11月7日(土)午後、飯田橋の東京しごとセンター・セミナー室で非国民入門セミナー2009 vol9(主催:平和力フォーラム)が開催され、金静寅(キム・ジョンイン)さんへの「最近の在日朝鮮人に対する差別」というインタビューを聞いた。インタビューの聞き手は前田朗さん(東京造形大学)。
わたしは2年前の「3.1朝鮮独立運動88周年集会」の金東鶴さんの報告で、06年11月から集中豪雨的に実施された、微罪を口実にした在日朝鮮人への強制捜査について聞いたことがあった。ここ1年ほどマスコミ報道ではこんな極端なことは目にしないが、その後どうなっているのか知りたくこのセミナーを聞きに行った。
金さんはNPO法人同胞法律・生活センター事務局長で社会福祉士である。同胞法律・生活センターは、韓国出身者や中国籍朝鮮族のニューカマーも含め、コリアン個人の法律相談や生活相談を行う相談センターである。80年代以降、弁護士、税理士など在日の有資格者が増え、専門知識を在日同胞に還元しようと1997年12月に設立された。相談内容は、国籍、相続、在留資格、外国人登録など在日ならではの問題をはじめ、交通事故、離婚なども扱う。この12年で相談件数9000件の実績がある。最近は高齢者の生活支援、失業、生活保護の相談も多い。1926年4月1日生まれ以前の人は年金から除外され、83歳以上の高齢者が無年金状態に置かれている。自治体によっては生活給付金を支給するところもあり、この給付の獲得を目指している。
たまたま部屋が逆光で暗い写真になってしまいました。すみません
日本政府は、2006年7月の北朝鮮のミサイル発射をきっかけに万景峰(マンギョンボン)号の入港禁止をはじめ、輸出入規制など経済制裁を発動した。すでに3年になる。
06年11月北朝鮮に住む甥に薬を持っていった72歳の女性を薬事法違反で強制捜査したり、07年2月には滋賀朝鮮初級学校を車庫飛ばしで強制捜査した。普通の日本人が対象なら罰金か厳重注意のケースなのに、100人以上の機動隊や警官を動員しマスコミがライブで報道するなかの捜査だった。こうした「事件」は全国で120件起きたが、起訴まで持ち込まれたのは3件に過ぎない。しかしいったん家宅捜索を受けると地域で生活ができなくなり、道も歩けないような状態になる。それなのに不起訴になったことはまったく報道されない。
また在留外国人が出国するときには再入国許可申請を必要とし、従来は4年間の有効期限内なら何度でも出入国が認められた。しかし06年7月以降、朝鮮籍の特別永住者に限り再入国許可は1回しか認められなくなった(数次許可の場合、次回の詳細な旅行計画が必要)。
もともと日本社会で在日が生活することは難しいのに、2002年9月の朝日会談で拉致問題がクローズアップされて以降さらに厳しくなった。たとえば家を借りる場合、コリアンだというと「北か南か」と聞かれ、「北」と答えると「ムリですね、大家さんがいやがるから」と断られる。家庭内暴力の相談を受けることがあるが、朝鮮籍で子どもがいると本当に家がみつからない。
以下、自分が相談を受けたり知人が直面したいくつかのケースを紹介する。
本名で日本の小学校に通っていた男の子が「キム・ジョンイル」とからかわれ、不登校と摂食障害になった。半年後、わざわざ通称名をつくり転校せざるをえなくなった。ふたたび100年前の旧植民地時代の「創始改名」を強いられたようなものだ。この子は4世だが、制裁がこの子に及ぼした暴力を考えるとつらい。
70年代に大学生の息子を帰国させた76歳の女性がいる。2年に一度の朝鮮での面会を唯一の心の支えにしていた。しかし万景峰号が使えなくなり、中国経由では渡航費が30万円もかかるため息子や孫と会えなくなってしまった。70年代に新潟港から息子を送り出したとき、本当は抱きしめてやりたかったが「後で会いにいくから」と励まして別れた。制裁が解除される見通しはない。一生息子に会えないかもしれない。会えないまま死んでいくなら、せめてあのとき抱きしめてやればよかったと、嘆いている。
在日の人で自営業を営む人は多いが、銀行融資を受けにくくなったり取引を断られるケースが増えた。バブル崩壊後もなんとかしのいできたが、制裁がとどめとなり、倒産・廃業する会社が相次いだ。とくに共和国との輸出入が禁止され貿易関係の会社は一律に倒産した。最近では資金繰りがつかず、うつ病になり自殺に至るケースもある。遺族から遺産(負債)の相続放棄の相談を受けることがある。
今年4月の「人工衛星」実験以降、経済制裁がさらに強化され全面輸出禁止となった。サッカーシューズやバンドエイドなどの生活用品すら送れなくなった。カレーやラーメンも、あとで郵便局の本局や税関から送り返される。しかも奢侈品や物量など、送付禁止の基準すら示されない。また結婚祝いや病気見舞いの3万円とか5万円という少額の送金もできなくなった。そういう相談は多い。
高校生の就職も厳しく、日本人の先生から国籍条項を撤廃した自治体を紹介してほしいという相談があった。
