田端の駅の南側、東西1キロ、南北700mの狭い地域に小説家、詩人、歌人、陶芸家、画家、書家など60人もの芸術家(記念館のしおりによる)が大正から昭和初めにかけて暮らした。この地域をいま田端文士村と呼ぶ。駅北口の西側(山手線の内側)に記念館がある。文士村成立のきっかけは、1889(明治22)年東京美術学校が上野に移ってきたことだった。
まず画家の小杉放菴が1900(明治33)年に転入、板谷波山が03年に窯を築き、山本鼎ほか美術家が多く住みついた。ついで芥川龍之介が1914(大正3)年本所から、16年に金沢出身の室生犀星が転入した。
ちょうど企画展「水魚の交わり――犀星・朔太郎の交友」を開催中だった。タイトルは2人だが、内容は芥川龍之介も加えた3人の友情がテーマになっていた。3人のなかで一番年長なのは、ちょっと意外だが萩原である。萩原の3歳下が室生、さらに3歳下が芥川である。1916年室生と萩原は雑誌「感情」を創刊、32号(1919年)まで続いた。のちに萩原も1925年に8か月だけだが田端で暮らした。田端に来る前だが17年に第1詩集「月に吠える」を発行しようとして検閲に引っかかり、2編を落として発行にこぎつけた。このとき犀星が骨を折った。関東大震災を経て、27年に芥川が自殺する。大きなショックを受けた犀星は馬込に転居する。馬込は萩原が住んでいた地だったからだ。文士村といえば田端だけでなく馬込も有名だが、こんなつながりがあったわけだ。
1923年には菊池寛が、犀星が元住んでいた家に3か月だけだが転入した(犀星は田端の別の家に転居)。月刊文藝春秋を創刊した年の秋だった。3か月とか半年だけ住んだという人物も多い、たとえば二葉亭四迷は1904年に半年、岡倉天心は1913年に2か月、野口雨情は1920年に約半年(ただし児童雑誌の編集部に寄宿という事情)、竹久夢二は1921年に半月、林芙美子は24年に3か月という具合だ。かつては借家住まいが普通で、しょっちゅう転居する人も結構多かったからだろう。犀星は田端に住んだ12年のあいだに6回転居した。
逆に板谷、芥川、小川三知(ステンドグラス作家)、小山栄達(日本画家)のようには終生住み続けた人も何人かいる。
昭和に入り、田端では窪川鶴次郎、中野重治、堀辰雄らが1926年「驢馬」を創刊し12号(1928年)まで続いた。3人ともまだ20代前半の若者だった。窪川と結婚したのが佐多稲子だった(戦後に離婚)。佐多は近くのカフェ・紅緑の女給をしていた時期があった。また窪川、佐多、中野、原泉(中野夫人)が、もう少し北の十条の窪川家で撮った写真が展示されていた。
年表を見て田河水泡と小林秀雄が1929年に転入し転居も同じく31年であることに気付いた。よく見ると住所も同じ155番地、田河宅に小林が同居していたのだった。そういえば田河の妹・潤子は小林の妻である。よほど仲がよかったのだろう。
田端は45年4月13日の空襲で全焼し、文士村も消滅した。
詳細な散策マップがあったので、せっかくなので近辺を散策した。ただ表示板があるのはサトウハチロー、室生犀星、板谷波残、芥川龍之介、小杉放庵の5軒だけ、他は地図だけがたよりなので、この家か隣の家かと迷うところが多かった。
道はけして直交しておらず、くねくね曲っていて行き止まりの路地も多く、かつ坂が多く高低差がきつい。切通しの道は低いところを走っているが両側の高いところに細い車道があり、高い道路は横断橋で結ばれている。不思議な光景だった。
切り通しの上にも車道がある2階建て道路。歩道橋がその道をつなぐ
サトウハチローの掲示には「僕の東京地図」という詩の一節があり「田端、田端、田端。おやぢの先生の子規先生のお墓のある田端(略)芥川さんにおじぎをした田端(略)、いま又、時々岩田専太郎のところへ金をかりに行く田端、タバタ、たばた。(どっちから読んでもたばた)」とありおかしかった。サトウは中学生のとき詩人・福士幸次郎の家に2年間預けられた。芥川の標示にはこの地で「「羅生門」「鼻」「河童」「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡をのこしました」とあった。居住したのは1914年から27年だが、22歳から35歳、帝大で菊地、久米らと第三次新思潮を発刊し処女小説「老年」を発表した直後から亡くなるまでだからこの地がホームグラウンドである。子どもの比呂志、也寸志もここで生まれ育ったのかと感慨深かった。
標示には「水虎晩帰之図」の絵が付いていた。1922年芥川と菊地が長崎旅行したときに、芸妓照菊に銀屏風に描いて与えたものだそうだ。この絵はかつて本のカバーでみかけたが、芥川自身の手によるものとは知らなかった。
家はどこも民家やマンションに建て替わっていた。そのなかでは波残の旧居跡地の家が片流れのすてきなデザインの家で、芸術家の家を思わせた。
平塚らいてう、中野重治、林芙美子の家(旧居跡)はちょっと見てみたかったのだが、ここかなと思う家はあったが、みつけられなかった。竹久夢二の家も同様だった。
来る途中、根津や千駄木の商店街で根津・千駄木下町まつりをやっており、にぎやかな和太鼓の音が聞こえていた。
このあたりは北区、文京区、荒川区、台東区の区境の地域だ。幹線道路であっても道幅が狭いように感じた。
少し前に行った門前仲町も下町だが、下町には独特の雰囲気をもつ居酒屋の名店が多くある。
田端駅北口の東側には初恋屋がある。日暮里にはいづみや、根岸には鍵屋、わたしは行ったことがないが千駄木にはにしきやもある。
田端文士村記念館
住所:東京都北区田端6-1-2
電話: 03-5685-5171
