多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

二子玉川の別邸街 岡本、瀬田

2016年07月20日 | 都内散策
田園都市線二子玉川の駅を出て左手、高島屋の奥の商店街を北上し砧線跡地の遊歩道を西へ歩く。遊歩道が北に向かうあたりから高級住宅街が続く。
高級マンション、パークコートの先が静嘉堂や小坂邸のある丘で、西側に岡本民家園がある。ここには江戸時代の養蚕農家・旧長崎家の家屋や旧浦野家土蔵、旧横尾家の門がある。

岡本の記憶をたどる――別邸建築と近代化」という企画展をやっていた。年表は1872(明治5)年から1893(明治26)年までの21年、このあたりは神奈川県だったというウソのような本当の話から始まる。1907年の玉川電鉄渋谷―玉川開通のころから別邸づくりが始まる。まず田健次郎(逓信省次官、衆議院議員、台湾総督など。田英夫の祖父)が野毛に別邸(1905)を、岩崎小彌太がコンドル設計の玉川霊廟を建てた(静嘉堂の一部 1910)。大正時代に入ると、第一銀行が誠之堂や清風亭を岡本に建て(1915)、清水揚之助(清水組副社長)が屋敷を根岸から移築(1919)した。1924年には玉川―砧の砧線も開通した。
昭和にはいると高橋是清(大蔵大臣、首相、2・26事件で暗殺)邸(1927)岩崎久彌(三菱3代社長)邸(別邸の敷地は松方家から購入 1927)小坂順造(衆議院議員、信越化学社長)邸(1937)らが続いた。竣工年代は不明だが鮎川義介(日産自動車など日産コンツェルン創始者)、久原房之助(日立製作所、JXホールディングスなどの創業者、鮎川義介の義弟)、川崎八右衛門(東京川崎財閥2代目当主)、徳川圀順くにゆき 水戸徳川家13代当主 陸軍軍人)も屋敷をもっていた。
地図によれば、このうち鮎川邸、小坂邸、久原邸、清水邸が北から順に隣接した敷地だった。その向かいには静嘉堂があり、鮎川邸からすこし距離を置いて岩崎久彌邸、さらに離れて北西に高橋邸があった。また清水邸からすこし距離をおいて川崎邸と徳川邸、さらに距離を置いて第一銀行の誠之堂や清風亭、少し南東に離れて田邸があった。小坂邸が9466平方メートル、地図をみると高橋邸を除きそのクラス、あるいはそれ以上の広さの邸宅が並んでいたようだ。どこも大きな樹木や広い庭園に囲まれていたのだろう。
2016年のいま残っているのは、静嘉堂と小坂邸のみで、鮎川邸はマンション「多摩川テラス」(1979 竣工年代または売却年代、以下同じ 注)、久原邸はマンション「ガーデンハウス」(1970 注)、清水邸は日産厚生会玉川病院(1952)、岩崎久彌邸は聖ドミニコ学園日本邸(1962、ただし1994年解体)、高橋邸は玉川幼稚園(1962)、徳川邸は瀬田パークアベニュー(1980)などを経てAqua sports & spa(2016)、第一銀行の誠之堂や清風亭はセントメリーズインターナショナルスクール(1971)、田邸は五島美術館(1960)となった。川崎邸だけわからなかったが、徳川邸と接していたのでこのあたり、あるいは少し北の聖アントニオ神学院のあたりかと考えられる。こうして一覧すると、現在は学校や病院、教会などいわゆる非営利団体が多い。まとまった土地を購入できるのはそういう団体ということなのか。しかし住宅やマンションのように、切り売りされてしまうことを考えるとずいぶんありがたいことだ。