また身よりのない方から高齢になったので帰国したいが、年金をどうやって受け取ればよいかという相談を受けた。かつては社会保険庁がきちんと送金していた。ところがこの相談を受け調べていて制裁以降は送金されていない事実が判明した。金融制裁は解除されているにもかかわらずだ。信用できる人がいれば送金を代行してもらうこともできるが、下手に他人のカネを預かり送金すると、今度はその人が「運び屋」の疑惑を招く可能性もあり、重要だが頭の痛い問題である。
制裁措置は、ヒト・モノ・カネの遮断だが、このように在日の人権を制限する結果をもたらしている。制裁を解除するには敵対関係を解消することが前提になる。わたしたち在日だけの問題ではなく、日本社会の問題でもあるので、ともに力を合わせていきたい。
また市民レベルでは、これまであまりにも出会いが少なかったと思う。ルーツも含め、もっともっと互いの立ち位置を確認する作業が必要だ。正直にいうと、「いつも日本人の人に呼ばれわたしたちの現状をこちらから話さないと日本人はわからない、どうして日本人はわたしたちの問題をわかろうとしないのか」という思いがこれまであった。しかし逆に生活相談のなかでこんな問題があると広く社会にアピールしたり、身近な友人に話し理解と共感を広める努力が不足していたとも思う。もっと出会いを広げ、地道に地道に進めていくしかないだろう。
その他、朝鮮籍が無国籍であることの歴史的経緯、今年7月公布され3年後に施行される新たな在留管理制度の朝鮮籍の人に対する問題点、在日本朝鮮人人権協会(人権協会)の活動などが話された。
権利問題では、指紋押捺をはじめ、JRの割引定期、朝鮮学校の中体連・高体連への参加、国立大学入学資格など90年代に進展した問題は多くある。いま大きな問題になっているのは、朝鮮学校の法的地位や高齢者・障害者の無年金問題だそうだ。
☆2007年3月東京ウィメンズプラザで開催された「第7回表現者はリレーする」という集会でドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(梁英姫 2005)をみたことがある。70代後半の大阪の母が、ピョンヤンの息子や孫のため大きなダンボールに使い捨てカイロなど生活用品を山のように詰めて発送していた。輸出が全面禁止になりきっとずいぶんがっかりしていることだろう。
金さんの「もっともっと互いの立ち位置を確認する作業が必要だ」「どうして日本人はわたしたちの問題をわかろうとしないのか」という言葉は耳に痛かった。私は小中学校が京都だったのでクラスに何人か在日の人がいたのでなおさらだ。
在日と日本人の「出会い」という点では、10月に在日韓人歴史資料館で開催された「マッコリを飲む会」は、その試みのひとつだったと思う。
わたしは2年前の「3.1朝鮮独立運動88周年集会」の金東鶴さんの報告で、06年11月から集中豪雨的に実施された、微罪を口実にした在日朝鮮人への強制捜査について聞いたことがあった。ここ1年ほどマスコミ報道ではこんな極端なことは目にしないが、その後どうなっているのか知りたくこのセミナーを聞きに行った。
金さんはNPO法人同胞法律・生活センター事務局長で社会福祉士である。同胞法律・生活センターは、韓国出身者や中国籍朝鮮族のニューカマーも含め、コリアン個人の法律相談や生活相談を行う相談センターである。80年代以降、弁護士、税理士など在日の有資格者が増え、専門知識を在日同胞に還元しようと1997年12月に設立された。相談内容は、国籍、相続、在留資格、外国人登録など在日ならではの問題をはじめ、交通事故、離婚なども扱う。この12年で相談件数9000件の実績がある。最近は高齢者の生活支援、失業、生活保護の相談も多い。1926年4月1日生まれ以前の人は年金から除外され、83歳以上の高齢者が無年金状態に置かれている。自治体によっては生活給付金を支給するところもあり、この給付の獲得を目指している。
たまたま部屋が逆光で暗い写真になってしまいました。すみません
日本政府は、2006年7月の北朝鮮のミサイル発射をきっかけに万景峰(マンギョンボン)号の入港禁止をはじめ、輸出入規制など経済制裁を発動した。すでに3年になる。
06年11月北朝鮮に住む甥に薬を持っていった72歳の女性を薬事法違反で強制捜査したり、07年2月には滋賀朝鮮初級学校を車庫飛ばしで強制捜査した。普通の日本人が対象なら罰金か厳重注意のケースなのに、100人以上の機動隊や警官を動員しマスコミがライブで報道するなかの捜査だった。こうした「事件」は全国で120件起きたが、起訴まで持ち込まれたのは3件に過ぎない。しかしいったん家宅捜索を受けると地域で生活ができなくなり、道も歩けないような状態になる。それなのに不起訴になったことはまったく報道されない。
また在留外国人が出国するときには再入国許可申請を必要とし、従来は4年間の有効期限内なら何度でも出入国が認められた。しかし06年7月以降、朝鮮籍の特別永住者に限り再入国許可は1回しか認められなくなった(数次許可の場合、次回の詳細な旅行計画が必要)。
