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文学や史跡で登場するマチを旅しながら、折々、紹介することを心がけています。

現役世代が含まれる? 一人あたり滞在日数少ない釧路市=体験移住 釧路市V8

2019年06月30日 10時06分48秒 | Weblog
 現役世代が含まれる? 一人あたり滞在日数少ない釧路市=体験移住 釧路市V8。

 道などの事業 18年度実績。 秘書「花粉ゼロ」で好調と。190629朝刊に掲載「2018年度『ちょっと暮らし』の上位10市
町」(『北海道新聞』 釧路市内版)。

 
 1353人の人数は2位の上士幌町の132人を大きく引き離す。しかし延べ日数でみると、釧路市=2万0333日に対し上士幌町は4831人。

 釧路市の一人あたり滞在日数 15.02日。上士幌町は同じく36.59日、3位新ひだか町=35.08日。

 マチなかでのビジネス支援を展開の釧路市。ご夫妻で70日滞在される一家がある一方で、平均15日は?。

 リゾート地ではないため、高齢者が長期に滞在とはわけが違うのか、釧路市のケース。
 現役世代が、「ちょっと暮らし」の涼しさ求めてと、いうことかも。真偽は不明ながら。
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「意味」示す<珠玉の価値> 岩谷昇平著『上関浪漫 夢の交差点・上関』

2019年06月29日 07時04分54秒 | 書評
 「意味」示す<珠玉の価値> 岩谷昇平著『上関浪漫 夢の交差点・上関』。

 中扉の一枚、その説明に注目しておきたい。「二つの太陽」に「上関海峡の日の出」と解説。
 その意味を「やすらぎとぬくもりのある住まい・まちづくり」「やわらかに海と陸(おか)とが出会う町」の象徴と位置づける。

 「二つの太陽」は、別に二つの太陽がこのマチを照射すのではない。瀬戸内の海峡、交通の要所に昇る日の出が<太陽、二つに写る現象>をうみだす、<自然の景観>。
 そこに、「やわらかに海と陸(おか)とが出会う」と読み解き、「やすらぎとぬくもりのある住まい・まち」の<目標を提示し、語りかける>ところが、注目をあつめる。

 「戎町にて」は、町の路地を幼稚園児とみてとれる3人の女性園児が通園する景。
 説明に「子どもたちの歓声の聞こえる路地」と読み解いている。
 1)掲載の写真は記録、
 2)「子どもたちの歓声の聞こえる路地」は「地域の魅力」
 3)記載はされていないが、「次世代をになう後継者が、シッカリ存在」。
 そう、言い表しているようで、まことに力強い。そう見ていくと、この写真集には老人、高齢者が登場しない。

 春・夏・秋・冬。上関の景観が80枚の写真と1点の地図で綴られている。
 春は「桜」、夏は「若者の集う町」、秋は「島の男の勇敢な祭り」、冬にむかっては「夕日のきれいな町『上関』」と、四季を示す。
 夕日は、都合22点の撮影。海峡と島のマチだけに、夕日のポイントも9点。
 4)上関大橋、5)戸津=へつ沖、6)上関海峡、7)上関漁協前、8)白井田=しらいだ、9)亀岩灯台、10)笠戸島、11)叶島、12)小祝島と多彩。

 自然現象.祭りでにぎわい、幼稚園児の歓声の聞こえる路地、白壁の家に格子の家屋。

 注目しておきたい。
 写真は記録でも、撮影する<問題意識>、つまり地域への愛情。
 そこに、「なぜ注目したのか」の説明は、「魅力の提示」ということ。
 しかし「魅力」のみでは、そのうちに<慣れ>が生じると、<飽き>がきて、振り向きもしなくなる。そうではあるましか。

 ところがそこに、総じて「やわらかに海と陸(おか)とが出会う」と、住民の<感性>を差しはさむことで「やすらぎとぬくもりのある」とする。
 だれでもが「住まい」、そして「まちづくり」に「取り組む姿」を、ホウフツとさせてくれる。

 最後に本書は、上関町住宅マスタープラン委員会から出版されている。
 本書の解説では、著者が本書を出版したのは52歳の時。40歳でこのマチの信用金庫支店長に、赴任。
 「上関町の人々の心のあたたかさ、景色のすばらしさ、そして夕日の美しさに魅せられて」と、撮影に体した動機を記載する。

 人口は4100人ほどで、高齢化率は56%を超えている。しかも祝島、八島、長島と島嶼=とうしょをむすぶ航路を維持する。
 思うことは、<地域への思い入れ>。ある意味、西日本ならではの深い、地域への愛情があふれる一書。
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報徳の里 豊頃町二宮190620

