先端技術とその周辺

ITなどの先端技術サーベイとそれを支える諸問題について思う事をつづっています。

メルカリ社長を変えたニーチェの言葉”カリスマじゃなくていい” 

2020年05月23日 09時58分49秒 | 日記

2019年日経電子版で連載した「ネット興亡記」に、メルカリの山田進太郎社長の話が出ていた。

自分と向き合い続けた山田氏が見つけたカリスマ経営者とは異なる起業の形。そんな山田氏が夢だった米国進出のために「鬼」になったというストーリー。

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

日本に「フリマ」という新しいeコマースの形をもたらしたメルカリ。2013年の設立から瞬く間に利用者数を伸ばし、毎月使うユーザーは今では1700万人に迫る。近年のスタートアップを代表する存在ともいえるが、創業者の山田進太郎はいきなりフリマという金鉱脈を見つけたわけではない。そこに至るには長い模索の旅があった。

■諦めていた起業の夢

高校時代は地元愛知県の進学校に進むがそこでの成績はクラスでも最底辺。部活はマイナーなハンドボール部を選んだのに補欠。そこから山田の内省が始まった。

 「僕はすごく記憶力があるわけでもないし社交的でもない。プレゼンがうまいわけでもない。本当に地味な目立たない学生でした。これが得意だというものがなく悶々(もんもん)としていました。だから、自分はどう生きていくのかをずっと考えていた。普通のサラリーマンでは良い仕事ができない。小説家とか起業とか、何か人と違うことをやらないと、この世に生まれた価値が出せないという感覚でした」

小説家を目指すが手に取った村上春樹の指南本を読んでがくぜんとする。

 「僕はこういうふうにはモノを読めないし無理だなと思いました。物書きは人と違う視点で色々なことを捉えて表現できないとダメ。僕にはその能力はないと痛感した」

では起業家はどうか。実は大学1年の時にある人物に会いに行き「こうはなれない」と一度諦めたという。それがソフトバンクグループ創業者の孫正義だった。1996年のことだ。当時39歳だった孫は、新世代のベンチャー経営者として注目を集めていた。

 「孫さんはものすごくエネルギッシュで人を巻き込むリーダーシップがある。当然、知識も。僕は当時18歳。あと20年でどうやったらここまで到達できるのだろうと。イメージがわかなかった。こういうスタイルは無理だなと思って、いったん起業を諦めたのです」

だが、自分の生き方を模索する山田は、徐々にカリスマたちとは違う生き方でもいいのではないかと考えるようになった。そこに2つの出会いがあった。

ひとつがドイツの思想家ニーチェが書いた名作「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。絶対的な存在である超人を描くニーチェに対する、山田の解釈は独特なものだった。「僕は超人ではない。凡人でいい」だ。

 「結局、自分は自分でしかないということです。良いものは良いと認める。その上で自分の良いところを伸ばし、他の人の良いところを使う。自分だけではできないことを他の人と一緒になって、より良い価値をつくっていく」

もうひとつの出会いは、当時渋谷近辺に集まった「ビットバレー」と呼ばれる若手IT起業家の集まりだった。その中心的存在だったのがネットエイジ。渋谷・松濤の歯科医の2階にあったオフィスに山田も足を運んだひとりだった。

グリーの田中良和、ミクシィの笠原健治、ヤフーの川辺健太郎、コロプラ創業者で個人投資家の千葉功太郎……。ビットバレーに集う同世代の若き起業家たちの姿が、山田に一度は諦めた起業の道を選ばせた。

 「ビットバレーの起業家には色々なタイプがいました。技術で引っ張る人。センスが良い人。スタイルというのはなんでもいいんだなと思いました」

■米国で戦う覚悟

フリーランスとしてたった一人で活動を始めた山田は「映画生活」というサイトを作るが、20代も半ばにさしかかると米国への移住を考え、サンフランシスコに渡る。ここでインターネットで生きていく腹を固めることになった。

