(7月8日の続き)
その次に間をおかず感じたのは,「ここは祭壇だ」ということ。祭壇といっても神が祭られているというのではなく,ねむの木を慕う心が集える場所と言うべきか。
設計者である東京大学生産技術研究所教授の藤森照信氏と,発注者である宮城まり子氏の間にどのような内容の依頼と提案があり,最終的にどのような意図でこのようなデザインになったのかは知る由もない。しかし,とにかくあの空間には一種宗教的な空気が漂っていた。
誰しも永遠の生命は持ち合わせない。だから今年80の齢を迎えた宮城氏は,将来自分にどんなことがあっても起こっても,ねむの木の魂がいつも集える場所を,ねむの木の活動の集大成としてつくろうとされたのではないか。そう思われてならない。それも人の表現したものには魂が重なるからこそ,美術館として。アートと美術館という場の持つ新たな顔を,ここで発見した気がする。
その次に間をおかず感じたのは,「ここは祭壇だ」ということ。祭壇といっても神が祭られているというのではなく,ねむの木を慕う心が集える場所と言うべきか。
設計者である東京大学生産技術研究所教授の藤森照信氏と,発注者である宮城まり子氏の間にどのような内容の依頼と提案があり,最終的にどのような意図でこのようなデザインになったのかは知る由もない。しかし,とにかくあの空間には一種宗教的な空気が漂っていた。
誰しも永遠の生命は持ち合わせない。だから今年80の齢を迎えた宮城氏は,将来自分にどんなことがあっても起こっても,ねむの木の魂がいつも集える場所を,ねむの木の活動の集大成としてつくろうとされたのではないか。そう思われてならない。それも人の表現したものには魂が重なるからこそ,美術館として。アートと美術館という場の持つ新たな顔を,ここで発見した気がする。