半蔵門の国立劇場ではじめて文楽をみた。はじめてなので「基礎知識を」と、図書館で解説書を借りたり、パンフレットを事前に入手した。
日本の声楽は歌い物と語り物に分けられるが、文楽は浪曲と並び語り物の代表である。そのルーツは琵琶の伴奏による平安中期の平曲(平家琵琶)だが、1684年竹本義太夫が道頓堀の竹本座で近松門左衛門の「世継曽我」を上演したことがエポックとなった。
その後1730年代には人形の3人遣いが考案され、1872年松島に文楽座が誕生、戦後三和会と因会に分派したが66年に国立劇場開場、84年に大阪・日本橋に国立文楽劇場が開場した。
この日の出し物は、菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)と日本振袖始、国立劇場開場45周年記念なので有名なものを選んだようだった。1日3舞台で違う時間帯は、彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)、義経千本桜などがかかっていた。
菅原伝授手習鑑は、子どものころ雑誌のなかの連載「歌舞伎入門」というようなページでタイトルをみた記憶がある。しかしタイトルは知っていても、初めて見ていったい何が分かるかという話である。
パンフレットを入手すれば、真ん中に文楽床本(ゆかほん)集という60-70pの台本が挿み込まれている。演劇ではまずこういうことはない。新作なら月刊誌の最近の号をチェックするか、旧作なら単行本を借りだすしかない。非常にありがたい。
舞台正面左右には、縦書きの字幕が吊るされている。
さらに600円でイヤホンガイドを借りれば、あらすじ、役者、人形、難しいセリフの意味なども教えてもらえる。だからわたしのような初心者でも、何をやっているのかとか、何がポイントなのかは、だいたい理解できる。
菅原伝授手習鑑は、1746年二代目竹田出雲らが4人で書いた、平安時代の菅原道真(丞相)福岡流罪事件を題材にした時代物の名作である。菅丞相には7歳の子息・秀才がいて武部源蔵夫妻にかくまわれている。ある日、源蔵は藤原時平(しへい)の家来に呼び出され「お前が秀才を自分の子と偽っているのは明白だ。首を差し出せ」と迫られ、やむをえず承諾してしまう。
そして寺子屋の弟子から一人身代わりを出そうと考えたが、いくら考えても田舎の子どもには丞相の子として通りそうな顔の子はいない。そこに高貴な身なりの母子・千代と小太郎が寺入りを願い訪ねてくる。ちょうどよかったと源蔵と妻・戸浪は喜び、7歳の小太郎の首を切る。そこに首実検のため松王丸が現れ「紛ふなし、相違なし」というので逆に驚く。じつは小太郎は松王丸・千代夫妻の一人息子だったのだ。
荒唐無稽なお話である。しかも松王丸夫妻は息子に「主人の子どもの身代わりとして死んでくれ」と説得までし、小太郎は納得していた。
無茶苦茶な話にもかかわらず、大夫の語りの巧みさに引き込まれ、21世紀のひとびとまでなんとなく納得してしまう。
「日本振袖始」の美女と大蛇(おろち)も同様で、大蛇の禍(わざわい)から逃れるため村人は毎年美女を1人生贄に捧げている。大蛇は一飲みにしてしまう。まったく理不尽だが、こうなると理不尽であればあるほど強烈な話になる。息子の死の様子を聞き「ハハハハハ、ハハハハハ」と松王丸は泣き笑いする。
ところで大蛇の腹から稲田姫が取り出した名剣は、「日ノ本」をまもる礎、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。もちろん天照大神(アマテラスオオミカミ)の三種の神器のひとつ、皇位継承の正統性の証である。
だいたい昔の話は「天皇」に由来することがよくわかる。
日本振袖始は、太夫が4人もいて歌声は長唄のようだった。三味線も5人の合奏で胡弓、笛、鼓も登場する。能や雅楽のようだ。
また時刻は亥の刻すなわち午後10時、場所は谷間の川っ渕で、真っ暗、しかし村の人が焚いたかがり火で昼のような明るさ、と異様である。そして顔に角が生えたり、体にウロコが生え、流れる水が蛇のかたちになる。
座席は小劇場の真ん中より少し後ろだったので、オペラグラスまで必要ないだろうと思い込んででかけたが、これが失敗だった。やはり何かないと人形の顔や服の模様や細部がわからない。遠くから見ても、人形が泣くわけはないのだが、本当に泣いているようにみえた。
また、人形には、文七、陀羅助、鬼若、検非違使、斧右衛門、丁稚などの種類のかしらがあるのだが、それもよくわからなかった。顔の色が赤いのは悪者(敵役)、白いのはどちらでもないという決め事がある。入門者なのだから、「課題」をいくつも残して劇場を後にした。
舞台には、人間国宝(重要無形文化財保持者)が少なくとも4人登場した。鶴澤寛治の落ち着いた三味線の音色、息子を亡くした千代の嘆きを表現する吉田文雀は、わたくしにもすぐれていることがわかった。
小劇場のロビー
☆国立劇場小劇場の席数は約600、入りは9割くらいで女性が8割くらい。これは予想どおりだった。男性はカップル(たぶん夫妻)で来ている人が多かった。外人の数や和服の人は思ったより少ない。20年くらい前に発刊された文楽の本には「国立劇場ができたので若い文楽ファンが増え、喜ばしい状況だ」と書かれている。しかしそれから20年たってもあまり情況は変わっていないように思われた。