 「当時はインターネット以外に飲食とか不動産にも興味がありました。現地の日本人の方と日本食レストランを開こうということになったのですが、その時に考えました。お店で接客できるのは1日100人か200人程度。でも、当時僕のサイトは月間100万人の利用者がいた。少ない人に質の高いサービスを提供するか、それともインターネットで多くの人に提供するか。自分はどちらが好きかを考え、やっぱりインターネットが面白いなと改めて思いました」

 「それで日本に帰ることになりましたが、米国に来て『日本人として何ができるか』と考えた。日本でサービスをつくって海外に持っていこうと。世界中で使われるインターネットサービスを作ろうと。腹が据わった。これを一生やっていこうと」

日本に戻った山田はソーシャルゲームの会社をつくった。ヒット作にも恵まれ米ゲーム企業に買収される。それが「世界」への近道だと思ったから売却したのだが、方針があわずすぐに退職した。そんな時に出かけた世界一周の旅で、もう一度自分がなすべきことを見つめ直した。

 「やっぱり子供が働いているのが印象的だった。ボリビアからチリに行ったときも(ガイドの)助手席には子供がずっと座っていました。みんな豊かになろうとしているけど全世界が豊かになるなんて現実的には難しい。資源も限られている。では自分に何ができるかを考えました」

 

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

 

それがフリマアプリにつながった。誰かの使い古しでも誰かの役に立つ。そうやってモノを循環させる仕組みを作れば、世界はもう少しだけ豊かになるのではないか。

そして、ここまでの経験で山田は経営者としての「自分のスタイル」に気づき始めていた。

 「僕は人を生かすのが得意なのかなと。次に会社をやるときは自分でやること以上のことをやりたいと思っていた。自分にないものを持っている人がいたら、その人の能力を生かせるような状況をつくり出そうと」

 

2014年に米国参入した際のオフィスで、山田氏と(左)と石塚氏

2014年に米国参入した際のオフィスで、山田氏と(左)と石塚氏

 

13年に始めたメルカリは曲折がありながらも短期間でユーザーを獲得していった。新たな仲間たちと山田が目指したのが米国だった。日本でのサービス開始から半年もしないうちに米国で視察に回り、翌14年に参入を決めた。

 「日本だけでやるということをそもそも目標としていない。米国で勝てば、それはいきなりボスを倒すようなもの。一番高いハードルだけど、その後に続く欧州市場(を攻略しやすくなること)なども考えると(米国での成功は)日本だけでやる10倍以上のポテンシャルがあると思う。やらないリスクの方がむしろ高いという感覚でした。むしろ、日本を落としてでも米国でうまくいけばそっちの方がいいというコンセンサスは(経営陣の中で)ありました」

■たった一度の「わがまま」

だが、やはりハードルは高かった。米国では思うように取引額が伸びない。思い詰めた山田は行動に出た。米国事業を任せていたメルカリ共同創業者の石塚亮を米国CEO(最高経営責任者)から外し、自らが陣頭指揮をとるよう迫ったのだ。

帰国子女で米国での起業経験もある石塚は、山田本人がメルカリを起業する際に「米国は亮に任せるから」と言って誘った人物だ。日本での立ち上げの功労者でもある。自らの約束を反故(ほご)にし、仲間のプライドを傷つける決断だったはずだ。

 「それはあったと思います。でも、どうしてもここで成功したいと。自分自身でやってダメなら諦めがつきます。ある意味、僕のわがままだけど『やらせてほしい』と伝えました。もちろん、彼にも思いはあった。色々と話しました。最後は『全力でサポートするから』と言ってくれました」

カリスマ経営者と自分は違うと思い、「人を生かす」という自分なりのスタイルを見つけた起業家・山田進太郎が見せた「わがまま」。米国はその後も苦戦を続けながらしぶとく戦い続けている。

