こちらの写真は、2020年5月15日に撮影しました「通研通り」、東側の坂の下( 横須賀市長沢地区 )です。
はい!では同じ場所から、1995年( 平成7年 )元日の姿です~
並木の桜の木が 細いですね~(*´▽`*)
季節が違うので葉っぱがなく、こちらの写真の方が 辺りが明るいです。
本当に同じ場所です。
そして、通研通りの上の方へ、両親とともにのぼってきたこの場所ですけれども。
この写真は、さきほどの写真よりも古い時代のものです。1987年( 昭和62年 )の元日です。
私の家族は、毎年元日に「武山不動尊 → 砲台山 → 三浦富士山頂 浅間神社奥宮の祠」と、縦走初詣を恒例としておりました。
で、そこの現在の様子は
長く続く坂に沿う桜並木ですが、このあたりの木は一度植え替えられたような記憶があります( 小さくなったなぁ?という印象を受けた時期があったのです。本当はどうだったのかな?)。
(#^.^#) ですが、坂の中盤あたりは 桜の木が育っちゃって、太い根っこが歩道の舗装を持ち上げてしまっているほどです!
私の職場の70代の女性は、葉っぱが茂っている季節に( 日陰で足元が暗いせいで )、ボランティア活動の帰り道に つまずいて転んでしまったことがありました。お年のせいで とっさに手が付けなかったようで、顔から地面に落ちてメガネが壊れましたし、大事なお顔も血だらけになったそうですよ!
みなさまも充分にお気をつけていただきますように!
私の愛車 マウンテンバイクの自転車の「サンシャイン号」でも、波打った歩道ではタイヤがガックンガックンして走ることができないです~(;^_^A
前述の写真と同じ1987年元日、坂の上の方から下を望める場所にて。
父が立っている所から左折して山道に入り、いよいよ武山不動尊への登山が始まります(^-^)
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2022年6月に、新たに見つかった1枚の写真をUPします!
1977年1月の印字がある写真です(^-^)
現在のような舗装の道路になる前の通研通りの上の方の様子です。
・・・・・・・・・・・・・↑ ここだけ追加部分です ↑・・・・・・・・・・
そしてこちらの1枚は、同じく右端に「APR 77A」の文字があるように、1977年( 昭和52年 )4月に現像した写真です。記憶では学校の春休みに撮ったはずなので、3月下旬から4月上旬の頃だと思います。
どこかといいますと、通研通りの東の端、現在の「横須賀市立 長沢中学校」が建つ前の田んぼの風景です( 長沢5丁目 )。当然、あのオジサンが座っている前の道は、現在 桜並木の「通研通り」です~。このぐらいの道幅でした。
昭和40年代までは舗装もされておらず、穴ぼこだらけで、雨が降るとその穴ぼこに水が溜まって、車の人は困ったようです。当時は京急線の野比駅からバスの運行が無かったので、夜、母に連れられて久里浜駅からタクシーに乗って帰ろうとすると、運転手さんが →「道が悪くて車が汚れるから嫌だ」と断られたこともありました。
( 通信研究所で働く人は、行き先表示が「通信研究所」と表示されている灰色っぽい専用バスに乗って、「野比駅」から直行で通勤されていましたよ )
タクシーの運転手さんの言葉 1.道が悪くて車が汚れるから、会社におこられる 2.あっちのほうは暗くて「むじな」が出そうだから嫌だ
(あっちのほうとは、街場である久里浜から見て「尻こすり坂」から向こうの野比・長沢方面のことです。京急線の大作の踏切から野比消防署の十字路までも未舗装でした。シートベルト無しの(?)タクシーの後部座席でガッタンガッタン揺られて、お尻を痛くして帰宅しましたよ~。頭を天井にぶつけないようにつかまってました)。昭和40年代末は、野比から通信研究所を越えて武へ抜ける道を 歩道付で拡張舗装工事をやっていた記憶があります。
ま、そんな時代でございました
腰かけているオジサンの後ろには 子どもの背丈では下りることができないほどの 深い水路があって、朱色のアメリカザリガニがうじゃうじゃいました!私と近所の子どもたちは、あの田んぼのあぜ道を駆けずり回って遊んでいました。母からは →「田んぼで遊んでると農家の方に怒られるよ!」と言われていたのですけどネ (*´ω`) いたずらはしなかったつもりですが・・・(笑) ごめんなさい
次回は、1981年( 昭和56年 )ごろの「野比海岸」の様子をご紹介します