麻布十番にある在日韓人歴史資料館を訪れた。きっかけは高麗博物館の方に教えていただいたことだ。この博物館は、在日の歴史に焦点を絞り2005年11月に開設された。1960年代以前、とりわけ1950年以前の史料が充実していた。
20世紀に朝鮮人がなぜ日本に多数渡航してきたのか、なぜ日本の中で集住したのか、日本の敗戦後なぜ故国に戻らなかったのか、その経緯がよく理解できた。また、当時の生活について、多摩川べりの砂利採取の写真やジオラマ、初期のパチンコ台や玉貸し器など珍しい資料が展示されていた。
まず、日本に渡航した理由である。1905年9月山陽汽船の関釜連絡船が就航した。1905年という年は、日露戦争終結後、第二次日韓協約締結により日本が大韓帝国の外交権を奪い実質的な保護国にした年である。
1910年の韓国併合以降、土地調査事業が始まり土地を失った農民や、産米殖産政策で借金が重なった人が職を求めて、20年代後半から毎年8~15万人が日本にやってきた。1920年代には朝鮮飴売りが代表的な職で、その後廃品回収をする人が増えていった。1911年には全国で2149人だった在日の人数は25年に13万6000人、30年に41万9000人、40年に124万人と増えていった。朝鮮人に家を貸す日本人は少なかったため、河川敷、所有が明確でないところ、湿地などに集住地区(いわゆる朝鮮)を形成した。会場には、かまどや李朝家具のある1930年代の住宅が再現されていた。
1923年に済州島―大阪の定期航路が就航したのを契機に大阪に来る朝鮮人が増えた。1931年には猪飼野に市場ができた。1936年の猪飼野の写真や38年の神戸・六間道の写真も展示されていた。
それに加え、1937年の日中戦争を契機に1939年秋には労働動員が始まった。動員計画により日本に63万人、樺太・南洋群島まで含めると72万人が連行された。うち半数は、常磐、北炭夕張、住友歌志内、三菱高島など全国の炭鉱へ、残りは丹波のマンガン山など鉱山、日本鋼管鶴見、泉大津重工業など全国の工場、土木建築現場などに送り込まれた。危険な職場で働かせ、タコ部屋で厳しい労務管理を敷いたことはいうまでもない。徴用は成年男性中心だと思っていた。しかし8―14歳の女性ばかりの全羅北道女子挺身隊が45年10月9日帰国するときの100人規模の集合写真が展示されており、驚いた。
こうして1940年に124万人だった朝鮮人は45年8月に本土だけで196万人とピークを迎える。
8月15日の日本の敗戦で多くの朝鮮人は帰国を考え、仙崎(山口県)や博多に殺到した。「家族の肖像」という写真コーナーには1927年に福岡で生まれ45年に釜山に帰った人の一家の写真も展示されていた。そして45年11月には115万人、46年には64万人に激減した。しかし日本で築いた財産を処分して郷里に帰ったものの、すでに自分の居場所がなく再び日本に戻る人も多くいた。また持ち帰り財産制限やさまざまな事情で帰国できない人もおり日本に留まった70万人が在日の始まりといえる。
戦後の混乱、復員した日本人のため働ける職場は乏しく、闇市での露天、行商、食堂、密造どぶろく造り、養豚などでたくましく生き抜いた人は多い。そして在日本朝鮮人連盟(朝連)、在日本朝鮮居留民団(民団)など多くの団体が結成された。また皇民化教育のためハングルを知らない2世が故国に戻ったときに不便だと、ウリマル(母国語)教育を行なうため各地に朝鮮学校が設立された。
しかし日本社会に社会的差別や職業差別は根強く存在した。1970年には日立製作所を相手取った就職差別訴訟、1980年には指紋押捺制度反対闘争が起こり、82年に国民年金法の国籍条項撤廃、86年国民健康法の国籍条項撤廃、96年川崎市が職員採用試験の国籍条項撤廃と権利が拡大し、2000年には外国人登録法の指紋押捺制度が廃止された(ただし2007年11月から出入国管理・難民認定法による指紋押捺制度が復活している)。