2019年06月26日 05時58分32秒 | 旅紀行
 報徳の里 豊頃町二宮。ハルニレの豊富なマチで。十勝国中川郡豊頃町。

 1)人跡から遠い、
 2)肥沃な土地を、
 3)川縁のほとり。

 興復社が選んで入地の今は、ハルニレの豊富なマチで。牛首別川のほとり。大樹町尾田への道をたどる。

 興復社事務所跡。
 記念のモニュメントの残る碑の公園。往時の建物が保存され、社長一族の墓碑も残る。コミュニティセンターが設けられ、人心のよりどころに<報徳のおしえ>が、筋をとおす。

 「芋ごじ」。
 強雨風の時だけでしたねー、「集まりが休みになった、のは」。「午後からの集会は、歩いて会合にでるには、午前では無理でした」。
 キツイときも励ましあって、結束。facebookで済ませるいま、face to faceの威力は大きかった。
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母郷・鳥取城をおもわせる鳥取神社への道の口 「鳥取神社前 バス停物語03」190624。

2019年06月23日 05時37分59秒 | 記録
 母郷・鳥取城をおもわせる鳥取神社への道の口 「鳥取神社前 バス停物語03」190624。

 地域コミュニティ放送の第622話。4月から開始の「バス停物語シリーズ」は、第3話。

 3カ所あるバス停は、いくつかの特色をもつ。
 1)くしろバス、阿寒バスの相互利用、
 2)「100番 イオン線」が郊外大型店を巡遊してくれる、
 3)札幌~釧路をむすぶ都市間バスから降車できるバス停の一つらしい。

 鳥取神社そのものが多くの意味を、地域社会に示す。
 4)ご祭神さんが「因幡の白兎」で名の知れる「大國主大神」さま。
 5)釧路鳥取きりん獅子舞、釧路鳥取傘踊り、村謡・北の開拓者の舞を定期的に奉納
 6)拝殿はもとより、百年記念館、直会殿の建造物。

 「杜があれば」。鎮守の杜も育てられつつある。記念樹群がそれ。
<ないものねだり>は置いておき、緑樹も<創る・育てる・支援する>が不可欠。
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原料調達のピンチ=越前和紙 トロロアオイ190617

2019年06月17日 05時56分37秒 | 放送
原料調達のピンチ=越前和紙 トロロアオイ190617

トロロアオイ 
異称を「ハナオクラ」と呼ぶらしい。ブリタニカ国際大百科辞典の小項目の記載。
「アオイ科の一年草」。
「中国原産で,根に含まれる粘液を和紙製造用の糊に用いる」、
「また花が大きく美しいので観賞用にも栽培」の二目的で栽培される、と。(写真は https://minhana.net/wiki/トロロアオイ(ハナオクラ) ) (「トロロアオイ(ハナオクラ) [黄蜀葵] - みんなの花図鑑」 190617閲覧)

NHKGニュースで報道。
 「茨城の産地から、生産者高齢化で供給不能に」と、越前和紙の生産者にペーパーが、と。
 そこで福井県の生産者組合では、荒れ地=荒撫地の石ころをとりのぞきながら、自ら栽培に着手。
 十年も続けることができたら、自前の原料で「越前和紙」を「漉く」ことが可能では、と。
 なんでも越前和紙の産地で必要な年間量は10万トン。
 国内で生産される量は20万トンということで。国内の和紙生産地は、<軒並みピンチにおちいる>と、言うこと。

「越前」。
 江戸時代の公文書書式例に、この一句。
 江戸幕府に提出の文書や、幕府の奉行が発する文書は、越前和紙に記載のナライであった。
 そもそも、和紙の原料は「コウゾかミツマタ」と暗記していたが、原料にトロロアオイがあるとかや。
 越前和紙の原料がトロロアオイを用い、その産地で有力なひとつが常陸・水戸であるとは。

徳川は、はかったか。
 「和紙は越前」。原料がトロロアオイ。つまり家紋の「葵」字があることに注目したか。御三家の水戸家の手前に配慮をした、か。
 「越前和紙を用いて、『達』と記載すれば、将軍名に花押・朱印がなくても、それは幕府発の公文書」。そうした伝統が、成立していたが。

茨城からの通知文書。 
 ニュースでみるかぎり、<用紙にワープロ印字>。そこを和紙に筆字なら、通知にくわわった迫力とスゴミが違ったこと、よ。
 そうではあるまいか。
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土が違うかツツジ 布伏内「茶房 かくれんぼ」

2019年06月16日 09時30分50秒 | 旅紀行
 土が違うかツツジ 布伏内「茶房 かくれんぼ」。阿寒町雄別炭礦への途中。

茶房 かくれんぼ。その庭の木が威勢も姿勢もよろしくて一枚。

桜の幹が急成長。ツツジの花弁もまことに豊か。色あざやか、いきいき感がマチ中のそれとは異なる。

そうではあるまいか。葉の勢いは窒素分。根の成長は加里分。花弁のふくよかさはリンか。

肥料の三要素、そろって豊富か。花弁のゆたかさ。4月=福寿草、5月=桜、6月=スモモにライラック。
 10月紅葉。7-9月の名花、名物を考えたいところ。
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出かけてゆきます 豊頃町二宮190620

