2019年日経電子版で連載した「ネット興亡記」で、インターネットイニシアティブ(IIJ)創業者の鈴木幸一氏の苦悩話が掲載されていた。なかなか面白いので、メモって見た。
IIJはなじみのない企業であるが、インターネットの中枢を握る、インターネットバックボーンを抑えている唯一の民間企業である。Wikipediaも解説を引用する::::::
国内外の主要なインターネットエクスチェンジとのピアリングも積極的に推進し、電信電話系ではないIP通信専業のISP事業者としては国内最大規模の主要都市間を接続するインターネットバックボーンを独自に構築している。また、アジア太平洋地域の国際バックボーンであるA-Boneの構築にも関与するなど、インターネット接続環境の整備にインフラ面で大きな貢献を果たした(1995年に株式会社アジア・インターネット・ホールディングを設立。2005年に吸収合併)。
主要な顧客層は官公庁と法人で、11,000社以上を抱える。特に、高度・大規模なシステムインテグレーションを必要とする大企業に対するシェアは圧倒的で、各業界トップ10企業の半数から、セクターによっては大半の主要企業を顧客とする。
IIJ自体が村井純・吉村伸を始めとするWIDEプロジェクトのメンバーが中心となって設立された企業である関係から、現在もWIDEプロジェクトやEPCglobalを始め、インターネットに関する研究・調査・実証実験・標準化等の活動に積極的に参画している。ISP事業者の中では、研究投資の比率は比較的高い方である。
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商用インターネットの事業化を認めようとしない政府との苦闘を語る。会社はつくったものの何も出来ない「空白の1年3カ月」。鈴木氏は思い切った行動に出た。
この国のインターネットはいったい誰がどうやって始めたのだろうか。その起源をたどれば、ある男が経験した苦悩の物語があった。
鈴木幸一の個人オフィスに2人の知人が訪ねてきたのは1992年の夏のことだった。ひとりは慶応義塾大学助教授(当時)の村井純。84年に大学を結ぶネットワーク「JUNET」を築き、現在では「日本のインターネットの父」と呼ばれる。もうひとりはアスキー部長の深瀬弘恭だった。
「今こそ日本にインターネットを広げる時です。やりましょう」
2人は鈴木に、日本で初となる商用インターネット接続事業会社の設立を持ちかけた。2人が来訪するまで昼寝していたという鈴木は面食らうが「インターネット」と聞くと、熱い思いがこみ上げてきた。鈴木は当時、46歳。脱サラして個人で経営コンサルタントをしていたが、インターネットには並々ならぬ関心があった。
「インターネットは20世紀最後の技術革新。(それまでは電算機と言われた)コンピューターと通信が同じ技術基盤の上で動く。どんなものができるか、想像するとすごいものになるなと。世の中の仕組みを変えてしまうようなことが起きると思っていました」

■21世紀の覇権を占う技術
3人はそのまま居酒屋に場所を変えて気炎を上げた。村井と深瀬が「今こそ日本にインターネットを」と力説する理由が、鈴木には理解できた。冷戦が終わったばかりの当時、米国がいち早く動いていたからだ。
「日本が戦後に製造業で稀有(けう)な経済復興を遂げると、米国は(製造業では)ついてこれなくなった。だが同時に金融や通信のプラットフォームを米国が独占することで21世紀に再び世界の覇権を握るという意識で議論もし、政策も打ち出していた。単なる新しい道具、おもちゃとして考えた(日本という)国のインターネットに対する態度とは全く違うものだった」
鈴木は「誰もやらないのはまずい」と思い立ち、この年の12月にインターネットイニシアティブ(IIJ)を設立した。だがそれは、苦難の始まりだった。
村井と深瀬は「東京電力から10億円単位の出資を受ける話をつけている」と言っていたが、東電幹部に聞くと「そんな約束はしていない」。集まった資本金は1800万円。100年をかけて築かれた電話にとって代わる通信インフラを担うには、話にならない額だ。
大企業に出資を持ちかけても相手にされなかった。新日本製鉄(当時)の幹部には「インターネットが事業で使われるようなことになれば、全裸で逆立ちして銀座を歩いてみせますよ」とまで言われた。
「『面白そうだけど使えないんじゃないか』という意味でした。あの頃は天井に届くほどの分厚い提案書を書いた。でも、彼らが生きてきた世界とは違っていた。これほど無理解かと思いましたが、僕も片意地を張って始めちゃった」
「それでも絶対に変わらなかったのが、これが世界の覇権にかかわる技術なんだという思いです。もう、バカみたいに、ドン・キホーテみたいに、でもやろうと。錯乱と言えば錯乱ですね」
■証明不能の難題
鈴木に立ちはだかったもうひとつの壁が役所だった。インターネット接続事業を始めるには国の認可が必要だが、監督官庁の郵政省(現総務省)の幹部は「通信は公益事業」と言い、鈴木にこう言い放った。
「IIJが絶対に潰れないという証明をしてください」
あっけに取られる鈴木に「例えば3年間、全く契約を取れないということもあり得るでしょう」と言う。それでも倒産せずにサービスを続けられる証明をしてみろというのだった。
まさに証明のしようがない「悪魔の証明」――。鈴木の目に、郵政省は認可する考えなど毛頭ないように映った。
「日本はちゃんとした良い国なんだと思います。ちゃんとした仕組みがあり、だからそれを壊せない。でも、許せないと思いました」

