見立ては本歌取りとか替え唄のように、元の作品内容を知らなければ、面白さは判らないのだが、この作品は元の話を知ってもなぜ元の話と繋がるのか、理解に苦しむ物が多い。
例えば本日の最後の作品は、貧乏で母親に十分な食を与えられない夫婦に子供が生まれた。祖母が自分の乏しい食を孫に分け食べさせていることを辛く思った夫婦は、子供さえいなければ、と幼子を生き埋めにしようと穴を掘ると、天の授けた金の釜が出てきたという話である。それがどうして母親が子どもに甘酒を飲ませているのを犬が欲しそうに見ている絵となるのか、理解できない。第一、元の話からして不自然な話で、可愛がっている孫を殺されたら、祖母にとんでもない歎きを与える親不孝の最たる事が天の感ずるところなどとは矛盾も甚だしい。福沢諭吉もこの書について厳しく批判している。
ただ考えようによっては、江戸時代ならともかく、明治期にはこの書に説く荒唐無稽な親孝行には福沢ならずとも疑問を感じて、周延も敢えて繋がりの見えない作品にしたのではないか、とは言えないだろうか。