Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

古典ではあるが・・・②

2006年06月06日 | Weblog
・・・今改めて,斎藤喜博氏の著作から。第2弾。
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 いままでの一般の授業は,自分の持っている一般的な解釈だけを,ただ常識的に子どもに教えこみ,記憶させるだけのものだった。子どもがそれを覚えなかったり,なっとくしなかったりした場合は,文化財とか学校とか教師とかの権威をつかって,もしくはテストとか通信簿とかでおどかして,無理やりになっとくさせ屈伏させるだけのものだった。だがそれだけでは教育とはいえない。学校でなくとも,どこでも,だれにでも,できることである。またそういう授業では,子どもの論理や思考や感情を明確に引き出し育て,子どもや学級に網の目のような論理の組織をつくらせ,それを否定したり拡大したり,変革させたりして子どもをゆるがすようなダイナミックな授業はできない。子どもの持つ論理の軌道と,教師の指導意欲とが,火花の散るような対決をし,その結果として無限に新しい論理の軌道を教師や子どものなかにつくり出していくような授業はできない。

 学習の場合でも、いつでも子どもは真理とか正しさとかを持っている。教育は,それを大事にし育てていかなければならないものである。授業を組織し,子どもたちの持っている真理とか正しさとかを,論理的に組織し,それをもとにして,教師と子ども,子どもと子どもとが,衝突し,教師が子どもをくみふせたり,豊かなにおやかなものをそそぎ込んだりして,子どもの持っている真理とか正しさとかを,さらに高いものへと,変革し拡大し発展させていかなければならないものである。それが授業の生命である。

 そういう授業のなかでだけ,教師や子どもは強じんな論理をつくり出し,追求力を持つようになり,自分を変革できるしなやかな精神とか豊かな感受力とかを持つようになり,相互交流ができるようになる。学校は,そういう授業や行事や芸術教育をすることによってだけ学校としての機能を発揮することになる。自分の意志で,自分の肉体や頭脳を自由に駆使することのできる子どもをつくり出すことができる。そういうことだけが学校教育であり,学習での訓練である。

 権威でおどかし,それによって一般的な知識や解釈だけを子どもに押しつけるような授業は,無風状態である。そういう授業では,子どもは授業の表面ではなんの反撃もしていない。押しつけの一方交通だから,教師が教壇で立往生するようなこともない。けれども,そういう場合でも,無言のうちにも子どもは自己の持っている正しさとか真理とかで抵抗し反発している。それは質の高い授業で教師と子どもとが壮麗に格闘している場合とちがって,陰うつな感情的な反発であるから,子どもの思考や論理や感情を花さかせるのでなく,子どもを押しつけ,子どもに不満を持たせ,子どもの人間全体を阻害してしまうものである。行事や芸術教育の場合も同じである。それらはみな,学校だけがやれ,学校がやらなければできない仕事はしていないわけである。

(「学校でしかできないもの 3.授業がつちかうもの」『授業』,斎藤喜博全集第5巻,国土社,1970年,384-385頁より)
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腹立たしさ

2006年06月06日 | Weblog
内に沸々とわき起こる腹立たしさ。統制を離れてただただ暴れ回る。解消するに要となれば愚痴をこぼすも良し,批判するも良し。ただ,果てに残るは,さらに大きな腹立たしさのみ。これまた因果。
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