先週、K-300(心理学科の統計学)の1回目の試験がありました。問題の英語を読むのにどうしても時間がかかり、最後まで終わりませんでした。そのせいもあって点数が悪く、凹みました。焦って「分散・標準偏差」を「2乗和・分散」に取り違え、不要な計算に時間を浪費したのですが、それがなければ間にあったようです。あと3回あります。次こそ(泣)。
問題やテキストは込み入った内容を論じたり尋ねたりしているので、それなりに複雑。正誤問題とテキストの例を1つずつ挙げます。
If we know a characteristic of interest is distributed normally, and we know the mean and standard deviation of that distribution, we can estimate an area beneath the normal curve that represents the probability of events occurring in that distribution.
Our statistical test will determine if the sample could have been drawn from the known population or if the sample must have been drawn from a different population.
2つめの文章には「助動詞+完了+受動態」が2回出てきますが、帰無仮説を保留するときと、棄却するときに対応して、couldとmustで言い分けられており、正確に理解する必要があります。受験問題のためにわざと組み立てるようなときしかお目にかからない、わけではないみたい。生成文法の論文で、非文法的になる条件を見極めるために使われるような非常に複雑な文章も「こんな文章実際に使うの?」と思っていましたが、議論上複雑なことを述べる必要があれば、いくらでも使うようです。
上記は受験問題と比較すれば難しくもありませんが、この国における普通のスピードで、かつ正確に理解するとなると今の能力ではきびしい。これまでの大学院の授業の試験では、英語処理の時間のせいでぎりぎりになるという経験はありませんでしたが、この学部の授業は留学生がほとんどいないせいか、扱っている内容自体は簡単なためか、授業のスピードも非常に速く、試験でも時間的余裕はくれません。
試験では、終わらなくて「もうやめて提出!」と促されている人はネイティブでもずいぶんいましたから、学習内容が理解できていないと、彼らにさえラクではないのです。だからわれわれも、ネイティブにそれほど劣らないペースで読み、解答を選び、論述し、ということが必要。「ネイティブじゃないんだからそんなに速くできるわけないだろ!」と思いましたが、「それなら、そもそもわざわざここに来なければいい」ということになってしまいます。私は英語を勉強しに来たわけではありませんが、するとなおのこと、かなり高い英語の能力が前提となるようです。
先日の記事の “Bless you” のような決まり文句は、生活していれば何度も耳にしてどうせ分かるようになる。せいぜい話の種になる程度のこと。おしゃべりが出来るようになれば楽しいし、いいことも多いのですが、じょじょに進歩させるしかないし、とりあえずTAのポジションが取れる程度までできれば死活問題ではありません。それより、多量の、込み入った内容の英文を速く(かつもちろん正確に)読む能力が非常に重要だと最近、再認識しています。ネイティブに追いつくのは不可能でしょうが、できるだけ早いうちに、もう何割かスピードを上げないと。
私は、文法や訳読をみっちりやる従来の日本の授業を否定するのは適切でないと思うし、「日本の従来の英語教育は役に立たないことがすでに明らか」とでもいうような見解にはかなり懐疑的です。現にいまも、生活上で契約や税金・罰金等の文書を読まなきゃならないとき、教科書を読んだり、講義を聴いたりするときに、過去に日本で受けた英語教育の恩恵を大いに被っています。早期に英語教育を始めるかどうか、日本でちょっと話題になったようですが、もっと本当にすべき議論が他にあるように思えます。
日本の教育は悪くないと言うのなら何でお前はまだまだなんだ、というと、私の能力・努力不足もありますが、「そんなもんよ、本当に慣れるには何年もかかる」と周囲の人が言ってくれるとおりなのでしょう。
「外国語の学習は(実は母語の学習も)長い時間と多大な努力を要する。ラクして何とかしようと考えてはいけない」、これ、誰かエライ人が、みんなにはっきり言うべきだと思います。「この方法ならラクラク!!」という誘惑は、ダイエット方のCMと同じで、ついひきつけられるのかもしれませんが、「ラクしたい」人に付け込むための方法を「ラクせずに」考えた人が儲かるだけだと思います。
問題やテキストは込み入った内容を論じたり尋ねたりしているので、それなりに複雑。正誤問題とテキストの例を1つずつ挙げます。
If we know a characteristic of interest is distributed normally, and we know the mean and standard deviation of that distribution, we can estimate an area beneath the normal curve that represents the probability of events occurring in that distribution.
