日本のまんじゅうの始まりはいつか、ご存知だろうか。餅は古代からあるはずだし、草餅も古代からありそうだ。それならまんじゅうも同じような時期からあったのではないか、と思ってしまう。しかしそうではなく意外に新しく室町時代から、それも中国人が日本でつくり始めたと聞き、驚いた。
9月22日、聖路加病院を会場に2か月に1度開催されるNPO法人・築地居留地研究会で、明石町の塩瀬総本家34代当主・川島英子さんの講演を聞いた。
塩瀬は、室町時代に奈良で饅頭屋を始め、その後京都、さらに江戸日本橋に移り、今は築地明石町に本店がある。江戸時代は幕府の将軍家御用達、明治に入ってからは宮内省御用達の老舗である。「女官物語」(斎藤渓舟 1912)には「元来大奥に納める菓子は、東京では塩瀬と黒川(赤坂の虎屋)がもっぱら御用命を承っている」とある。
川島さんには「まんじゅう屋繁盛記――塩瀬の六五〇年」(岩波書店 184p 2006年5月以下ページ数は本書のページを示す)という著書があり、その内容も加えて紹介する。ただ講演や著書には一族の歴史や墓石の改修や記念碑を建てた経緯も詳しく出ていたが、それらは省略し、菓子の作り方を中心にまとめた。
本店での川島英子さん
1349年、日本人僧侶・龍山徳見禅師と禅師を慕う俗弟子の中国人・林浄因が元から日本にやってきた。この頃は室町幕府の初期で、南北朝が続いていた。茶道が勃興しつつあったが、茶子(ちゃのこ 茶菓子のこと)は柿、干しブドウ、焼昆布などが主だった。また点心があったがそうめんなどと同様のものだった。
僧侶は肉は食さないので、代わりに小豆を茹で甘葛という草の汁を絞って煮詰めた甘葛煎(あまずらせん)を甘味として加え小麦粉で包んで蒸した「まんじゅう」を作ったところ、たいへん好評だった。
当時、砂糖は高級で薬用として輸入され、その代用が甘葛煎だったが、甘葛煎も貴重で、甘味といえば柿や栗を干したものという時代だった。
これが塩瀬饅頭の誕生、わが国の饅頭の誕生となった。日本中どこでも見かける饅頭は、これが始まりだった。
「小麦の発酵した香り、ふわふわした皮の柔らかさ、艶やかさ、そして小豆餡のほのかな甘さ」と著書で表現されている(p19)。浄因は奈良でまんじゅう屋を始めた。
やがて後村上天皇(1328-1368)も気に入り、官女を林浄因の妻に下賜した。
林浄因は結婚に際し、紅白饅頭をつくり、諸方に贈り、そのうちの一組を子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めた。これが奈良市の中心部、近鉄奈良駅から50mの漢国(かんごう)神社境内にある林(りん)神社の裏に今日まで「饅頭塚」として残されている。現在、嫁入りや慶事に紅白饅頭を配る風習はここに始まる。ただ林浄因は二男二女をもうけたが、望郷の念を募らせ、妻子を残して中国に帰ってしまった。しかし妻子がまんじゅう屋を続けていった。
別のサイトによると「5代目くらいでしょうか。林紹絆(りんしょうはん)が、中国に渡って宮廷菓子のつくり方を勉強してきたのです。それが薯蕷(じょうよ)饅頭です。大和芋を擂(す)って、米の粉と混ぜて作る皮ですね。もともと薯蕷饅頭は、中国の宮廷料理でした」とある。
餅(ピン)は小麦粉を練ったものだが、米、粟、ヒエなどを練ったのが「●」(コウ 米へんに、善の上のほうを書き下にれっか(四つ点))であり、この皮は山薬●(さんようこう)と呼ばれる。塩瀬の菓子の進化がわかる。
まんじゅうの柔らかさは、いもの水気と粘り気とその日の湿気の三者が影響するが、結局、職人が手のひらに感じる柔らかさが決め手となる。職人がいうには、耳のところで引っ張ると「プッ」と音がする。それで仕上がりをみるそうだ。まさに「職人技」である。 塩瀬総本家のまんじゅうは600年間製法を変えず、手作りでつくっている。
さて、紹絆が帰国したときは応仁の乱のさなかで、とても京都で商売をできる状況ではなかったので、一族は三代目の浄印の妻の実家だった三河の国・塩瀬(愛知県設楽郡塩瀬)に疎開していた。それ以降名前を塩瀬と名乗るようになった。
本饅頭。左は豆大福
7代目の林宋二は本饅頭を考案した。これは小豆のこし餡に蜜づけした大納言を入れて、ごく薄い皮で包み、そのまま丁寧に蒸し上げた逸品だった(p66)。宋二は徳川家康と親しく、長篠の合戦(1575)の際、陣中に献上し、本饅頭を兜に盛って供え、勝利を祈願した。そこで本饅頭は兜饅頭とも呼ばれる。