スマホ世代の代表的なスタートアップと見られるようになったメルカリ。社会的責任を痛感させられた出来事が17年に起きた現金の不正出品問題だった。

 「自分たちはすごく小さな存在だと思っていたけど、プラットフォーマーとして報道されていた。世の中のインフラみたいな存在になりつつあると初めて気づきました。ある意味、社会的な公器を目指すようにカジを切りました」

日本発のスタートアップとしての「社会的な役割」として今、最も意識するのがやはり海外への挑戦だ。インターネット産業が始まっておよそ四半世紀。いまだ日本発のグローバル・テックカンパニーは育っていない。

 「メルカリがやらないといけないのは海外で成功して外貨を稼ぐこと。これまでは自動車や電機のメーカーが成功しているけど。僕たちはそこを目指したい。成功例が出れば『あそこにできるなら』と、どんどん海外を目指す人が増えてくると思うんです」

 

新規株式公開(IPO)時は株式市場で話題を集めた(2018年6月、前列左から3人目が山田氏)

新規株式公開(IPO)時は株式市場で話題を集めた(2018年6月、前列左から3人目が山田氏)

 

山田は18年6月に上場した際、「創業者からの手紙」を公開した。それはこんな一文から始まっている。

 「私は、野茂英雄さんの大ファンです。野茂さんがメジャー挑戦を発表された時、日本中でバッシングが巻き起こったのをよく覚えています」

メルカリの米国事業にはいまも投資家やメディアから厳しい声が寄せられる。成功したと言えるにはほど遠いから、反論はしない。ただ、追いかけているものが、批判と懐疑に満ちた視線の中で米国に渡ったパイオニアの後ろ姿であることに、今も変わりはない。


 サイバーエージェントの藤田氏が明かす葛藤

2020年05月23日 09時43分47秒 | 日記

2019年日経電子版で連載した「ネット興亡記」で、社長の藤田晋氏の逸話が掲載されていた。なかなか面白いのでメモって見た。 以下其の引用::::::::::::

26歳で上場した直後に訪れた危機を語る。起業家を目指すきっかけは少年時代に感じた、ちょっとした違和感だった。福井県鯖江市の出身。父が働くカネボウの社員住宅での生活に、言い様のない息苦しさを感じていた。同じような部屋で暮らし、再生産される同じような日々……。そこから抜けだしたいと考えたのが、起業家・藤田晋の原点だった。

「平凡な人生は嫌だなって思うようになったのです。『なんでもいいから何者かになりたい』と。子供の頃はスポーツ選手とかミュージシャンに憧れました。仲間の一人が本気でプロのミュージシャンを目指すことになった。それなら俺はレコード会社をつくるよ、と。高校3年生の時。それが起業家を目指したきっかけです」 起業に踏み切ったのは、人材サービス会社のインテリジェンス(現パーソルキャリア)の新入社員時代。すでにトップの営業成績を残していた藤田は自信満々だ。ただ、何をするかは決めていなかった。 「『21世紀を代表する会社をつくる』と明文化したのは起業3年目ですが、『すごい会社をつくろう』という思いはありました。そのために選んだのがインターネットでした」

■「悪魔に魂を売ってでも」 藤田を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀だった。サイバーエージェントに70%出資し、事業が軌道に乗れば藤田に株式を売る約束だった。 (宇野)「彼は誰よりも朝早くに会社に来て、みんなが来る頃にはもう営業に行っていた。口で語るより行動で力をつけていく姿を見ていました。起業したいと言う人は多かったが、彼は覚悟が違った。夢ではなく明確な目標でした」 宇野が「さっきトイレで思いついた」と言って藤田に提案したのがネット専門の営業代行業だった。当時のネットベンチャーは技術者出身が多く、営業は不得手。それなら藤田の営業力を生かせると考えたのだ。 藤田氏を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀氏(現USEN-NEXT HOLDINGS社長)だった"宇野の考え通り、サイバーはすぐに軌道に乗った。だが、藤田には違う思いもあった。 「営業代行だけで『すごい会社』になるのは非常に難しいなと。自分たちでプロダクトを作らないとダメだなと思っていました。それを起業して半年ほどで見つけました」 それがクリック保証型広告と呼ばれるシステムだった。この技術は、実はサイバーの顧客のものだが、藤田はそっくりそのままコピーしてしまった。今では許されざる行為と認める。