Our statistical test will determine if the sample could have been drawn from the known population or if the sample must have been drawn from a different population.
2つめの文章には「助動詞+完了+受動態」が2回出てきますが、帰無仮説を保留するときと、棄却するときに対応して、couldとmustで言い分けられており、正確に理解する必要があります。受験問題のためにわざと組み立てるようなときしかお目にかからない、わけではないみたい。生成文法の論文で、非文法的になる条件を見極めるために使われるような非常に複雑な文章も「こんな文章実際に使うの?」と思っていましたが、議論上複雑なことを述べる必要があれば、いくらでも使うようです。
上記は受験問題と比較すれば難しくもありませんが、この国における普通のスピードで、かつ正確に理解するとなると今の能力ではきびしい。これまでの大学院の授業の試験では、英語処理の時間のせいでぎりぎりになるという経験はありませんでしたが、この学部の授業は留学生がほとんどいないせいか、扱っている内容自体は簡単なためか、授業のスピードも非常に速く、試験でも時間的余裕はくれません。
試験では、終わらなくて「もうやめて提出!」と促されている人はネイティブでもずいぶんいましたから、学習内容が理解できていないと、彼らにさえラクではないのです。だからわれわれも、ネイティブにそれほど劣らないペースで読み、解答を選び、論述し、ということが必要。「ネイティブじゃないんだからそんなに速くできるわけないだろ!」と思いましたが、「それなら、そもそもわざわざここに来なければいい」ということになってしまいます。私は英語を勉強しに来たわけではありませんが、するとなおのこと、かなり高い英語の能力が前提となるようです。
先日の記事の “Bless you” のような決まり文句は、生活していれば何度も耳にしてどうせ分かるようになる。せいぜい話の種になる程度のこと。おしゃべりが出来るようになれば楽しいし、いいことも多いのですが、じょじょに進歩させるしかないし、とりあえずTAのポジションが取れる程度までできれば死活問題ではありません。それより、多量の、込み入った内容の英文を速く(かつもちろん正確に)読む能力が非常に重要だと最近、再認識しています。ネイティブに追いつくのは不可能でしょうが、できるだけ早いうちに、もう何割かスピードを上げないと。
私は、文法や訳読をみっちりやる従来の日本の授業を否定するのは適切でないと思うし、「日本の従来の英語教育は役に立たないことがすでに明らか」とでもいうような見解にはかなり懐疑的です。現にいまも、生活上で契約や税金・罰金等の文書を読まなきゃならないとき、教科書を読んだり、講義を聴いたりするときに、過去に日本で受けた英語教育の恩恵を大いに被っています。早期に英語教育を始めるかどうか、日本でちょっと話題になったようですが、もっと本当にすべき議論が他にあるように思えます。
日本の教育は悪くないと言うのなら何でお前はまだまだなんだ、というと、私の能力・努力不足もありますが、「そんなもんよ、本当に慣れるには何年もかかる」と周囲の人が言ってくれるとおりなのでしょう。
「外国語の学習は(実は母語の学習も)長い時間と多大な努力を要する。ラクして何とかしようと考えてはいけない」、これ、誰かエライ人が、みんなにはっきり言うべきだと思います。「この方法ならラクラク!!」という誘惑は、ダイエット方のCMと同じで、ついひきつけられるのかもしれませんが、「ラクしたい」人に付け込むための方法を「ラクせずに」考えた人が儲かるだけだと思います。