2019年06月13日 06時38分32秒 | 旅紀行
出かけてゆきます 豊頃町二宮190620.二宮は豊頃町の西部に位置しています。

 北海道道湧洞豊頃停車場線と同じく尾田豊頃停車場線の交点が目安です。「二宮簡易郵便局」という機関も地図に図示されています。

 平地と丘陵の間を牛首別川 ウシシ・ペツ川が流れ、この川に「小川」という川、北部には山蔭川=「やまかげかわ」と読むのでしょうかねー。流れています。

 豊頃町の町勢要覧では、二宮を次のように紹介しています。
 「この地区は川沿いから開拓が進められました」。
 「明治27年(1894)頃から富山県人や広島県人が入植を始めています」。
 「明治29年(1896)二宮尊親興復社社長らが石狩や富良野付近を調査の後、十勝平野の調査に大津から入りました」。
 「望みの土地がなかなか見つからず、最後に二宮地区を探検調査しました」。
 「ようやく念願の土地を見つけ、二宮地区を事業地と決定し、入植を開始した」。
 「明治34年までの5年間で160戸が入植」「農地844ha、橋61個所、道路13,200m,排水溝51,000mを造成」。
 「その他宅地や防風林、薪炭用林など1,345町歩(約1,345ha)の二宮大農場が完成しまし」。

 榎本守恵先生が、『北海道開拓精神の形成』((雄山閣、1976年)という本のなかで、この二宮に入植した興復社の組織と営農の推移を紹介して、全国的に知られることになりました。
 『北海道の研究 第5巻』近・現代篇Ⅰ にも榎本先生の「北海道開拓精神の成立」が、収録されています。
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硫黄山 摩周湖から神の子池への道

2019年06月12日 20時52分20秒 | 旅紀行
 硫黄山 摩周湖から神の子池への道。ともかく摩周湖第三展望台から硫黄山のカルデラを撮影したかった。

 動く車の中からの撮影はままならない、が。それでも何枚かは成功。

 硫黄山を卑近に眺めることができるポイントで一枚。硫黄山は昨年9月以来の仰ぎ見る光景。

 なにしろ暑い、逞しい、エネルギーにあふれている。男のヤマか。
 5月2日、広島生まれ、広島育ちで、現在は弟子屈在住。そうしたお方とともに摩周湖から、清里町、神の子池への道すがらで、一枚
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見事と申すべきや 道ばたのスズラン190607

2019年06月11日 06時02分49秒 | 季節
見事と申すべきや 道ばたのスズラン190607。

ところは釧路市黒金町の市場街。駅にほどちかい食堂のならぶ歩道の一隅。

スズランの苗植えをみつけ、写真を一枚。いっぱいにあふれるスズラン。

開花期を迎え人目を引きつけてくれること、うけ合い。

バスの車内でみつけてカメラを出して一枚。あっという間にバスは動き出すもトリミングして一枚。

その派手さは通じないけれども、雰囲気は伝わるか、と。
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十勝川新水路に旧河道、河跡沼をみる 豊頃町茂岩・豊頃それに大津。

2019年06月09日 06時27分07秒 | 旅紀行
 十勝川新水路に旧河道、河跡沼をみる 豊頃町茂岩・豊頃それに大津。

 十勝国中川町豊頃町。十勝国東南部の自治体。本年5月末の人口は5172人と。

 地図でみてみると、整備された十勝川新水路に旧河道、河跡沼の<入り組>を見る。

 河口の大津漁港には「十勝発祥之地碑」のあることが知られている。十勝内陸部へ入る移住者の上陸地にして十勝農産物の搬出港であった。

 大津に上陸した本州からの移住者は、十勝川右岸の地に開拓地を広げている。明治10~20年代のこと。

 鉄道が内陸へ延びるにつれて、このマチの趨勢は大きく変貌する。

 農産物積み出し湊の機能は釧路港に移転した。明治37年に豊頃駅が開業し、十勝川左岸に集落が形成される。

 十勝の港で重要な集落は漁村に転じ、域内の農産物は船ではなく貨車で搬出されることになる。

 大津にあった戸長役場は、さてどのような推移を経たか。所在地は茂岩に移る、と。

 そのあたりの経過は次期に。十勝川新水路に旧河道、河跡沼をみる 豊頃町茂岩・豊頃それに大津。今回は茂岩界わいの話題提供、で。
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草原の先に海洋島 開陽台ー国後島190502

