多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

甲府の太宰治

2009年09月25日 | 日記
1939年1月8日石原美知子と結婚した。結婚のいきさつは津島美知子の「御坂峠」(1978年5月)によれば下記のとおり。
津島家の北芳四郎、中畑慶吉の両氏が井伏鱒二に太宰の結婚を依頼し、井伏が甲府の斎藤文二郎に伝え斎藤から美知子の母に話があり、38年9月18日石原家で見合いをした。見合いの様子は「富嶽百景」の前半(「文体」2号 39年2月発行)に出てくる。角帯の夏羽織姿で富士の鳥瞰写真がかかる石原家客間ではじめて美知子と会い「このひとと結婚したいものだと思った」とある。後半(「文体」3号 39年3月発行)には実家から結婚資金の援助が来ないことがわかり途方にくれた太宰が石原家を訪問し事情を説明したところ「それで、おうちでは、反対なのでございましょうか」と美知子に聞かれ「いいえ、反対というのではなく」と答えると、母堂が品よく笑いながら「結構でございます。私たちも、ごらんのとおりお金持ちではございませんし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます」と述べたとある。11月6日石原家で婚約披露の宴を開催した。
下記は、山梨県立文学館で入手した「太宰治と昭和懐かし木造建築見学ツアー」(つなぐNPO 08年6月)を参考にしている。
婚約中の太宰は、11月に堅町(たつまち)95(現在は朝日5-3-7)の寿館という下宿に転居した。清運寺の東隣である。塩山出身の菊島氏が経営し「高等御下宿寿館」と表札を掛け、山梨高等工業の学生や甲府中学の教師が下宿していた。そして東方400mほどの水門町29(朝日1-7-7,8)にあった石原家を毎日のように訪れ、美知子の母の手料理と酒を御馳走になっていた。「母は今までつきあったことのない職業の人の話を聞いて世間が広くなったようだと言っていた」と美知子の回想録に書かれている。石原家では「お銚子3本が適量だ」といって引き上げたが、そのあと方々で飲み歩いていたようだ。
そして1月8日に荻窪の井伏家で結婚式を挙げた。太宰は29歳だった。

結婚後の新居は寿館から北に300mほど行ったところにある借家だった。住所は甲府市御崎町56(朝日5-8-10)で、現在「僑居跡」の小さい石碑がある。甲府一高から200mほど東のところだ。北に福寿院、その西隣に御崎神社がある。大家は鳶職で玄関は東向き、間取りは8畳、2畳の茶の間、台所だった。庭に南天とゆすら梅とぶどう棚があった。三鷹市下連雀に移る9月まで8か月間居住した。
風呂屋、酒屋、煙草屋が近くにあるところは三鷹と同じだ。また風呂屋の近くに豆腐屋があり、自ら豆腐を買い、湯豆腐にして晩酌のつまみにしていたようだ。「懶情の歌留多」にも豆腐が登場する。酒は一円五十銭の地酒が主で、付きの支払いは20円くらいだった。5-6合呑んで陽気になり「ブルタス、お前もか」と歌舞伎の口調で言ったという。
風呂屋の名は喜久の湯(朝日5-14-6)で、沸かし湯ではなく温泉だった。豆腐屋は国立甲府病院に行く交差点にあり、瓦葺で豆腐を入れる大きな水槽があった。
この借家で太宰は第四創作集「愛と美について」(竹村書房 39年5月)、「葉櫻と魔笛」「懶情の歌留多」などの小説を執筆した。「富嶽百景」の後半、「黄金風景」は美知子の口述筆記により書かれた作品である。「黄金風景」は国民新聞の短編小説コンクールで、募集した30編のなかから読者投票で上林暁の「寒鮒」と並び当選した作品である。賞金は50円ずつだった。
「黄金風景」のコンクール応募について太宰が「まあ、おしまひから二、三番のところと思っていてください。いいえ、ほんたうに、さうなんです」というと、義母は「ひとり笑はず、正直に寂しさうな顔をして見せて、私はそれに気がつき、おそろしく、しょげてしまったことがある」と書いている。結婚前からさんざん世話になった義母に頭があがらなかったようだ。

太宰が再び上京したとき、なぜ自分がよく知る杉並でなく三鷹に住んだのかわかったような気がした。奥方の実家に近い方向だからだ。立川や八王子という選択もあっただろうが、それでは出版社から遠すぎたのだろう。
太宰は三鷹に転居してからも何度か甲府に戻っている。1942年2月甲府市内の湯村温泉で「正義と微笑」を起筆、43年3月石原家と湯村温泉で「右大臣実朝」を完成させた。そして45年4月石原家に一家で疎開し、7月6日の大空襲にも遭遇している。
三鷹の陸橋の説明に、西は武蔵野に沈む夕日を、東は新宿そして津軽さらに故郷・津軽を見透かしていたのではないかとあったが、西は山の向こうに甲府をみていたのではないだろうか。

山梨県立文学館で、ちょうど開館20周年記念展「樋口一葉と甲州」 を開催していた。
一葉、母多喜、妹くにと、女系の家族のことは知っていたが、わたしは父や兄のことは何も知らなかった。父則義は農家に生まれたが大志を抱いて、27歳のとき多喜とともに江戸に出た。蕃書調所の小使いを手がかりに外国奉行となり1867年
(慶応3年)には同心株を買って士族となる。ところが明治維新で時代が変転したため武士としての栄達の道は閉ざされた。しかし68年5月外国人居留区掛下役として新政府に雇われ、浪人を免れた。職歴が身を助けたのだろう。一葉が生まれた1872年に則義はすでに42歳になっていた。1876(明治9)年に東京府を退官したもののその後も87年まで警視庁で働いていた。そして89年に69歳で亡くなった。一葉の生家は極貧のような気がしていたがそうではなかったようだ。私立青海学校から上級学校に進学できなかったのも学費のためでなく、また父のせいでもなく、母が「女に学問は要らない」という考えだったからだ。
一葉は父が亡くなり戸主となったので、2人姉妹だけのような気がしていたが、15歳上の長姉ふじ、8歳上の長兄・泉太郎、6歳上の次兄・虎之助がいた(くには2年年下)。大蔵省で働いていた泉太郎は23歳で亡くなったが、虎之助は陶工だった。また一葉の許婚・渋谷三郎は東京専門学校(早稲田大学)卒業後、山梨県知事にまでなっている。この人も悪意で破談にしたわけではなく、早稲田の学費を樋口家に出してもらえるかどうかいうような問題で不和になったようだ。
幕末の動乱のなか父則義の運命はバルザックの小説の主人公のようだ。幕末から明治初期の男性一人ひとりの人生にも興味をひかれる。


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