NHKの今年の大河ドラマ「青天を衝け」は年末で終了なので、放映はあと3回に迫った。
渋沢栄一は深谷の生まれ育ちということは有名だが、王子に渋沢資料館があるので、なんとなく北区在住の人かと思っていた。しかし、仕事で活躍した場は千代田区や中央区が多い。
渋沢の東京での居住地をネット検索すると、千代田、中央、江東、北、中央、港と転居している。手掛けた会社は500社、関係した協会や学校など社会事業は600というのだから、東京各区が渋沢ゆかりの地になっていてもおかしくない、そこで多くの区が「〇〇区ゆかりの渋沢栄一」といったイベント開催やウェブサイト立ち上げを行った。
飛鳥山公園の渋沢栄一像(1902制作)
1871年(明治4)年大蔵大丞に就任したころから大蔵省を辞任し民間の第一国立銀行総監に就任する73年7月までの2年神田小川町裏神保小路(現在の千代田区神田神保町一丁目)に住んだ。千代田には一橋徳川家屋敷跡、東京商工会議所、帝国ホテルなどがあり、4月から日比谷図書文化館で「内田嘉吉文庫に見る 渋沢栄一とその時代」を開催していた。
1873(明治6)年から76年まで兜町(海運橋兜町二番地)に住んだ。跡地は平和不動産本社がある日証館となっている。ただNHKの首都圏ナビ「青天MAP」では住居跡地はみずほ銀行兜町支店と受け取れる書き方をしている。しかし兜町支店建物の側面に、はっきり「第一国立銀行跡」と書かれており、違うと思われる。日証館と兜町支店とは150mほど離れているので、途中のどこかにあった可能性はある。この家は三井のもので借家だったようだ。
76年8月、江東区の深川福住町(福住町四番地 現・永代2-37)に本邸を購入し転居した。元は米問屋と蔵だった。木造2階建てで、延べ床面積は1100平方メートル、部屋は約30室あるという。設計・施工は清水組2代目清水喜助だった。88年まで使われたので12年住んだことになる。この屋敷の写真がこのサイトにある。この建物は一時青森県に移築されていたが来年3月江東区潮見に移築の予定になっている。
転居後も本籍は深川に残し、深川区議会議員を89年11月から15年も務め議長になった時期もあったそうだ。区内には浅野総一郎とのセメント工場(現・太平洋セメント)や初の人造肥料会社(現・日産化学)があり、碑も残っている。4月まで中川船番所資料館で特別展「渋沢栄一と江東」を開催していた。
1888年(明治21)年12月、本邸を再び兜町の新築邸宅に移した。日本橋川に沿って建つ渋沢邸はベネチアン・ゴシック様式の壮麗な建物だったが1923年の関東大震災で焼失した。川沿いのこの建物が日証館がある場所に建っていたことは間違いない。
中央区には、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京株式取引所がある。3月には日証館で「渋沢栄一・赤石フェスタ」を開催、石田慈宏さん(東証金融リテラシーサポート部)のセミナーを聞き、渋沢は実業の実務能力を慶喜の領地、播磨で御産物会所開設や藩札(木綿預手形)発行を通して身につけたというお話に納得させられた。10月から日本橋図書館で「日本橋ゆかりの渋沢栄一」という展示を開催していた。
レセプション・ルームとして使用された飛鳥山の洋風茶室・晩香廬(1917年竣工)
王子・飛鳥山の渋沢邸は79年から別荘として、1901(明治34)年から1931(昭和6)年まで本邸として利用された。別荘をつくったのは当時コレラが流行し、心配した千代夫人と相談し、都心から少し離れた王子を選んだそうだ。わたしは深谷に帰郷する途中で便利だからかと思ったのだが・・・。敷地2万8000平方m、建坪1900平方mの宏大な規模である。施工は清水組、設計は日本館・柏木貨一郎、西洋館・清水釘吉だった。別荘完成後3年の82年に夫人はなんとコレラで亡くなったので、皮肉なことである。見取り図をみると、日本館、西洋館、晩香廬(ばんこうろ)、青淵文庫(ふたつとも国指定重要文化財)・茶室「無心庵」のほか稲荷社まで見える。なにしろ王子駅西南の飛鳥山の南東丸ごとなので、すごい規模だ。建物は45年4月13-14日の空襲で大部分焼失した。
なお晩香廬は栄一の喜寿を祝い清水組(現・清水建設)社員・清水満之助が贈った1917年竣工の建物、青淵文庫は1925年に栄一の傘寿(80歳)と子爵昇格祝いを兼ねて龍門社が贈った建物で、明治からあったわけではない。
区内には抄紙会社(現・日本製紙)や日本初の知的障がい児のための教育施設・滝乃川学園があった。栄一は1921年から死去するまで理事長を務めた。
渋沢は1909(明治42)年三田綱町に新邸宅を構えた。屋敷は深川から移築した。ただ主な住居は王子だった、三田には長男・篤二の家族が住み、栄一も長い時間を過ごしたそうだ。この屋敷は孫の渋沢敬三が継いだが、戦後1949年に国の所有になり大蔵大臣公邸を経て、いまは三田共用会議所だ。隣はオーストラリア大使館、その先は「鹿鳴館」等を手がけたコンドルが設計した綱町三井倶楽部の建物が建つ。麻布十番駅の方面から日向坂を上がった丘の上で、いかにもハイソサエティにふさわしいような場所だった。