民団の支部、郷友会、サッカー大会、葬儀や結婚式など貴重な集合写真が多く展示されていた。写真には可能な限り撮影年代や場所が明示されている。川崎や大阪に限らず、青森、茂原、桑名、和歌山、鳥取、津山など全国津々浦々で在日の人が生活していることがよくわかる。また図書資料室では1930年~1944年の特高月報(1991年に韓国で復刻したもの)や強制連行資料集など数多い資料を手にすることができる。
なお1980年代以降、最近30年近い資料がほとんど展示されていないのでその理由を聞いてみた。まずいますぐ収集しないと散逸してしまう戦前・戦争直後の資料を優先して収集したとのことだった。たしかに道理である。オープンしてまだ2年弱なので歴史的資料を募集しているそうだ。今後、1980年代、90年代の職業や生活、3世、4世の意識や文化が理解できる資料が展示される日がくるとよいと思った。
第4回企画展「金鶴泳を知っていますか」を開催していた。
金鶴泳(キム ハギョン)は、1938年群馬県新町生まれ、県立高崎高校を経て東大工学部卒、66年ドクター在籍時に「凍える口」で文藝賞受賞、中退して文筆の道へ進み、芥川賞候補に4回も選ばれた。統一日報に新聞小説「序曲」連載中の85年1月、新町の実家でガス自殺した小説家だ。享年46。当時の言葉を使えばインテリ層である。金鶴泳の父は「北」を選んだが、本人は悩んだ末「南」の国籍を取得した。わたくしは作品を読んだことがないが、「凍える口」の書き出しは「烈しい北風が冷たく吹きつけていた。その風の中をぼくは顎を突き出し、目を細め、肩をすぼめながら歩いていた」というものである。
芥川賞受賞者でいうと、柴田翔、李恢成が1935年生まれ、庄司薫、野呂邦暢、古井由吉が1937年生まれ、東峰夫が1938年生まれ、そのくらいの年代の人だ。
住所:東京都港区南麻布1-7-32 韓国中央会館別館
電話:03-3457-1088
開館日:火曜日~土曜日
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
入館料:無料
☆400mほど西側に韓国大使館がある。竹島問題のせいか警官が多数、警備に当たっていた。
20世紀に朝鮮人がなぜ日本に多数渡航してきたのか、なぜ日本の中で集住したのか、日本の敗戦後なぜ故国に戻らなかったのか、その経緯がよく理解できた。また、当時の生活について、多摩川べりの砂利採取の写真やジオラマ、初期のパチンコ台や玉貸し器など珍しい資料が展示されていた。
まず、日本に渡航した理由である。1905年9月山陽汽船の関釜連絡船が就航した。1905年という年は、日露戦争終結後、第二次日韓協約締結により日本が大韓帝国の外交権を奪い実質的な保護国にした年である。
1910年の韓国併合以降、土地調査事業が始まり土地を失った農民や、産米殖産政策で借金が重なった人が職を求めて、20年代後半から毎年8~15万人が日本にやってきた。1920年代には朝鮮飴売りが代表的な職で、その後廃品回収をする人が増えていった。1911年には全国で2149人だった在日の人数は25年に13万6000人、30年に41万9000人、40年に124万人と増えていった。朝鮮人に家を貸す日本人は少なかったため、河川敷、所有が明確でないところ、湿地などに集住地区(いわゆる朝鮮)を形成した。会場には、かまどや李朝家具のある1930年代の住宅が再現されていた。
1923年に済州島―大阪の定期航路が就航したのを契機に大阪に来る朝鮮人が増えた。1931年には猪飼野に市場ができた。1936年の猪飼野の写真や38年の神戸・六間道の写真も展示されていた。
それに加え、1937年の日中戦争を契機に1939年秋には労働動員が始まった。動員計画により日本に63万人、樺太・南洋群島まで含めると72万人が連行された。うち半数は、常磐、北炭夕張、住友歌志内、三菱高島など全国の炭鉱へ、残りは丹波のマンガン山など鉱山、日本鋼管鶴見、泉大津重工業など全国の工場、土木建築現場などに送り込まれた。危険な職場で働かせ、タコ部屋で厳しい労務管理を敷いたことはいうまでもない。徴用は成年男性中心だと思っていた。しかし8―14歳の女性ばかりの全羅北道女子挺身隊が45年10月9日帰国するときの100人規模の集合写真が展示されており、驚いた。