2019年06月08日 11時52分28秒 | 旅紀行
 草原の先に海洋島 開陽台ー国後島190502.晴天、しかし春先。

 開陽台の展望塔から東の位置に、島。国後島と想像したところであるが。

 なんどか開陽台を訪問しているが、離島を見通すことができたのは、初めてのことでは。

 一行は、広島生まれ広島育ちながら、弟子屈在住のお友達。広島で学んで広島に居着いた拙宅の娘一家。

 保護者で同伴、拙宅の二人。孫たちは「なにがなんだか」の状態ながら、そこは今や「異郷とされる島」を手近に。

 弟子屈在住のお方に、感慨深くながめていただいて。ご案内いただいた<甲斐>が、あったということ。

 位置を示しておきたい。
 「+」印が開陽台展望台。それより「2時方向」にある島が国後島。泊山=535メートルが画像の山かどうかは、さらに検討。
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緑映える 雨でひときわ 緑ケ岡3丁目バス停

2019年06月06日 06時39分31秒 | Weblog
 緑映える 雨でひときわ 緑ケ岡3丁目バス停。190605、午前の雨はいささか激しかった。

 その雨をうけてか一帯の緑樹は、ことさら映えた。「美しい」。そう感じさせてくれる。

 新緑が深緑に転じた。
 言い得て妙。旧「別保原野」は「緑ケ岡」と命名された。

「旧名別保原野の一部にして長方形の丘陵地帯たり」
「多少の起伏あ」「住宅地に適す」
「現今概ね草原地又は畑地たるも将来市の膨張と共に凡て宅地に利用せらるべ」
「青緑の候野外に花を摘み蝶を追いたる光景を印するの意に於て緑ケ岡と命く」(昭和7年7月)。
https://www.city.kushiro.lg.jp/machi/t_keikaku/toshikeikaku/choumei/0002.html


 緑ケ岡三丁目1番には緑ケ岡公園。緑ケ岡一丁目10番に緑ケ岡学園キャンパス。間を通る路線は「緑ケ岡通」。

 緑ケ岡学園正門にむかって下る坂は旧サルシナイ川跡の「みお‐すじ=みをすぢ 澪筋」を示す。
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夕映え 日本製紙釧路工場190602

2019年06月03日 08時26分42秒 | 景観
 新聞用紙の製造メッカたる日本製紙釧路工場。拙宅からはその夕映えの中に、工場・火力発電の稼働・背景の夕映えがサンセット。なにもSunsetと三セットを<かけ?ているわけでは、ありませんが。

 この会社には、アジアリーグたるアイスホッケーの社会人チームがありましたです。この3月で廃部となりましたけれども。

 紙つくりに頑張ってほしい。そのためには新聞を読んでほしい。情報は身銭をきって、責任を明確にする情報源から「自分で考える」の習慣が拡大してほしい。

 雲にまぎれて、煙がみえにくいが肉眼では確かに。夕映えに映える、「紙の街にふさわしい本のマチ」でありたい。本は読むうえに、創るマチでありたい。
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高い能力の人材ー発掘、確保、育成、島田昌和著『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』

2019年06月02日 17時32分29秒 | Weblog
 高い能力の人材ー発掘、確保、育成、島田昌和著『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』。

 短いセンテンスで本書の主張点をまとめ上げることは難しいが、212ページに記載の3点が、一定の意味をもつのかと低次させてもらうことにする。

 1)「同時並行で多数の会社を運営していくためには、さまざまな経営者の協力が必要であった」。
 2)(日清・日露戦争前後に)「日本経済の体質強化のために経済政策に対する独自の発言と行動」を見せる。
 3)「日本という国家の構成員のあり方にも積極的に関わった」としたうえでm「高い能力を人材が産業界に進むような教育機関を自らの行動をもって支援」

 1)は人材の発掘。ここでは「専門経営的人材」を肉親外に求め、身内は傘下企業の管理に位置。2)で渋沢の意には反して「民」の政府頼み、「官」の一元管理が強まる方向とする。
​ 3)では「人々が社会のマイナスと考えがちなハンディキャップをもった人々を社会の一員とし、目をそむけることなく向き合った」と評価する。​

 ヒトによっては東京高商、つまり一橋大学の発足につながる見識に注目する読者もおいでになる。
 他方で京華商業学校。その校長に前田正名を委嘱する事実(171p)に、注目する。「1899年の実業学校令が発布されたので、1901年に京華商業学校を開校した」「初代校長には元農商務省次官で地方改良運動に尽力したことで知られる前田正名(1850ー1921年 亡くなるまで名誉校長)を招聘した」とする。

 また、「王子製紙に対しては藤山雷太を送り込んだので、渋沢と専務取締役の大川平三郎は1898年に同社を辞任している」「中上川は三井内ですっきゃくる1901年まで、この軋轢が続いた」(116p)とも。(岩波新書 2011年)
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