もともと日本社会で在日が生活することは難しいのに、2002年9月の朝日会談で拉致問題がクローズアップされて以降さらに厳しくなった。たとえば家を借りる場合、コリアンだというと「北か南か」と聞かれ、「北」と答えると「ムリですね、大家さんがいやがるから」と断られる。家庭内暴力の相談を受けることがあるが、朝鮮籍で子どもがいると本当に家がみつからない。
以下、自分が相談を受けたり知人が直面したいくつかのケースを紹介する。
本名で日本の小学校に通っていた男の子が「キム・ジョンイル」とからかわれ、不登校と摂食障害になった。半年後、わざわざ通称名をつくり転校せざるをえなくなった。ふたたび100年前の旧植民地時代の「創始改名」を強いられたようなものだ。この子は4世だが、制裁がこの子に及ぼした暴力を考えるとつらい。
70年代に大学生の息子を帰国させた76歳の女性がいる。2年に一度の朝鮮での面会を唯一の心の支えにしていた。しかし万景峰号が使えなくなり、中国経由では渡航費が30万円もかかるため息子や孫と会えなくなってしまった。70年代に新潟港から息子を送り出したとき、本当は抱きしめてやりたかったが「後で会いにいくから」と励まして別れた。制裁が解除される見通しはない。一生息子に会えないかもしれない。会えないまま死んでいくなら、せめてあのとき抱きしめてやればよかったと、嘆いている。
在日の人で自営業を営む人は多いが、銀行融資を受けにくくなったり取引を断られるケースが増えた。バブル崩壊後もなんとかしのいできたが、制裁がとどめとなり、倒産・廃業する会社が相次いだ。とくに共和国との輸出入が禁止され貿易関係の会社は一律に倒産した。最近では資金繰りがつかず、うつ病になり自殺に至るケースもある。遺族から遺産(負債)の相続放棄の相談を受けることがある。
今年4月の「人工衛星」実験以降、経済制裁がさらに強化され全面輸出禁止となった。サッカーシューズやバンドエイドなどの生活用品すら送れなくなった。カレーやラーメンも、あとで郵便局の本局や税関から送り返される。しかも奢侈品や物量など、送付禁止の基準すら示されない。また結婚祝いや病気見舞いの3万円とか5万円という少額の送金もできなくなった。そういう相談は多い。
高校生の就職も厳しく、日本人の先生から国籍条項を撤廃した自治体を紹介してほしいという相談があった。
また身よりのない方から高齢になったので帰国したいが、年金をどうやって受け取ればよいかという相談を受けた。かつては社会保険庁がきちんと送金していた。ところがこの相談を受け調べていて制裁以降は送金されていない事実が判明した。金融制裁は解除されているにもかかわらずだ。信用できる人がいれば送金を代行してもらうこともできるが、下手に他人のカネを預かり送金すると、今度はその人が「運び屋」の疑惑を招く可能性もあり、重要だが頭の痛い問題である。
制裁措置は、ヒト・モノ・カネの遮断だが、このように在日の人権を制限する結果をもたらしている。制裁を解除するには敵対関係を解消することが前提になる。わたしたち在日だけの問題ではなく、日本社会の問題でもあるので、ともに力を合わせていきたい。
また市民レベルでは、これまであまりにも出会いが少なかったと思う。ルーツも含め、もっともっと互いの立ち位置を確認する作業が必要だ。正直にいうと、「いつも日本人の人に呼ばれわたしたちの現状をこちらから話さないと日本人はわからない、どうして日本人はわたしたちの問題をわかろうとしないのか」という思いがこれまであった。しかし逆に生活相談のなかでこんな問題があると広く社会にアピールしたり、身近な友人に話し理解と共感を広める努力が不足していたとも思う。もっと出会いを広げ、地道に地道に進めていくしかないだろう。
その他、朝鮮籍が無国籍であることの歴史的経緯、今年7月公布され3年後に施行される新たな在留管理制度の朝鮮籍の人に対する問題点、在日本朝鮮人人権協会(人権協会)の活動などが話された。
権利問題では、指紋押捺をはじめ、JRの割引定期、朝鮮学校の中体連・高体連への参加、国立大学入学資格など90年代に進展した問題は多くある。いま大きな問題になっているのは、朝鮮学校の法的地位や高齢者・障害者の無年金問題だそうだ。
☆2007年3月東京ウィメンズプラザで開催された「第7回表現者はリレーする」という集会でドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(梁英姫 2005)をみたことがある。70代後半の大阪の母が、ピョンヤンの息子や孫のため大きなダンボールに使い捨てカイロなど生活用品を山のように詰めて発送していた。輸出が全面禁止になりきっとずいぶんがっかりしていることだろう。
金さんの「もっともっと互いの立ち位置を確認する作業が必要だ」「どうして日本人はわたしたちの問題をわかろうとしないのか」という言葉は耳に痛かった。私は小中学校が京都だったのでクラスに何人か在日の人がいたのでなおさらだ。
在日と日本人の「出会い」という点では、10月に在日韓人歴史資料館で開催された「マッコリを飲む会」は、その試みのひとつだったと思う。