日本の声楽は歌い物と語り物に分けられるが、文楽は浪曲と並び語り物の代表である。そのルーツは琵琶の伴奏による平安中期の平曲(平家琵琶)だが、1684年竹本義太夫が道頓堀の竹本座で近松門左衛門の「世継曽我」を上演したことがエポックとなった。
その後1730年代には人形の3人遣いが考案され、1872年松島に文楽座が誕生、戦後三和会と因会に分派したが66年に国立劇場開場、84年に大阪・日本橋に国立文楽劇場が開場した。
この日の出し物は、菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)と日本振袖始、国立劇場開場45周年記念なので有名なものを選んだようだった。1日3舞台で違う時間帯は、彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)、義経千本桜などがかかっていた。
菅原伝授手習鑑は、子どものころ雑誌のなかの連載「歌舞伎入門」というようなページでタイトルをみた記憶がある。しかしタイトルは知っていても、初めて見ていったい何が分かるかという話である。
パンフレットを入手すれば、真ん中に文楽床本(ゆかほん)集という60-70pの台本が挿み込まれている。演劇ではまずこういうことはない。新作なら月刊誌の最近の号をチェックするか、旧作なら単行本を借りだすしかない。非常にありがたい。
舞台正面左右には、縦書きの字幕が吊るされている。
さらに600円でイヤホンガイドを借りれば、あらすじ、役者、人形、難しいセリフの意味なども教えてもらえる。だからわたしのような初心者でも、何をやっているのかとか、何がポイントなのかは、だいたい理解できる。
菅原伝授手習鑑は、1746年二代目竹田出雲らが4人で書いた、平安時代の菅原道真(丞相)福岡流罪事件を題材にした時代物の名作である。菅丞相には7歳の子息・秀才がいて武部源蔵夫妻にかくまわれている。ある日、源蔵は藤原時平(しへい)の家来に呼び出され「お前が秀才を自分の子と偽っているのは明白だ。首を差し出せ」と迫られ、やむをえず承諾してしまう。
そして寺子屋の弟子から一人身代わりを出そうと考えたが、いくら考えても田舎の子どもには丞相の子として通りそうな顔の子はいない。そこに高貴な身なりの母子・千代と小太郎が寺入りを願い訪ねてくる。ちょうどよかったと源蔵と妻・戸浪は喜び、7歳の小太郎の首を切る。そこに首実検のため松王丸が現れ「紛ふなし、相違なし」というので逆に驚く。じつは小太郎は松王丸・千代夫妻の一人息子だったのだ。
荒唐無稽なお話である。しかも松王丸夫妻は息子に「主人の子どもの身代わりとして死んでくれ」と説得までし、小太郎は納得していた。
無茶苦茶な話にもかかわらず、大夫の語りの巧みさに引き込まれ、21世紀のひとびとまでなんとなく納得してしまう。
「日本振袖始」の美女と大蛇(おろち)も同様で、大蛇の禍(わざわい)から逃れるため村人は毎年美女を1人生贄に捧げている。大蛇は一飲みにしてしまう。まったく理不尽だが、こうなると理不尽であればあるほど強烈な話になる。息子の死の様子を聞き「ハハハハハ、ハハハハハ」と松王丸は泣き笑いする。
ところで大蛇の腹から稲田姫が取り出した名剣は、「日ノ本」をまもる礎、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。もちろん天照大神(アマテラスオオミカミ)の三種の神器のひとつ、皇位継承の正統性の証である。
だいたい昔の話は「天皇」に由来することがよくわかる。
日本振袖始は、太夫が4人もいて歌声は長唄のようだった。三味線も5人の合奏で胡弓、笛、鼓も登場する。能や雅楽のようだ。
また時刻は亥の刻すなわち午後10時、場所は谷間の川っ渕で、真っ暗、しかし村の人が焚いたかがり火で昼のような明るさ、と異様である。そして顔に角が生えたり、体にウロコが生え、流れる水が蛇のかたちになる。
座席は小劇場の真ん中より少し後ろだったので、オペラグラスまで必要ないだろうと思い込んででかけたが、これが失敗だった。やはり何かないと人形の顔や服の模様や細部がわからない。遠くから見ても、人形が泣くわけはないのだが、本当に泣いているようにみえた。
また、人形には、文七、陀羅助、鬼若、検非違使、斧右衛門、丁稚などの種類のかしらがあるのだが、それもよくわからなかった。顔の色が赤いのは悪者(敵役)、白いのはどちらでもないという決め事がある。入門者なのだから、「課題」をいくつも残して劇場を後にした。
舞台には、人間国宝(重要無形文化財保持者)が少なくとも4人登場した。鶴澤寛治の落ち着いた三味線の音色、息子を亡くした千代の嘆きを表現する吉田文雀は、わたくしにもすぐれていることがわかった。
小劇場のロビー
☆国立劇場小劇場の席数は約600、入りは9割くらいで女性が8割くらい。これは予想どおりだった。男性はカップル(たぶん夫妻)で来ている人が多かった。外人の数や和服の人は思ったより少ない。20年くらい前に発刊された文楽の本には「国立劇場ができたので若い文楽ファンが増え、喜ばしい状況だ」と書かれている。しかしそれから20年たってもあまり情況は変わっていないように思われた。