港区には創業から35年も経営陣の一員として携わった東京瓦斯(現・東京ガス)や慈恵大学がある。渋沢は慈恵大学の経営母体だった社団法人東京慈恵会の副会長と財務担当者を引き受けた。
上記は渋沢が屋敷を構えた区だが、それ以外でも、渋沢が旧・養育院の経営に携わり長く院長を務めた板橋区、設立発起人の一人となり第3代校長を務めた日本女子大学校がある文京区、品川白煉瓦があった品川区もある。冒頭に記したように渋沢が関わった会社や団体が1000以上ある。
渋沢が関与した会社や学校、病院などはこのウェブサイトに出ている。区別になっており、都心3区が多いが、荒川、台東、北、足立、目黒、豊島、江戸川、武蔵野などさまざまな市区にあった。渋沢とゆかりの地は数多い。
年末の日曜、王子の屋敷がある飛鳥山公園に行った。ここには現在、渋沢資料館、紙の博物館、D51や黄色い都電のある公園がある。この2つはかつて訪れたので、今回は期間限定(2月20日―12月26日)の大河ドラマ館に行ってみた。
NHKの2大ドラマ、朝ドラと大河は、ご当地でイベントを行いその際、展示もやっていることが多いと思う。テレビ撮影のときの小道具や衣装の展示はまずどこでもやっていると思う。この会場では、それにプラスしてテレビならではの展示を行っていた。
ひとつは、VFXを使ったパリ万博で徳川昭武一行がナポレオン3世に謁見するシーンのメイキング映像だ。かつてならパリに日本人スタッフと役者が大部隊でロケ撮影するしかないところを、東京・パリで別々に撮影し合成することで完成させた(コロナ流行で渡航できないという事情もあったようだ)。それを自然な画像にするため、まず日本で使節団が行列するシーンを撮影する。次にパリで、日本人の歩いたスピードとまったく同じ速度でフランス人スタッフが歩き、それを出迎えるフランス人俳優グループがみつめる。その視線の動きを日仏で違いなく合わせることでリアリティが生まれるそうだ。フォンテーヌブロー宮殿でロケを行ったが、まず絵コンテをつくり、何度もウェブで日仏の打ち合わせをした成果だそうだ。
もうひとつ、「4Kドラマシアター」は栄一役・吉沢亮へのインタビューとこれまでのドラマの数シーンをまとめた8分の映像だった。岩崎弥太郎との「私利・独占と公益・合本」の対決シーンなどだが、大画面と音響は迫力があった。4K・8Kはこれまで放送博物館でサッカーの国際ゲームと陸上競技をみたことがある。高精細が売りだったので、素人にはそういう技術的な微妙な差まではわからないと思っていた。しかし、今回見たのは家庭の普通のテレビで一度見たシーンである。大画面での映像も、音響も迫力がまるで違う。家と映画館の差を見せつけられた。まさにNHKと家電メーカーへの応援イベントだった。
その他、入口付近に高さ8mの大型スクリーンがあった。オープニングの黒雲や龍、それにパリの凱旋門などを加えた画面だった。わたしは通り過ぎただけだったので残念ながら感想は書けない。衣装展示で、井上馨の妻・武子役(愛希れいか)のワインレッドのドレスが素敵だった。説明パネルにはガーネットカラー シルクサテンのバッスルスタイルドレスとあった。
以上、渋沢自身とはあまり関係ない話ばかりだ。なかにひとつ本論に関係ある展示品があった。渋沢が慶喜の家臣として駿府藩で活躍したころの「合本 コンパニー」の額だ。商売 金銀融通、仕組「官と民の出金の元に商売 商売の利を一部融通」、配当「出金のみ行う 商売の利を配当す」などと5項目のポイントが書かれている。この原典が実在するものかどうか関心がある。
井上武子(愛希れいか)着用のワインレッドのドレス
大河の定番は幕末と戦国時代と源平の合戦で来年は2012年以来の源平だが、今後は明治の元勲ドラマが増えるかもしれない。3年前の西郷隆盛、今回の渋沢以外にも、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、西園寺公望らが候補者だ。また民間の豊田佐吉、野口英世、牧野富三郎などもありうる。
そういえばわたくしが学生時代に中学の教育実習をしたとき、(形式的な)担当教官が桂太郎と井上馨の子孫という人だった。一度だけ実習の見学に来られたことがあり、社会科の教員3人とも畏れ入っておられた体験がある(明治の元勲の子孫とは別の理由ではあったが)。
☆せっかく王子に行ったので、帰りに平澤かまぼこを探した。店名は蒲鉾店で、たしかに蒲鉾製造が本業かもしれないが外から店を見ると、駅近くの普通の立飲み居酒屋だ。料理はおでんがメイン、そのなかにたしかに半ぺん、あつあげ(各150)さつま揚げ、ちくわ(各200)など練り物がある。また日本酒は(元)地元製造の丸真正宗(1合380、2合650)を出してくれる。11年ぶりの再訪だった。コロナで大変だろうと思うが、1,2杯引っかける「正しい」立飲み酒場として末永く続いてほしい。
スタッフの似顔絵イラストがあり店長・ラマ君、副店長・クサル君、女性のエンゼルちゃんとある。若い人たちで、客も20代、30代の若い世代が多かった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。