この宋二は文化人で出版にも乗り出し「饅頭屋本節用集」を刊行した。節用集は用字語釈を示した国語辞典のような書籍で、イロハ引き実用辞書の総称ともなった
宋二は京都南家の当主だったが、北家の当主・宗味は茶人でもあり、利休の孫娘・栄需を妻にした。宗味は帛紗(ふくさ)を改良し紫色の「塩瀬帛紗」を売り、好評を博した。茶子としてつくり始めた饅頭だが、帛紗も塩瀬と深い縁がある。わたくしは茶道のことはまったくわからないが、「塩瀬の帛紗」は普通名詞になっているそうだ。
戦後の塩瀬は、結婚式などの引き出物としての菓子を中心に販売し、いまは松屋銀座、大丸東京、日本橋高島屋など多くのデパートに支店がある。メニューもまんじゅうだけでなく、干菓子、生菓子、羊羹、ゼリー、栗ぜんざい・葛きりなどにレパートリーを広げている。
立教学院発祥の地(明石町10)
居留地とのかかわりでいうと、塩瀬総本家の本店がある場所はかつて居留地の一部でユニオン・チャーチがあった地である。ユニオン・チャーチは、すべての外国人が礼拝できる教会で、居留地17番Bに1872年(明治5年)から1902(明治35)年まであった。教派を超えて、横浜、神戸に次ぎ日本で3番目にできた。1899年に条約改正で居留地がなくなったため、その後数年で原宿に移転した。また研究会の会場、聖路加病院からわずか200-300mの間に、立教学院、立教女学院、慶応義塾、明治学院、青山学院、女子学院、暁星学園などの学校の発祥の碑やアメリカ公使館跡の碑などがいくつも建っていた。
講演の後、エクスカーションでお店を訪問したが、店でも詳しくていねいな説明があった。壁には、室町幕府8代将軍・足利義政直筆の「日本第一番 本饅頭所林氏 鹽瀬」という五七の桐花紋が入った看板が掛けられている。戦前には現存しており写真を元に1983年に復元したものだそうだ(62p)。足利義政(1436―1490)は晩年に銀閣をつくり、妻は日野富子である。
また驚いたことに店の奥のほうに、庭付きの茶室が建てられていた。林浄因の「浄」も入れて「浄心庵」という名前にしたそうだ。白砂の石庭だけでなく、手前には川や橋までつくられていた。
川島さんは、90代なので、かわいいという表現は失礼かと思うが、先日亡くなられた日舞の人間国宝・花柳寿南海さんに少し感じが似た小柄で、かわいらしい婦人だった。
9月22日、聖路加病院を会場に2か月に1度開催されるNPO法人・築地居留地研究会で、明石町の塩瀬総本家34代当主・川島英子さんの講演を聞いた。
塩瀬は、室町時代に奈良で饅頭屋を始め、その後京都、さらに江戸日本橋に移り、今は築地明石町に本店がある。江戸時代は幕府の将軍家御用達、明治に入ってからは宮内省御用達の老舗である。「女官物語」(斎藤渓舟 1912)には「元来大奥に納める菓子は、東京では塩瀬と黒川(赤坂の虎屋)がもっぱら御用命を承っている」とある。
川島さんには「まんじゅう屋繁盛記――塩瀬の六五〇年」(岩波書店 184p 2006年5月以下ページ数は本書のページを示す)という著書があり、その内容も加えて紹介する。ただ講演や著書には一族の歴史や墓石の改修や記念碑を建てた経緯も詳しく出ていたが、それらは省略し、菓子の作り方を中心にまとめた。
本店での川島英子さん
1349年、日本人僧侶・龍山徳見禅師と禅師を慕う俗弟子の中国人・林浄因が元から日本にやってきた。この頃は室町幕府の初期で、南北朝が続いていた。茶道が勃興しつつあったが、茶子(ちゃのこ 茶菓子のこと)は柿、干しブドウ、焼昆布などが主だった。また点心があったがそうめんなどと同様のものだった。
僧侶は肉は食さないので、代わりに小豆を茹で甘葛という草の汁を絞って煮詰めた甘葛煎(あまずらせん)を甘味として加え小麦粉で包んで蒸した「まんじゅう」を作ったところ、たいへん好評だった。
当時、砂糖は高級で薬用として輸入され、その代用が甘葛煎だったが、甘葛煎も貴重で、甘味といえば柿や栗を干したものという時代だった。
これが塩瀬饅頭の誕生、わが国の饅頭の誕生となった。日本中どこでも見かける饅頭は、これが始まりだった。
「小麦の発酵した香り、ふわふわした皮の柔らかさ、艶やかさ、そして小豆餡のほのかな甘さ」と著書で表現されている(p19)。浄因は奈良でまんじゅう屋を始めた。
やがて後村上天皇(1328-1368)も気に入り、官女を林浄因の妻に下賜した。