 

「当時は24歳。あらゆる手を使って成功に近づこうと思いました。それこそ、悪魔に魂を売ってでも。今ならあり得ないです。でも、当時はそんなことを考える余裕もないくらい必死でした」 ところが、営業集団のサイバーには、そのシステムが作れない。弱点を補おうと藤田が提携を持ちかけたのが、オン・ザ・エッヂという会社だった、堀江貴文が東大在学中に起業した会社で、システム構築を受託する技術者の会社だった。堀江との出会いは衝撃だった。 「自分に足りないものを堀江さんが持っていると、会った瞬間に感じた。彼らにとっても僕らが必要だと思いました。堀江さんとは波長は合うけどタイプは真逆。もし僕と堀江さんが学校で同じクラスだったら友達にはなっていないと思います。組織のカルチャーも真逆。我々(の会社)には技術者が居つかなかったし、オン・ザ・エッヂは営業とかマーケティングを我々に委ねていた。(両社とも)上場できたのはお互いのおかげだと思います」

 

■「堀江氏に嫉妬」 二人三脚で坂道を駆け上がる藤田と堀江は、ともに「時代の寵児(ちょうじ)」と呼ばれるようになる。だが、無名時代から堀江を知る藤田の目に、「ホリエモン」と呼ばれるようになった堀江は、別人のように映ったという。 「堀江さんは当初、受託しかやっていなかったので金にシビアである意味、臆病だった。我々と組んだのもリスクを分散するため。要は(経営者として)慎重な人だった。ところが(2002年に)ライブドアを買収してプロ野球参入に手を挙げた頃からある意味、コツをつかんで世の中を騒がすことをやっていきました。フジテレビを買収しようと大きな借り入れをして勝負を仕掛けた時から『堀江さんは人が変わったな』と思いました」 そんな堀江の姿を見て、藤田は初めて同世代の人物に嫉妬を覚えたと告白する。 「当時は(ネット企業と言えば)『ヤフー、楽天、ライブドア』と言われていました。実態は自分たちとそんなに変わらないのに過剰に評価されている。そう思った時に『嫉妬するものなんだ』と感じました。それまではやきもちを焼かれることはあっても、逆はなかったですから」 東京・渋谷にIT企業が集積し、「ビットバレー」ともてはやされた2000年前後、藤田はその代表格と見なされたが本人の思いは違った。 「その時は自分の売り込み時だと思っていました。メディアで取り上げられるとお客さんも投資家も集まってくれて好循環が生まれる。ビットバレーを利用しようと。『魂を売ってでも成功する』のひとつです。ただ、浮かれている起業家も多かったので、実際にはビットバレーの集まりには一度行っただけ。あいさつを済ませて15分くらいで帰っちゃいました」 試練は直後にやってきた。2000年3月の上場直後からIT株は下落し始めた。インターネットバブルの崩壊だ。「社長辞めろ」「福井に帰れ」。藤田は一転、ネット上で激しくバッシングされるようになった。 「当時の大変さを言葉にするのは難しいですね。サイバーエージェント株を買ってもらって損をさせてしまった人もいますが、関係がないのに怒る人が出てきて、炎上と同じ論理で火が燃え移っていく。(事業を伸ばすには)時間が必要だけど待ってくれる雰囲気ではない。今だと経験を積んでいるので開き直れるけど、当時は若かった。もう昏倒(こんとう)しちゃって、自信をなくしてしまった」

 