こうして1940年に124万人だった朝鮮人は45年8月に本土だけで196万人とピークを迎える。
8月15日の日本の敗戦で多くの朝鮮人は帰国を考え、仙崎(山口県)や博多に殺到した。「家族の肖像」という写真コーナーには1927年に福岡で生まれ45年に釜山に帰った人の一家の写真も展示されていた。そして45年11月には115万人、46年には64万人に激減した。しかし日本で築いた財産を処分して郷里に帰ったものの、すでに自分の居場所がなく再び日本に戻る人も多くいた。また持ち帰り財産制限やさまざまな事情で帰国できない人もおり日本に留まった70万人が在日の始まりといえる。
戦後の混乱、復員した日本人のため働ける職場は乏しく、闇市での露天、行商、食堂、密造どぶろく造り、養豚などでたくましく生き抜いた人は多い。そして在日本朝鮮人連盟(朝連)、在日本朝鮮居留民団(民団)など多くの団体が結成された。また皇民化教育のためハングルを知らない2世が故国に戻ったときに不便だと、ウリマル(母国語)教育を行なうため各地に朝鮮学校が設立された。
しかし日本社会に社会的差別や職業差別は根強く存在した。1970年には日立製作所を相手取った就職差別訴訟、1980年には指紋押捺制度反対闘争が起こり、82年に国民年金法の国籍条項撤廃、86年国民健康法の国籍条項撤廃、96年川崎市が職員採用試験の国籍条項撤廃と権利が拡大し、2000年には外国人登録法の指紋押捺制度が廃止された(ただし2007年11月から出入国管理・難民認定法による指紋押捺制度が復活している)。
民団の支部、郷友会、サッカー大会、葬儀や結婚式など貴重な集合写真が多く展示されていた。写真には可能な限り撮影年代や場所が明示されている。川崎や大阪に限らず、青森、茂原、桑名、和歌山、鳥取、津山など全国津々浦々で在日の人が生活していることがよくわかる。また図書資料室では1930年~1944年の特高月報(1991年に韓国で復刻したもの)や強制連行資料集など数多い資料を手にすることができる。
なお1980年代以降、最近30年近い資料がほとんど展示されていないのでその理由を聞いてみた。まずいますぐ収集しないと散逸してしまう戦前・戦争直後の資料を優先して収集したとのことだった。たしかに道理である。オープンしてまだ2年弱なので歴史的資料を募集しているそうだ。今後、1980年代、90年代の職業や生活、3世、4世の意識や文化が理解できる資料が展示される日がくるとよいと思った。
第4回企画展「金鶴泳を知っていますか」を開催していた。
金鶴泳(キム ハギョン)は、1938年群馬県新町生まれ、県立高崎高校を経て東大工学部卒、66年ドクター在籍時に「凍える口」で文藝賞受賞、中退して文筆の道へ進み、芥川賞候補に4回も選ばれた。統一日報に新聞小説「序曲」連載中の85年1月、新町の実家でガス自殺した小説家だ。享年46。当時の言葉を使えばインテリ層である。金鶴泳の父は「北」を選んだが、本人は悩んだ末「南」の国籍を取得した。わたくしは作品を読んだことがないが、「凍える口」の書き出しは「烈しい北風が冷たく吹きつけていた。その風の中をぼくは顎を突き出し、目を細め、肩をすぼめながら歩いていた」というものである。
芥川賞受賞者でいうと、柴田翔、李恢成が1935年生まれ、庄司薫、野呂邦暢、古井由吉が1937年生まれ、東峰夫が1938年生まれ、そのくらいの年代の人だ。
住所:東京都港区南麻布1-7-32 韓国中央会館別館
電話:03-3457-1088
開館日:火曜日~土曜日
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
入館料:無料
☆400mほど西側に韓国大使館がある。竹島問題のせいか警官が多数、警備に当たっていた。