これから相当期間学力論争が再燃し,PISAという文字が新聞をはじめさまざまなメディアを賑わすだろう。
ところで,このPISAとはいったい何なのか?PISAの正体を知らずにPISAを語ることはできなし,これからの方向性を探ることもできないのではないか。
「P」rogramme for(~のプログラム)
「I」nternational(国際的な)
「S」tudent(生徒の)
「A」ssessment(評価・査定)
我が国では,「生徒の学習到達度調査」と訳されることが多い。文部科学省/国立教育政策研究所でも,正式に「OECD生徒の学習到達度調査」を使用している。
[文部科学省Website/PISA2003結果]
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04120101.htm
「なるほど,学力テストなわけね」
確かにそうなのだが,この理解は半分当たっていて,半分当たっていない。なぜか。
それは,我が国で通常イメージされるであろう「学力」と,PISAで測定された「学力」とには,大きな開きがあるからだ。
我が国の多くの人が考える学力は「受験学力」であり,記憶力とその再生力に負うところが大きいだろう。
一方,PISAでは「これまで学校や様々な生活場面で学んできたことを社会生活で応用できる力(国立教育政策研究所国際研究・協力部長 OECD-PISA運営理事会議長 渡辺 良 氏)」を測定した。言葉通り応用力だ。
誤解を恐れず言い換えれば,前者は「過去に学んだ力」であり,後者は「これからの人生で生かせる力」なのだ。
「これからの人生で生かせる力」を測定したPISA2006の結果を「学力低下」というイメージでとらえた人々が,これから「受験学力」の効果的効率的な向上に努めるとすれば,それは少なからずずれた対応とならないか。「ずれた」だけならまだよい。むしろ,それが我が国の15歳から更に学びを遠ざけることにならないか。それを大人の責任として考えるべきだ。
学力論議が沸騰する兆しはすでに見えてきた。「学力が低下してしまった」「いったい誰の責任だ」とイメージだけで大騒ぎし慌てふためくその前に,私たちがこれまで追い求めていた学力そのものが本当にそれでよかったのかを冷静に考えるべき時期に来ている。私は文部科学省がこれまでつくってきた方向性は決して間違ってはいなかったと思っている。
ところで,このPISAとはいったい何なのか?PISAの正体を知らずにPISAを語ることはできなし,これからの方向性を探ることもできないのではないか。
「P」rogramme for(~のプログラム)
「I」nternational(国際的な)
「S」tudent(生徒の)
「A」ssessment(評価・査定)
我が国では,「生徒の学習到達度調査」と訳されることが多い。文部科学省/国立教育政策研究所でも,正式に「OECD生徒の学習到達度調査」を使用している。
[文部科学省Website/PISA2003結果]
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04120101.htm
「なるほど,学力テストなわけね」
確かにそうなのだが,この理解は半分当たっていて,半分当たっていない。なぜか。
それは,我が国で通常イメージされるであろう「学力」と,PISAで測定された「学力」とには,大きな開きがあるからだ。
我が国の多くの人が考える学力は「受験学力」であり,記憶力とその再生力に負うところが大きいだろう。
一方,PISAでは「これまで学校や様々な生活場面で学んできたことを社会生活で応用できる力(国立教育政策研究所国際研究・協力部長 OECD-PISA運営理事会議長 渡辺 良 氏)」を測定した。言葉通り応用力だ。
誤解を恐れず言い換えれば,前者は「過去に学んだ力」であり,後者は「これからの人生で生かせる力」なのだ。
「これからの人生で生かせる力」を測定したPISA2006の結果を「学力低下」というイメージでとらえた人々が,これから「受験学力」の効果的効率的な向上に努めるとすれば,それは少なからずずれた対応とならないか。「ずれた」だけならまだよい。むしろ,それが我が国の15歳から更に学びを遠ざけることにならないか。それを大人の責任として考えるべきだ。
学力論議が沸騰する兆しはすでに見えてきた。「学力が低下してしまった」「いったい誰の責任だ」とイメージだけで大騒ぎし慌てふためくその前に,私たちがこれまで追い求めていた学力そのものが本当にそれでよかったのかを冷静に考えるべき時期に来ている。私は文部科学省がこれまでつくってきた方向性は決して間違ってはいなかったと思っている。