍では精神に異常をきたす兵士が続出し、日本軍は兵力の70%を失ったと言われる。アメリカの戦史はこのハクソー・リッジ(前田高地)の戦いについて「ありったけの地獄を1つにまとめた戦場」と記している。

まずは幸地陣地から掘り出されたという日本軍の大砲の見学から旅は始まった。公民館の裏に目立たないように展示されているが、1部住民の反対があって、目立たない場所に移された経緯があるらしい・・・



この散策(徘徊?)は前半戦跡・後半は史蹟巡り、およそ7キロだが、ここを歩いた方のブログ記事が実に詳細で、素晴らしかった。
「まっすぐ200m進み、分かれ道は左」などと、かゆいところに手が届く状態だった。これと、これをもとに俺が作った地図でほぼ完ぺきだった。
事前の調べは、改めて大事と痛感した。





砲弾で穴だらけの塀。





ここに陣を張った24師団、戦争に巻き込まれた小波津住民455人の戦没者を追悼した慰霊塔。



確かに四方に小高い山があって、日本軍の陣を敷くに最適だったのがわかる。





見逃しそうな山肌に「日本軍の陣地跡」。砂岩だったから、掘って作ったようだ。ここは、崩落もなく入れるようだが、一応立ち入り禁止の立て看板がある。









この旧西原村役場の壕は圧巻だった。入り口は、沖縄によくある墓を模して、カムフラージュ。







役場壕を過ぎて道沿いに「西原の塔」がある。西原村は司令部が置かれ、飛行場もあったので、被害はより甚大だった。
住民の47%が死亡。この塔には村民・村で亡くなった軍人・軍属7000柱ほどが合祀されている。







ここで多くの犠牲を出した各部隊の慰霊碑などが沢山ある。







西原は意外に畑が多い。農道を歩いていたらバナナが倒れていた。ほぼ道の半分をふさいでいた。
よく見るとバナナが・・・・・バナナが・・・・まだ、少し早いかな?1本ぐらいなら・・・・?



ほぼ戦跡は終わって、これから史蹟に入る。ほぼ行程の半分か?4キロ?行動食を食べ、一休み。





史跡・・文化財と言っても、沖縄は八百万の神が宿る「井戸(ガーと呼ぶ)」とか、「火の神(ひぬかん)」とかが多い。大きな河川の無い島は、太古の時代から水の確保が大事で、湧き水の井戸は文化財となっている。そして、災害から地域を守る「獅子」などは、あちこちで大事にされ祭られている。
このお獅子さんは、実にお顔が人間っぽいぞ。







この辺りは小橋川集落。その公民館の脇の急な階段を上ると公園。ペリーは沖縄に上陸すると、日本が開国に応じない場合「琉球を占領する」と本国に書簡を送っている。だから、奥地まで測量や詳細な絵を残したり、文物の調査も行っている。ここの調査隊が野営した付近にこの碑は建っている。



遠く知念半島・・調査隊はここで一夜を過ごし、やがて中城城を経て東海岸を北上し、金武湾へと向かった。



この公園には拝所や、小橋川出身戦没者の慰霊碑がある。



またまた、この公園で一休み。行動食。









ほどなく国道329号線にでる。サンエーが広大な敷地に建つが、1999年まで「製糖工場」があった。
サンエーの一角に、記念の公園が作られている。











旅も最後の見学地。「内間御殿(うちまうどぅん)」にやってきた。尚巴志が琉球統一を果たすが、代が変わって7代。
下剋上で63年続いた「第一尚氏」が滅び、尚円が「第二尚氏」を作り、以降明治まで続く。その尚円が家来だった頃、ここ内間の領主となり住んでいた屋敷と周辺地がここだ。想像できなかったが、かなり広大な敷地が残っているのに驚いた。周辺は開発されていることを考えると、もっと広大だったに違いない。





サガリバナと言うのは美しく、沖縄で愛されているが、この天然記念物のサガリバナは、驚くほど大きかった。
いままで沖縄で見た、最大の大きさだった。

こうして、3日目のメインの徘徊は終わり、タクシーを拾って、駅に向かった。

ここまで、こんな長い記事にお付き合いしたかた・・・あんたはエライ!

完読の方が居たら、感謝申し上げます。

コメント
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