■「お前の会社なんていらねぇよ」 そこに2人の男が現れた。GMOインターネット創業者の熊谷正寿と、通称「村上ファンド」を率いる異色の投資家、村上世彰だ。2人はそれぞれサイバー株を買い集めていた。「藤田君を味方に付けたかった」という熊谷は事業提携に次いで合併を持ちかけた。事実上の買収提案だった。 「犯罪人みたいに扱われていたので株を買ってくれる人はありがたかった。僕を経営者として評価してくれる人はゼロだったので。でも身売りしてしまうのは違うという考えはありました」 一方の村上は「減資して株主に現金を返すべきだ」と迫った。サイバーは上場で225億円を市場から調達したが、村上が藤田に聞いても納得のいく成長戦略が返ってこない。それなら会社の清算も考えるべきだと言うのだ。 「村上さんはアイデアをお持ちで、会って意味のある投資家。ただ、会社としての可能性も僕の経営者としての可能性も全く評価していなかった。目の前にある現金と事業を比べると減資して事業を絞り込むのがベストという考えでした。村上さんなりの正義があり、その視点から見れば正しい。でも、それではその前に僕に対して投資してくれた人には報いることができない。だから受け入れられなかった」 事態は切迫していた。実は藤田は株価低迷で士気が下がる現場に報いようと自分の持ち株を無償で社員に配布していたのだ。藤田の出資比率は34%から23%に低下。もし、熊谷が村上から株を買い取れば会社が乗っ取られてしまう。 強引な買収を良しとしない熊谷は、あくまでも藤田の了解を待つ考えだったが、合併を諦めたわけではない。市場からは「無能の経営者」とのレッテルを貼られ自信を失った藤田は、思い詰めた。後ろ盾だった宇野に、サイバーの買収を持ちかけたのだ。どうせなら宇野にサイバーを引き継いでもらいたい――。そう考えた藤田だったが、宇野の答えは非情なものだった。 「お前の会社なんていらねぇよ」 宇野はそう言い放った。ぼうぜんと立ち尽くす藤田。 「頭の中が真っ白になりました。自分なりに腹を決めて言ったので……。どこかに放り出された気持ちでした」 しかし、これは宇野流の叱咤(しった)激励だった。

       藤田氏を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀氏(現USEN-NEXT HOLDINGS社長)

宇野はこの後、藤田を救うべく奔走する。白羽の矢を立てたのが楽天創業者の三木谷浩史だ。ある人物を介して三木谷にサイバーへの救済出資を申し入れていた。村上にも「このへんで手を緩めてもらえないでしょうか」と頭を下げていた。実は宇野には負い目があった。藤田が窮地に陥る原因となったGMOによるサイバー株の取得。これは宇野が創業したインテリジェンスの社長になっていた鎌田和彦がGMO社長の熊谷に持ちかけたものだった。宇野は当時、実父に頼まれて家業の大阪有線放送社(後のUSEN)を継いでいたが、インテリジェンス会長も兼任しているため経緯は承知している。 (宇野)「実はインテリジェンスの投資家からサイバー株を売却すべきだと何度も意見を受けおり、社長の鎌田から相談されました。そちら側の論理は否定できず(サイバー株を売るのは)致し方ないと思いました。GMOに売却することでそうなる(藤田が追い込まれる)とは思っていなかった。だから、私が事態を整理する責任があると思いました」 楽天からの出資を受けて窮地を救われた藤田はその後、村上から何度も撤退を提案されていたメディア事業の強化に力を注ぐ。村上だけではない。市場関係者からの冷たい視線はそれから数年間変わらず、サイバーの株価は低迷し続ける。

 