静嘉堂の入口
いまも残る静嘉堂は、三菱2代社長・岩﨑彌之助(1851~1908)とその息子で4代社長の小彌太(1879~1945)が集めた古典籍20万冊と古美術品6500点のコレクションの収蔵施設で国宝7点、重要文化財83点を含む。
企画展「江戸の博物学」を開催していた。「解体新書」(1774)、西洋植物学の本格的な紹介書「植物啓原」(1837)、高松の敏腕家老・木村黙老がつくった「鱗鏡」(1853)などの書籍や絵図が並んでいた。「鱗鏡」はトラフグ、あんこう、鯉、イカ、エビス鯛など魚類260種をカラーで描いた魚譜で、見ていて楽しかった。シーボルトが自分の手で彩色した「日本植物誌」(1835-70)もあったが、ちょうどアジサイのページが開かれており、学名「オタクサ」は妻・タキの名をとったという解説があった。牧野富太郎が新種の笹の名前を「スエコザサ」と妻の名から命名したエピソードを思い出した。
休憩室の10分ほどの長さのビデオでこの館所蔵の国宝、重要文化財などをみた。
絵画では「源氏物語・関谷」(俵屋宗達 17世紀)、「平治物語絵巻 信西」(13世紀)、茶道具で、世界に3碗しかない曜変天目(南宋)、付藻茄子茶入(南宋―元)、工芸で光琳の住之江蒔絵硯箱(18世紀)、など名作がたくさんあるようだった。なかでも陶芸と蒔絵は本物を一度見てみたい。
庭も立派そうだった。なお桜井小太郎設計の文庫の建物(1924)が興味深いが、一般公開はされていない。

旧・小坂邸の入口
次に旧・小坂邸に行った。小坂家は渋谷区金王町(現在の渋谷2丁目、3丁目)に本宅があったが1945年の空襲でこの別宅を本宅にした。門を入るとかなり急な坂道が続く。約20m、8階建て建物に相当する丘の上に本宅がある。音羽の鳩山邸や東五反田の島津公爵邸と同じだった。ただし小坂邸は武蔵野台地の国分寺崖線の上にある、つまり自然の崖の上にあるのだから、急坂のわけである。
建物の設計は清水組。清水建設というといまではビル建設のイメージだが、和風建築もしっかりやっていたことがわかった(もちろんそれはそうだろうが)。
この施設は今年4月に「せたよんフィールドミュージアム」と名が変わったそうで、ボランティアの管理人さんが詳しく解説してくださった。玄関を入ると純和風というか、豪壮な農家のようだった。それもそのはず、順造の長野市内千曲川の近くの実家のイメージでつくられ、吹き抜けには太い梁がみえた。建物面積は330平方メートル、居間、茶の間、書斎、茶室、寝室など9室がある。書斎や寝室は洋間で暖炉もあった。ただし暖房はボイラーによる暖気を各部屋に送風していたそうで、飾りあるいは家具の一種だったのだろう。居間と茶の間の庭側に縁側があり縁桁は北山杉だが15mもあり、解説員の方がいったいどうやって運んだのだろうと言っていた。更衣室には奥さまの鏡台や和ダンスが置かれていて少し生活が感じられた。駒場の前田侯爵邸でも感じたが、家具や照明器具が置いてあるとイメージがわくし、当時の室内写真などあるとさらによいと思う。
玄関脇には書生の部屋があり玄関番もしていたようだ。向かいには電話室、その前の女中室の壁には呼び鈴がついていて、どの部屋で用事があるのか即座にわかるようになっていた。
貴族の家とは違うジャンルだが、昭和30年代のアッパー層の住宅は、こういう昭和10年代の家屋をモデルにしていたのではないかと思った。

崖下の庭園緑地を見下ろす
さて、別邸とまではいかなくてもこのあたりはやはり高級住宅街のようだ。静嘉堂文庫バス停の駅寄りにパークコートという5階建て2棟のマンション(2003年8月 計117戸)がある。森のなかにあるような樹木の多いマンションだ。ここはもとは骨董屋を営む本山豐實氏が「幽篁堂庭園」という茶の湯の庭をつくり、吉田五十八の設計で不二サッシの迎賓館となり、次にCSKに売却した土地だった。またグランダ岡本里安邸というベネッセの有料老人ホームがあるが、ここはトヨタで「販売の神様」といわれた神谷正太郎の自宅が一部売却されつくられた。
砧線は1969年に廃線になったが、跡地が遊歩道として整備されている。この周辺の住宅も立派な家が多い。

注を付した事項は「岡本の記憶をたどる-別邸建築と近代化」展のパネルに記載がなかったので、ウェブページで検索したものを示す。したがって間違いもあるかもしれない。
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