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文学や史跡で登場するマチを旅しながら、折々、紹介することを心がけています。

「文字では言葉が正確に伝わらぬ」891004 文字文化をもたぬ社会240701

2024年07月06日 07時58分13秒 | 季節
 「文字では言葉が正確に伝わらぬ」891004  文字文化をもたぬ社会240701

 1989年の秋、根室市で開かれた「クナシリ・メナシの戦い100年」のレセプションで、隣り合わせのエカシが、つぶやいた。
 そこで、「なぜ」など聞き返すことはしなかったが、口で伝える口承伝説が、百年単位の時間的スパーんで持続する場面をみて、受け止めた。
 見えてきた点。そこを3点にまとめると。
 1)たいせつなコトは相手の目をみつめながら語りで伝える、
 2)「語り」には言葉の温度、感性、強弱、抑揚がある、
 3)つまり「伝えるべき思い入れ」が、文字ではそがれてしまう。

 市内を中心に釧路国、根室国で配信される『釧路新聞』に投稿した。
 「オンネ・パラ・コツ(onne-para-kot 大きく・ひろい・凹み)は掲載左図の赤色○印の地点」。
 「富士見と鶴ヶ岱・春湖台をむすぶ市道「富士見緑ケ岡通」の最も標高の低い地点だ。標高・2メートルで、確かに建設会館と幣舞中学校の標高に比較するに、凹地」

 同紙の月曜文化欄「橋南春採湖プロムナード33ー40  市道ある丘越え 春採湖の津波ー再来の備え 大木司稲荷大神 佐藤宥紹」に掲載されている。
 さっそく寄せられた。「オンネパラコツ。なぜ、アイヌの人たちは、文字を持たなかったのか」。
 答えになるかどうかは置き、次の記載を掲載してもらったことがある。釧路市中央図書館のホームページに、今も残されているようだ。
 「釧路短期大学附属図書館長の佐藤宥紹氏が大学教育について触れ
 「大学で学ぶ若者たちに、『地域の何を伝えているのか』を改めて考える必要性がある」
 「我々が使う本などの『文字』での伝達とアイヌなどが伝承で伝える『声に出す言葉』での伝達では、伝わる内容に差があることについて述べられました」
 「言葉によって伝わる『温度、感性、抑揚』が、文字になるとそぎ落とされてしまう」
 「『文字を持たない文化』、自らとは違った様式の文化も尊重することが、お互いの尊厳を守ることにつながると語りました」 (https://www.trc.co.jp/information/151121_kushirosymposion.html 市立釧路図書館にて、釧路が誇る文化遺産の「デジタル化記念報告会&国際シンポジウム」)
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「事実上の公共事業」 時代と政権=北海道経済、日本経済に占める位置240629

2024年07月04日 12時39分43秒 | 季節
  「事実上の公共事業」 時代と政権=北海道経済、日本経済に占める位置240629

 催事の事例報告で自治体関係者が明らかにした、と。
 「かつて北海道の一次産業は、本州に資源や食糧を供給するための事実上の公共事業であったという見解を示したうえで」(『釧路新聞』 2024年6月30日 13面)
 24年6月29日開催「北前船寄港地フォーラム」に先立ち開催。
 パネルデスカッション「北陸復興支援について」内の各種報告で「あらたなまちづくり」と題する報告のなかで。

 1980年代初頭 (北海道経済)「本州経済を補完する役割」 今はなき北海道総合調査室の報告
 1970年代初頭 (北海道経済)「北海道は沖縄と共に本州の内国植民地」 当時の北海道近代史研究者の見解。
 1960年代   (北海道の教育)「北海道と沖縄では本州とは違う独自の教科書が採用された」 明治・大正期の教育史。
 1600年代初頭 (家康政権)「(信長・秀吉政権の)朝鮮半島出兵の修復&関係改善、琉球と蝦夷地に内国植民地」
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坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624

2024年07月03日 14時36分38秒 | 季節
  坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624

 釧路駅北口は昭和初期に商家・民家が集まり始めた。
 「三共 さんきょう」「大曲 おおまがり」「治水 ちす」の通称地名と路線バス停留所が設けられている。
 いずれも「鳥取街道 とっとりかいどう」の路線に沿っている。

 通称地名「三共」の語源。それは大正から昭和初期にかけ現在の共栄大通四丁目から春日町4番にかけての一帯に三共酒造の蔵と倉庫が設けられていたことによる。
 三共酒造の社屋写真は『鳥取町六十年誌』に掲載されている。
 古川忠一郎『釧路発達史』の「付録 事業及人物」51ページによると、大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)という人の来釧がコトの始まり(44頁)。

 山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
 南大通一丁目に名を残す山サ共盛関係者とも繋がりのある点が、「釧路の酒造と水」として興味あるところ。
 釧路新聞社刊『わがマチの人物地図』第一集によると、「共栄大通四丁目の角、現在堀薬局のあるあるあたりから、春日町の鉄道官舎のあるあたりまで、その酒倉があった」とする。

 初代支配人は坂本原永。昭和12年当時、坂本は三共㈱専務取締役を務めた。
 写真が掲載された『鳥取町六十年誌』は昭和18年の発行。
 銘酒「三共正宗」を提供していたことがわかっている。戦時の物資統制をくぐりぬけたかがカギとなっている。

 酒造会社の名残りで、「北中~現業所=市道」と「共栄大通」交叉する付近は、いまも〝三共″と呼ばれている。
 くしろバスは「三共」の停留所を設け、阿寒バスは「三共通」の呼称を宛てる。
 寿司店で「三共八千代寿司」。また若松町18番に奉祀されているのは「共栄稲荷神社」。
 坂本原永さんは坂本病院長、坂本一さんの祖父にあたり、民政系に隠然たる発言力をもっていた。
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