■「歴史が証明した」だが、もう藤田に迷いはなかった。アメーバブログのヒットとともに株価は底を脱し、動画配信のアベマTVも抱えるメディア事業はサイバーの主力事業へと育った。「あの時、村上さんの言い分を聞いていればサイバーエージェントもここまでは来なかったし、僕という経営者の可能性もあそこで絶たれていました。歴史が、どっちが正しいかを証明したと思います。あれより大変なことでなければなんとも思わなくなりました。その後も色々とたたかれ、トラブルや危機もあったけど、当時よりはマシだということで克服できました」 「有事こそ変革を起こせるチャンス」と語る最近の藤田氏創業から10年目の夜、藤田は自らのブログにそれまで味わった数々の苦難を挙げ、最後にこんなことをつづった。「悔しくて、見返したくて、いつか全員黙らせたくて」。今は何を思うのか。起業家は長い時間軸で自分が正しいことを証明するしかない。そんなに甘いものじゃない。でも、(もし過去に戻っても)絶対にもう一度やりますよ。これほどやりがいがあって大変で、しかも退屈しないものはないから。 20年前の逆境が一人の起業家を変えた。現在は全世界が新型コロナウイルスという見えない恐怖に直面している。未曽有の危機を前にしても藤田に気負いはない。「有事こそ変革を起こせるチャンス。それに我々の目標は『21世紀を代表する会社をつくる』こと。全くなし得ていない。まだまだです。世界に通用するプロダクトをつくるべく、粛々とやっていきますよ」


デンソー「QRコード」が世界に普及した奇跡

2020年05月23日 09時05分50秒 | 日記
世界中で使われているQRコードは、自動車部品会社、デンソウが開発したことはよく知られている。東洋経済が、其の歴史解説していたが、それを見直してみたら色々、知らなかったことがあった。

以下、東洋経済からの引用::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

正方形に白と黒の模様が碁盤の目のように配置された「QRコード」を知らない人はいないだろう。自動認識技術の一つで、スマホで読みこんでサイトにアクセスできるのも、空港手続きが簡単になり保安検査場を通過できるのも、QRコードのおかげだ。製造、物流、小売り、医療、サービスといった幅広い産業・業界で使われており、今も世界に広がっている。
開発したのは自動車部品国内最大手のデンソーで、現在、2001年設立のデンソーウェーブが展開している。なぜ、この技術を開発し、市場を開拓し、世界に広げることができたのか。その軌跡を活写したのが『QRコードの奇跡』だ。オープンイノベーション化は苦手といわれることの多い日本企業だが、これほど格好の成功事例はない。本稿では、その「奇跡」のエッセンスをお届けする。
セブン-イレブンの成長とともに技術を蓄積
QRコードは、デンソーのバーコード開発の話を抜きにしては語れない。同社は1975年に独自のNDコードを開発していた。これは、トヨタの生産方式「かんばん」を導入することによる、生産現場や事務作業の負荷軽減を図る狙いから生まれたものだった。


『QRコードの奇跡』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)
バーコードと並んで重要なのが、読み取り機であるバーコードリーダーだ。両者の開発を進めた同社は電子版「バーコードかんばん」を完成させ、事業の礎を築くことになる。

保守・修理の会社を作り、外販ビジネスにも取り組むことになったころ、時代も味方になった。事業を担当する1人だった岡本敦稔はアメリカに出張する機会があり、スーパーマーケットに立ち寄った。そこでチューインガムのパッケージにバーコードが印字され、レジ精算で使われているのを見て、自動車業界以外の「新市場」を確信したという。

日本でも小売企業がバーコードリーダーを買ってくれるようになるという、岡本の読みは当たった。ただし、その主役はスーパーではなく、急成長中のコンビニエンスストアだった。

最大手のセブン-イレブン・ジャパンは、最先端のPOSレジを導入したものの、バーコードの読み取りに苦労していたという。初代POSレジではペンリーダー型のスキャナーを採用していたが、読み取り精度に難があったのだ。

デンソーは、レジメーカーのTEC(現・東芝テック)と共同で、独自開発したCCDセンサーを組み込んだバーコードスキャナーをPOSレジ用に採用することを提案、採用される。どのメーカーのリーダーも読めなかったようなバーコードも、デンソーのリーダーは読むことができた。当時のシェアは100%になったという。

その後、セブン-イレブンからの要望を受けて検品用スキャナーも開発。デンソーは、コンビニでの事業を通じて、自動車業界だけでは遭遇できない多様な読み取り場面を経験し、読み取り技術の幅を広げ、技術を蓄積していった。