林浄因は結婚に際し、紅白饅頭をつくり、諸方に贈り、そのうちの一組を子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めた。これが奈良市の中心部、近鉄奈良駅から50mの漢国(かんごう)神社境内にある林(りん)神社の裏に今日まで「饅頭塚」として残されている。現在、嫁入りや慶事に紅白饅頭を配る風習はここに始まる。ただ林浄因は二男二女をもうけたが、望郷の念を募らせ、妻子を残して中国に帰ってしまった。しかし妻子がまんじゅう屋を続けていった。
別のサイトによると「5代目くらいでしょうか。林紹絆(りんしょうはん)が、中国に渡って宮廷菓子のつくり方を勉強してきたのです。それが薯蕷(じょうよ)饅頭です。大和芋を擂(す)って、米の粉と混ぜて作る皮ですね。もともと薯蕷饅頭は、中国の宮廷料理でした」とある。
餅(ピン)は小麦粉を練ったものだが、米、粟、ヒエなどを練ったのが「●」(コウ 米へんに、善の上のほうを書き下にれっか(四つ点))であり、この皮は山薬●(さんようこう)と呼ばれる。塩瀬の菓子の進化がわかる。
まんじゅうの柔らかさは、いもの水気と粘り気とその日の湿気の三者が影響するが、結局、職人が手のひらに感じる柔らかさが決め手となる。職人がいうには、耳のところで引っ張ると「プッ」と音がする。それで仕上がりをみるそうだ。まさに「職人技」である。 塩瀬総本家のまんじゅうは600年間製法を変えず、手作りでつくっている。
さて、紹絆が帰国したときは応仁の乱のさなかで、とても京都で商売をできる状況ではなかったので、一族は三代目の浄印の妻の実家だった三河の国・塩瀬(愛知県設楽郡塩瀬)に疎開していた。それ以降名前を塩瀬と名乗るようになった。
本饅頭。左は豆大福
7代目の林宋二は本饅頭を考案した。これは小豆のこし餡に蜜づけした大納言を入れて、ごく薄い皮で包み、そのまま丁寧に蒸し上げた逸品だった(p66)。宋二は徳川家康と親しく、長篠の合戦(1575)の際、陣中に献上し、本饅頭を兜に盛って供え、勝利を祈願した。そこで本饅頭は兜饅頭とも呼ばれる。
この宋二は文化人で出版にも乗り出し「饅頭屋本節用集」を刊行した。節用集は用字語釈を示した国語辞典のような書籍で、イロハ引き実用辞書の総称ともなった
宋二は京都南家の当主だったが、北家の当主・宗味は茶人でもあり、利休の孫娘・栄需を妻にした。宗味は帛紗(ふくさ)を改良し紫色の「塩瀬帛紗」を売り、好評を博した。茶子としてつくり始めた饅頭だが、帛紗も塩瀬と深い縁がある。わたくしは茶道のことはまったくわからないが、「塩瀬の帛紗」は普通名詞になっているそうだ。
戦後の塩瀬は、結婚式などの引き出物としての菓子を中心に販売し、いまは松屋銀座、大丸東京、日本橋高島屋など多くのデパートに支店がある。メニューもまんじゅうだけでなく、干菓子、生菓子、羊羹、ゼリー、栗ぜんざい・葛きりなどにレパートリーを広げている。
立教学院発祥の地(明石町10)
居留地とのかかわりでいうと、塩瀬総本家の本店がある場所はかつて居留地の一部でユニオン・チャーチがあった地である。ユニオン・チャーチは、すべての外国人が礼拝できる教会で、居留地17番Bに1872年(明治5年)から1902(明治35)年まであった。教派を超えて、横浜、神戸に次ぎ日本で3番目にできた。1899年に条約改正で居留地がなくなったため、その後数年で原宿に移転した。また研究会の会場、聖路加病院からわずか200-300mの間に、立教学院、立教女学院、慶応義塾、明治学院、青山学院、女子学院、暁星学園などの学校の発祥の碑やアメリカ公使館跡の碑などがいくつも建っていた。
講演の後、エクスカーションでお店を訪問したが、店でも詳しくていねいな説明があった。壁には、室町幕府8代将軍・足利義政直筆の「日本第一番 本饅頭所林氏 鹽瀬」という五七の桐花紋が入った看板が掛けられている。戦前には現存しており写真を元に1983年に復元したものだそうだ(62p)。足利義政(1436―1490)は晩年に銀閣をつくり、妻は日野富子である。
また驚いたことに店の奥のほうに、庭付きの茶室が建てられていた。林浄因の「浄」も入れて「浄心庵」という名前にしたそうだ。白砂の石庭だけでなく、手前には川や橋までつくられていた。
川島さんは、90代なので、かわいいという表現は失礼かと思うが、先日亡くなられた日舞の人間国宝・花柳寿南海さんに少し感じが似た小柄で、かわいらしい婦人だった。