映画『のぼうの城』を見たので、忍城と石田堤を見学してきました。
(「のぼうの城」には、あの芦田愛菜さんが出ていました)
まずは、忍城本丸跡にある『行田市郷土博物館』を訪れました。
当時忍城は、四方を沼地で囲まれた天然の沼地の中に、島状に残る微高地や自然堤防を巧みに利用して作られていたようです。
今は、博物館を中心に、小さいながらも手入れの行き届いた公園になっており、時折、二の丸跡地にある「忍中学校」の生徒さんの声が聞こえてきます。
館内を見学していた時も、中学生のグループが、展示物を見ながらペンを片手にしきりにメモを取っていました。
天守閣(御三階櫓)最上階に上ってみましたが、さほど高さを感じられませんでした。しかし、関東平野ど真ん中の沼地に位置しており、その高さでも充分に四方を見渡せたようです。
映画にもあった「豊臣軍の忍城水攻め」は以下の説明がありました。
【 天正18年(1590)豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した。6月4日に三成は館林から忍へ移動し、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に落ちなかった。6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、忍城を包囲したが忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。
豊臣方の石田三成は城攻めが上手くいかないので近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いたと『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。
しかしこれは明白な誤りであり、実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。
これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、そこから終始水攻めを望み、三成はそれを実行していたに過ぎないのである。
このような状況のなかで、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。
近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築いた。全長28キロメートルにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。
ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれた。
6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。二人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。
7月はじめには浅野長政らが、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らが攻城軍に加わったが、それでも忍城は落城しなかった。なお攻城戦終盤や戦後処理では石田三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる。
7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていた。
成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたので、遂に7月16日、忍城は開城した。
この戦いは軍記物では三成の築城が強調され、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していったと言えると評価されている。
<その後>
成田泰季の急死により総大将となった長親であったが、小田原征伐後は氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔。出家して「自永斎」と称し、晩年は尾張国に住んだ。
甲斐姫は自ら鎧を纏い戦ったと言われている。忍城開城の後は豊臣秀吉の側室となったが、秀吉の死後の詳細な動向は不明である。
石田三成はこの城攻めに失敗したことにより戦下手の烙印を押され、評判を大きく落とすこととなった。しかし失敗の原因は現地の地形を知らない秀吉の命令にあり、この戦いに参加した豊臣方の大名の大半は関ヶ原の戦いでも西軍に応じている。三成は秀吉死後も五奉行の一人として権勢を振るい徳川家康と対立、関ヶ原の戦いで敗れ斬首された。 】
映画とはちょっと違うのですね。
忍城跡を見学した後、「石田堤」を見に行きました。
場所は、忍城から4kmほど離れており、映画では解りづらかった規模の大きさが実感できました。
ほんのわずかしか現存していませんが、これを一週間足らずで28kmも築いたとは、にわかに信じがたいものでした。
『夏草や 強者どもが 夢の跡』 ・・・ 平泉ではありませんが、思わずつぶやいてしまいました。
映画も、なぜか涙が出てきます。年のせいですかね。