詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

ジョージ・オーウェル『1984年』から現代SFは始まった

2011年10月10日 | 物語
ジョージ・オーウェル『1984年』から現代SFは始まったと思う。
その後継者として真っ先に挙げなければならないのは、映画『ブロードランナー』や『トータルリコール』の原作者のフィリップ・k・ディックだった。

「五分間憎悪」「マスコミによる洗脳」「官僚組織による監視と冤罪」はどの時代の強圧的政府にも共通するもので、それがますます巧妙になりつつある。

日本では相も変わらず北朝鮮・中国への憎悪を、米国では「テロ国家」やイラン・キューバへの憎悪がージョージ・オーウェル『1984年』から現代SFは始まった

札幌での熊出没や内地での猿・鹿被害増加の一途

2011年10月10日 | 提案提言
札幌での熊出没はといよいよ深刻になりつつある。内地では猿・鹿による農業被害が増加中とか・・

一般人の猟銃等の武器所持が不可能になりつつある事を反映しているのではないだろうか。
この国はカッターナイフを持っていても逮捕・・という過剰な刀狩り状態。

それならば、銃等を唯一持っている警察・自衛隊・暴力団がなんとかすべきだろうと思う。
これらの組織に熊・猿・鹿対策班を設けるか・・一般人への猟銃訓練施設を早急に作るべきだ。

何故いま「天皇制」なのか?

2011年10月10日 | 歴史
明治以降、長州閥によって作られた「天皇制」という制度・教育・思想的なそれ以前の歴史改ざんという桎梏から自由にならない限り、日本人はいつまでたっても幼児期から脱出不可能と思う。

さらには、天皇を飾り物にして裏で真の支配層がやりたい放題という構造は、天武天皇以来戦後の現在まで続きてきた。
古代では、藤原氏を中心にした公家層が、明治以降は官僚組織が・・

ガルシア・マルケスの『百年の孤独』や『族長の夜』を読むと、彼が天皇制的なテーマを扱っているのがよくわかる。
すなわち、血統の問題と権力構造について

「天皇制ー古代史から考える」(4)

2011年10月10日 | 歴史
坂口安吾が「もともとは天皇」・・と書いていた蘇我氏について書くのをうっかり忘れていた。

蘇我本家は滅んだけれど、分家の方がその後も残ったし、百済系の天智天皇に味方した点から、百済系や高句麗系に近い氏族と思われる。

存在が疑わしい「聖徳太子」は、蘇我氏の誰かがモデルなのかもしれないし、蘇我馬子の一面が反映されているのかもしれないとさえ思える。
法隆寺や四天王寺や、京都を基盤にしていた、これまた謎の氏族「秦氏」(神社の起源の大半はこの氏族から)との共同作業といい・・協力な経済基盤を持たない一「皇族」にしてはあまりにも活躍しすぎだからだ。
蘇我氏と秦氏は、その開明さと進取性ではとても似ている氏族だ。
その古代中央政界からの凋落や謎めいた風貌もまた・・

ぼくの推理としては、推古「天皇」を妻としていたのかも・・とさえ思える蘇我氏がどうも臭い。(女性天皇には都合の悪い事を隠す等の何んらかの大きな理由があるはず)
でも彼を天皇と認めるわけにはいかない天智・天武天皇の側が、その蘇我系天皇時代を、推古「天皇」等の女性「天皇」として、実際には存在いたかもしれないあまりパッとしない「聖徳太子」へと役割分担させたのかもしれない。



「天皇制ー古代史から考える」(3)

2011年10月10日 | 提案提言
「天皇」「日本」という呼称が生まれたのは天武天皇からという。
だからそれ以前の時代では、「天皇」「日本」という呼び名は適切ではないのだが、それでは、一般常識とも違い、煩雑になってしまうのでカッコ付きで表現したい。

百済系の天智「天皇」の後継「天皇」を倒して壬申の乱で即位した新羅系という天武天皇だったが、その権力はその後皇后を輩出した藤原氏が中心の公家層へと渡ってゆく。
天武天皇以外は伊勢神宮へと参拝していないので、それ以後の天皇家が違う血統になったのか・・明治以降は伊勢神宮へと参拝するようになったので、そのどっちかに血統の断絶があったのかもしれない。
持統天皇の血統も同様のようだ。(記紀で何度も強調されているように古代では自分の先祖霊以外を祭る神社を参拝するのはタブー)