インターネットという技術革新とともに人生を歩んだ
IIJは事業を始められないまま時間を浪費していく。資金はすぐに底をつき、鈴木は金策に走るが、次第に社員への給与の支払いにも窮するようになった。IIJのオフィスは解体されることが決まっていた廃屋のようなビルに入っていた。ブラインドを買う金もないため、社員が席に日傘を持参していたほどだ。
「まるでお化け屋敷。(食費を切り詰めるため)会社で飯ごうで米を炊くバカがいて、大家さんにも怒られました。でも、僕も給料をちゃんと払えと言われれば『確かに』と言うしかない。だから(他の階の空き部屋に)卓球台を持ってきて、給料日が近づくとそこに逃げこんだ。社員は『また(社長が)いない』と」
「社員はそんな食っていけるかどうかも分からないような技術を勉強していた変わり者たちですが、みんなトップのエンジニアだった。みんな若くて協調性はゼロだけど熱いパッションを持っている。会議でよくケンカになってペットボトルを投げるので、会議室には持ち込み禁止にしました」
鈴木はついに覚悟を決めた。友人のツテで郵政省幹部と新年会を開いてもらうと、その場で「このままの状況が続くなら郵政省を提訴する」と迫ったのだ。すると後日、郵政省から「条件は3億円の財務基盤を示すこと」という連絡が入った。
■ヤマト運輸トップからの手紙
さっそく銀行を回った鈴木。突破口になったのが住友銀行(当時)だった。役員が20分だけ会ってくれるという。熱弁を振るう鈴木に、その役員が最後に、インターネットのユーザーはどれほど増えそうかと聞いた。当時は研究者を中心に1000人ほどだが、10年後には最低でも3000万人になると言う鈴木。その役員がこう言った。
「ほう、3万倍か。そこまでのホラはなかなか聞けないな」
すると、こう付け加えた。「私は正直、インターネットのことは分からないけど、あなたの顔は失敗する顔じゃないね」。1億円の融資保証を約束すると言う。これに他行も続き、鈴木は「3億円の保証」をかき集めた。「悪魔の証明」が解けた瞬間だった。
ちなみに鈴木の「ホラ」は外れた。10年後の日本のネット人口は7700万人を超えていたからだ。

米ナスダック上場から6年後の2005年12月、東証マザーズに上場した
そして1994年2月28日、ついにIIJに認可が下りた。なじみのバーで一杯ひっかけてから、鈴木はオフィスに向かった。
「みんな喜びを忘れるくらいへたっていたよ。毎日会社に来てもやることがないから。でも『やっとできるよ』と」
「僕も破産間近だったけど、(役所は)IIJが何を言っても無関心。これは訴訟しかないなと思いました。唯一応援してくれたのが会ったこともない人だった。ヤマト運輸(元社長)の小倉(昌男)さん。『君は役所とケンカしているそうだね。がんばれ』という内容の手紙が来た。あれはうれしかったねぇ」
激しく役所と対立しながらも宅配便を生み出した小倉は、分野は違えど国を相手に信念を曲げずに戦う鈴木の気骨を買ったのだろう。この国にインターネットをもたらした鈴木は73歳になった今もIIJ会長として陣頭指揮をとる。鈴木にとってインターネットとはなんだったのか。
「なんでこれで人生を潰しちゃったのかな、とね。僕は本来、本を読むのが好きだったのに。本当にこの世界が僕にあっているのかどうか……。でも、ついついはまっちゃった。空間と時間の概念を根本的に変えたインターネットという技術革新は、やっぱり面白い」