下町のパンを食べてみませんか?

千住、緑町ゆうやけ通り下町のパン屋パレット

父達の3月10日

2008-03-11 23:08:57 | パンのパレット
祖母が関東大震災の時に父達兄弟を連れて浅草の家から上野の山に逃げたそうです。父の兄が体調を崩して弱っていき医者にも見放された時に祖母は合羽橋に連日お参りに行き伯父は一命を取りとめ回復に向かったそうです。僕達兄弟も幼い頃から父に連れられて毎月行ってました。帰りには浅草の松屋の大食堂や屋上の乗り物に乗れるのでソチラ重視でお付き合いしたもんです。お子様ランチにソフトクリームかフルーツポンチは当時の定番でした。父の選ぶ老舗よりオモチャも見られるデパートの方が弟も好きだったと思います。東京マラソンの時には滅多に浅草に来ない人達が大挙して押し寄せ食べる段になりファミレスには人が並ぶ光景。今になってせっかく浅草に来てるのにファミレス入ってどうするの!?なんて気がして父を思い出します。アノ年の3月10日は祖父達は疎開していたし父達は弟を除いて徴兵されていて東京には居なかったそうです。開戦当時、父は仕事で父の弟は大学生として仙台にいたそうです。僕は幼い頃に父からちょっとだけ如何に戦争が理不尽かを美化せずに聞かされました。父も学徒動員された叔父も戦後は東京に戻り会社員や教師になりましたが定年にあと数年の年齢で癌に倒れました。戦争前の二人の青春のキーワードに仙台は欠かせないし、叔父の娘(僕の従兄弟)は東京生まれなんですが今は仙台で教師をしています。この三人に比べたら僕の仙台はセコイ思い出なんですが牛タン丼を食べ給油と給排水(自分の)する以外は往復750キロ弱、前日の午後3時に家を出て翌朝6時に帰宅するまでほぼ雨の中を走り続けました。小さなPAでは濡れたジャケットをエンジンに載せて乾かし自分は半袖シャツで気休めに自販機に張り付いて暖を取る姿を車から降りてトイレに行く人達にけげんそうな顔でジロジロ見られたりもしました。走っていて睡魔に襲われ気が付くと景色が変わっていたりもしたんです。それでも東北道で財布を落とした僕に大柄君からの連絡で仙台中央署の某警部補が自腹で用立ててくれたり中央通りの賑わいに驚いたり料金所近くから信号待ちで道を尋ねた僕に叔父の後輩の大学生が僕を仙台駅前までバイクで先導してくれたりと蛍の光のように幾つもの親切や印象は僕の中で光っています。朝起きて長いトンネルを抜けて日本海を見た後に食べた鮨の旨さにも感激しましたがやはり天気は雨でした。夜9時過ぎに帰宅するとヘトヘトでしたが当時はまだ高速道路でバイクの二人乗りは禁止されていた時代でした。その時の話はまたいつか・・・

火曜日

2008-03-11 10:11:21 | パンのパレット
大きなコロッケの日でポイント3倍です。
13日・木曜日・ポイント抽選会・千寿なかむら屋前です。
14・15日の金土はポイント会三店のセール。
西や北の空は青く南の空は白く霞んで見えました。通勤が一段落した道路は思った以上に流れていました。