戦前までの千数百年間、西日本の「天皇制」の実態はというと、藤原氏中心の公家層というのが正しい。
ただ、記紀にはほとんど登場しないこの藤原氏の起源に定説はない。
藤原氏と関係が深い神社(春日大社、香取・鹿島神宮)の神の使いが鹿である点から考えると、鹿がトーテムのかなり北方系氏族と推理可能だ。
死後白鳥になって北へと飛んでいったヤマトタケル等の皇族同様に・・
約一万年間の縄文時代同様に、蛇が支配層のトーテム(出雲等)だったものが、いつの間にか鳥等の多彩なトーテムに置き換えられている。
天皇家の紋については、古いの紋が日月紋であり、伊勢神宮の主神が北斗七星だったり、最大の儀式の大嘗祭(新天皇が天皇霊を受け継ぐ)での星の重要さからも・・
その後この紋がそぐわなくなったので、桐や菊に代えられたのではと推測する。

記紀から判るいくつかのポイントはー
(1)もともとのこの列島の大王は、スサノオやその後継の大国主系であり、それからの権力の簒奪は記紀の作者や記紀を編纂させた権力者も容認している点から、つい最近の事件であり、その頃の常識だったらしい。
(2)「神武東征」を歴史的に当てはめると、このスサノオ系の出雲氏族には物部氏が当てはまり、東北へと敗走した物部氏が後の東北の諸王権と繋がるのかもしれない。
(3)「コマ」というのが高句麗系の総称だが、この列島の最終的な覇者になった百済系は、「朱蒙」にもあったように、もともとが高句麗系と同属が建国した国。
(4)高句麗とは、古代朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)の中では、最も文化の高い国であり、隋・唐とも互角の国だったし、東北関東へと優秀な馬を持ち込んだも彼らで、そのルートは沿海州・樺太・北海道という対岸が見えるルートだった思われる。(対馬海峡は対岸が見えず馬輸送には危険すぎる)
その滅亡後支配層の半分が「渤海」を建国し、残りが日本列島へと渡ってきた歴史事実があるが、渤海が”同族の国”と日本を呼び、数百年もの間平安時代に朝貢してきた理由だろう。
もともとは同属だった百済系と高句麗系は言葉も文化もほとんど同じで親近感があったろうと思う。
後に百済系が平家新羅系が源氏となるが、関東での武士王権は、以前同盟関係にあった新羅系と高句麗系が主体だったのではと思う。

平清盛をみても、平家は西日本に偏っていて、倭人の伝統を受け継ぐ交易海洋民という性格が強い。
これは、後に百済となる地域にも倭人が住んでいて、海洋交易としての伝統を受け継いだのが後の百済や平家となったという関係からの百済急援軍の派遣や、その敗北後の新羅系天武天皇の反乱即位であり、
後の関西天皇王権は倭人と百済系勢力、関東武士王権は高句麗と新羅勢力という風に本州の二大王権のせめぎ合いが日本史の底流にはあるのではと思う。
そこに、明治までは天皇の参拝がなかった・・という伊勢神宮の秘密もあるのかもしれない。



「天皇制について」(2)

2011年10月10日 | 歴史
今も昔もそれは、硬直化した閨閥化制度と表現可能だ。天皇(古代では姻族の藤原氏)にいかに近い血筋かが、そのピラミッド構造での地位になる。それでは血が濃くなりすぎての弊害はどう防ぐのかというと「婿取り」がある。戦前陸軍が独裁したのは皇族将校と成績で出世が決定するという硬直化制度をもたらしたものは、能力主義とは正反対のものだった。

戦後もまた同様だ。
能力を判定するのではなく受験テクニックだけを問う入試制度が諸悪の根源だ。
何故なら、最近はいよいよ富裕な親が子供に受験テクニックを身につけさせるために、膨大な投資をしなければならない。
すなわち、大金持ちの子弟しか東大合格は難しくなりつつあるからだ。

東大法科卒元エリート官僚の知人がいたが、卒業時の成績でほぼ将来が決まってしまうとか(戦前陸軍の場合は入学時での順番で将官クラス、佐官クラスが決定)。
その知人の場合は、その娘の親の先輩官僚との折り合いが悪くなってエリートコースから脱落だったというが・・

いざどの程度まで出世するかの目処がつくと、早くツバをつけておこうとする政官財や先輩官僚から縁談の話しがあちこちから持ち込まれるという。
将来出世可能な官僚にはより多く・・
今ではそれがシステム化して、若手官僚達に見合い写真が回ってくるとえげつなさは、日本独自の閨閥化(新たなる「天皇制」)ではないのかと思う。

次回は、古代まで遡って「天皇制」を歴史的に考えてみたい。