休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始
開館時間 10時-17時(入館は16時半まで)
入館料:無料
まず画家の小杉放菴が1900(明治33)年に転入、板谷波山が03年に窯を築き、山本鼎ほか美術家が多く住みついた。ついで芥川龍之介が1914(大正3)年本所から、16年に金沢出身の室生犀星が転入した。
ちょうど企画展「水魚の交わり――犀星・朔太郎の交友」を開催中だった。タイトルは2人だが、内容は芥川龍之介も加えた3人の友情がテーマになっていた。3人のなかで一番年長なのは、ちょっと意外だが萩原である。萩原の3歳下が室生、さらに3歳下が芥川である。1916年室生と萩原は雑誌「感情」を創刊、32号(1919年)まで続いた。のちに萩原も1925年に8か月だけだが田端で暮らした。田端に来る前だが17年に第1詩集「月に吠える」を発行しようとして検閲に引っかかり、2編を落として発行にこぎつけた。このとき犀星が骨を折った。関東大震災を経て、27年に芥川が自殺する。大きなショックを受けた犀星は馬込に転居する。馬込は萩原が住んでいた地だったからだ。文士村といえば田端だけでなく馬込も有名だが、こんなつながりがあったわけだ。
1923年には菊池寛が、犀星が元住んでいた家に3か月だけだが転入した(犀星は田端の別の家に転居)。月刊文藝春秋を創刊した年の秋だった。3か月とか半年だけ住んだという人物も多い、たとえば二葉亭四迷は1904年に半年、岡倉天心は1913年に2か月、野口雨情は1920年に約半年(ただし児童雑誌の編集部に寄宿という事情)、竹久夢二は1921年に半月、林芙美子は24年に3か月という具合だ。かつては借家住まいが普通で、しょっちゅう転居する人も結構多かったからだろう。犀星は田端に住んだ12年のあいだに6回転居した。
逆に板谷、芥川、小川三知(ステンドグラス作家)、小山栄達(日本画家)のようには終生住み続けた人も何人かいる。
昭和に入り、田端では窪川鶴次郎、中野重治、堀辰雄らが1926年「驢馬」を創刊し12号(1928年)まで続いた。3人ともまだ20代前半の若者だった。窪川と結婚したのが佐多稲子だった(戦後に離婚)。佐多は近くのカフェ・紅緑の女給をしていた時期があった。また窪川、佐多、中野、原泉(中野夫人)が、もう少し北の十条の窪川家で撮った写真が展示されていた。
年表を見て田河水泡と小林秀雄が1929年に転入し転居も同じく31年であることに気付いた。よく見ると住所も同じ155番地、田河宅に小林が同居していたのだった。そういえば田河の妹・潤子は小林の妻である。よほど仲がよかったのだろう。
田端は45年4月13日の空襲で全焼し、文士村も消滅した。
詳細な散策マップがあったので、せっかくなので近辺を散策した。ただ表示板があるのはサトウハチロー、室生犀星、板谷波残、芥川龍之介、小杉放庵の5軒だけ、他は地図だけがたよりなので、この家か隣の家かと迷うところが多かった。
道はけして直交しておらず、くねくね曲っていて行き止まりの路地も多く、かつ坂が多く高低差がきつい。切通しの道は低いところを走っているが両側の高いところに細い車道があり、高い道路は横断橋で結ばれている。不思議な光景だった。
切り通しの上にも車道がある2階建て道路。歩道橋がその道をつなぐ
サトウハチローの掲示には「僕の東京地図」という詩の一節があり「田端、田端、田端。おやぢの先生の子規先生のお墓のある田端(略)芥川さんにおじぎをした田端(略)、いま又、時々岩田専太郎のところへ金をかりに行く田端、タバタ、たばた。(どっちから読んでもたばた)」とありおかしかった。サトウは中学生のとき詩人・福士幸次郎の家に2年間預けられた。芥川の標示にはこの地で「「羅生門」「鼻」「河童」「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡をのこしました」とあった。居住したのは1914年から27年だが、22歳から35歳、帝大で菊地、久米らと第三次新思潮を発刊し処女小説「老年」を発表した直後から亡くなるまでだからこの地がホームグラウンドである。子どもの比呂志、也寸志もここで生まれ育ったのかと感慨深かった。
標示には「水虎晩帰之図」の絵が付いていた。1922年芥川と菊地が長崎旅行したときに、芸妓照菊に銀屏風に描いて与えたものだそうだ。この絵はかつて本のカバーでみかけたが、芥川自身の手によるものとは知らなかった。
家はどこも民家やマンションに建て替わっていた。そのなかでは波残の旧居跡地の家が片流れのすてきなデザインの家で、芸術家の家を思わせた。
平塚らいてう、中野重治、林芙美子の家(旧居跡)はちょっと見てみたかったのだが、ここかなと思う家はあったが、みつけられなかった。竹久夢二の家も同様だった。
来る途中、根津や千駄木の商店街で根津・千駄木下町まつりをやっており、にぎやかな和太鼓の音が聞こえていた。
このあたりは北区、文京区、荒川区、台東区の区境の地域だ。幹線道路であっても道幅が狭いように感じた。
少し前に行った門前仲町も下町だが、下町には独特の雰囲気をもつ居酒屋の名店が多くある。
田端駅北口の東側には初恋屋がある。日暮里にはいづみや、根岸には鍵屋、わたしは行ったことがないが千駄木にはにしきやもある。
田端文士村記念館
住所:東京都北区田端6-1-2
電話: 03-5685-5171
休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始
開館時間 10時-17時(入館は16時半まで)
入館料:無料