一方、製造業の現場では「バーコードかんばん」での管理に限界が見え始めていた。横方向の1次元だけに情報を持つバーコードではなく、横と縦の2次元に情報を持つ2次元バーコードに社会のニーズがあるのは明らかだった。

既存の2次元コードは、主に3つが先行していた。大容量の情報格納が得意なPDF 417、小サイズ印刷に強いデータマトリクス、高速読み取りに強いマキシコード。結論からいうと、デンソーのQRコードは3つの長所を取り入れたものである。

通勤電車でヒントをつかんだQRコードの父
なかでも同社は高速読み取りを重視したが、それを可能にする読みやすい新コードを開発することは簡単ではなかった。そんなときに、QRコードの父といわれる原昌宏は、通勤電車から見た景色から大きなヒントを得る。

「あるビルの上層部に特徴的なデザインがあって、そのビルだけがはっきり見えたような気がしたんです。そこから、定位置に特徴的な模様を付けて目印にすれば、素早く認識できる。その目印を3つの隅におけば、上下左右の方向性も認識できると考えました」

QRコードのカギとなる、切り出しシンボル(ファインダーパターン)の着想を得た瞬間だった。

気の遠くなるような作業を経て、白セルと黒セルの幅の比率が1:1:3:1:1で構成される切り出しシンボルを完成。これを3つの隅に配したことで、安定した読み取りが可能となった。数字で約7000文字、漢字やカナもOK、誤り訂正機能がありデータ復元も可能というQRコードが誕生したのは1994年8月だった。


1:1:3:1:1の黄金比 (出所:デンソーウェーブ、『QRコードの奇跡』89頁)
新聞発表の1週間前に慌ててネーミング会議を開き、2案から多数決で決まったのがQRコード。QRとはクイック・レスポンスの略である。

その後デンソーは、国内のみならず、海外での地位を獲得することを目指す。自動車業界での標準化を推進し、それを軸にしながら日本からアメリカ、その他の「国際」標準化へと進めていった。とりわけ重要だったのが北米での活動だったという。

日本自動認識工業会で標準化が成立したのは1996年末、国際自動認識工業会における標準化が成立したのは1997年10月。そして2000年6月、ISO/IEC18004として発行された。日本企業が開発した技術が国際標準として認められた、数少ない事例である。

モノづくりの精神でつながったラグビー型組織
QRコードは、2002年に日本テレコムとシャープが携帯電話でQRコードを読むサービスを開始したことが、普及の後押しとなった。ANAが搭乗券に採用したのが2006年。2019年には都営地下鉄浅草線で駅ホームドアの仕組みに活用されるなど、利用シーンは広がっている。

バーコードとバーコードリーダーは、コンビニ業界ではレジでの入力作業を効率化しただけではなく、データマーケティングへの活用につながった。そして、1次元のバーコードの限界から生まれた2次元のQRコードは、オープンソース化によって、多くの企業や人々に広がった。

携帯電話のカメラによるQRコード読み取りは、その後スマートフォンにも引き継がれ、中国でのQRコードによるモバイル決済へとつながっていく。

QRコードの功労者はたくさんいる。それぞれの段階で、個性豊かな技術者が課題を解決しようとして、仕事にのめり込んでいった結果、実現したものだ。技術者だけではない。標準化への粘り強い取り組みと、それを支援する体制があったから現在がある。

それぞれの任務を果たした社員は、互いに連携を図りながら次のステップへとつないでいった。モノづくりの精神でつながった集団によるラグビープレー的な組織力が、QRコードを世界的地位へと押し上げたのだろう。

「かんばん」の電子化を推進し、NDコードやQRコード、読み取り機のリーダーを開発したのは、IT企業ではなく自動車部品の製造現場だったことは特筆すべきことだ。「革新の神は局所に宿る」というが、デンソーグループの取り組みはそれを証明している。

だからこそ、奇跡は起きたのだ。