今年は太宰治の生誕100年でもあるが、田中絹代(1909―77年)の生誕100年の年でもある。
わたくしが田中絹代が出演した映画をはじめて見たのは、近代美術館フィルムセンターで上映していた小津安二郎特集の「大学は出たけれど」(1929年)や「落第はしたけれど」(1930年)だった。カフェの娘役や許嫁役がとてもかわいらしかった。その後小津の「非常線の女」(1933年) 、「風の中の牝鶏(1948年)、「彼岸花」(1958年)、五所平之助の「伊豆の踊子」(1933年) 、新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)も見た。
いまフィルムセンターで「生誕100年映画女優田中絹代」という展覧会と95点の作品の上映を開催中である。
展覧会は、?永遠のアイドル・絹代、◆絹代のアメリカ渡航(1950年)、?国民的スターの座へ(1948-56年)、?映画監督・田中絹代、?円熟の時代(58-77年)、◆絹代の遺品から、という構成になっている。映画のスチール、ポスター、シナリオ、絵コンテ、手紙、遺品のハイヒール・和服・帽子などが展示されていた。
絹代は下関生まれだが小学校2年で大阪に転出した。幼児のときから琵琶を習っており10歳で大阪琵琶少女歌劇に入り看板スターになった。当時の写真をみると意外なことに面長で利発そうだった。「伊豆の踊り子」などで丸顔の印象が強いが、後期の「彼岸花」などでは面長なのでこちらが本当のようだ。
ブロマイドが42枚展示されていた。セーラー服姿やテニスラケットを手にしたものがある。何と、水着姿もあった。当時と価値観が異なるからかもしれないが、それほど美人には見えない。やはり銀幕で映える女性なのだろう。スチールの「お嬢さん」(小津 1930)、「マダムと女房」(1931 五所)、「箱入り娘」(1935 小津)のほうがずっと魅力的だった。
スターになり1936年26歳で鎌倉に500坪の絹代御殿を建て、母や兄弟を呼び寄せた。近衛文麿別邸と藤原義江邸の間にあったそうだ。
1948年に溝口が書いた巻物の手紙があった。達筆の筆文字で読み違いもあるかもしれないが、「仕事御苦労様でした。小津君を待たせて済まないと思ってゐる。あなたも体と気持を休める閑もないと思ふといけない事だと信じる・・・」というものだ。
一方小津からの手紙もあった。こちらは松竹大船の200字詰め原稿用紙にペンで書かれている。「お話ハ牛原先生と児井さんからお聞きのことと思ひますが、是非貴女の御協力を得たく御同意の程御願ひいたし度く存じます・・・」というものだった。
田中絹代は映画では和服の印象が強いが、遺品には赤い皮の22センチのハイヒール、羽根飾り付きの帽子、黒のハンドバッグなど洋装のものがあった。赤や黒といったシンプルな色が好みだったようだ。監督時代の皮のキャップも赤だった。
絹代は1960年代に「私はね、私の一番の活動期を戦争のブランクによって無駄にしてしまったのです。映画界の一年、二年は大きいですからね。それで戦後になって、一挙にこのブランクをとりもどそうとした。この気持が監督をやった基本です」と回想した。
高峰三枝子の長文の弔辞があった。1936年高峰が松竹大船に入社したとき絹代はすでに大幹部だったが、大部屋の高峰に「がんばって下さいね」と声をかけてくれたとあった。五所の「さようなら絹代さん」という弔辞もあった。
映画を2本みた。1本は渋谷実「母と子」(1938年)、絹代は珍しく令嬢役で、日本舞踊を披露するシーンもある。ただ妾の子で、原作が矢田津世子という女性作家のせいかテーマは「男性の身勝手」だった。シナリオの出来が悪いが、兄(徳大寺伸)に「だから純情になっていただきたいの」「母さん、あんまりかわいそすぎる」と意見する絹代のけなげさが光った。存在感があり、さすが女優田中絹代だ。また人をすぐ信じる母親役の吉川満子(「生まれてはみたけれど」の母親役)と大衆食堂の娘役・水戸光子(「暖流」のヒロインの看護婦)の笑顔がとてもよかった。
もう1本は木下恵介「陸軍」(44年)、絹代は実年齢で35歳だが出征する長男を見送る母の役を演じる。声は母だが、見かけは娘に近くちょっとチグハグな感じだった。
内容は陸軍省後援情報局國民映画そのものの映画だ。陸軍の創始から描きたかったようで、冒頭は小倉藩と奇兵隊の戦いから始まる。ただ天皇賛美(皇国史観)の書・水戸光圀の「大日本史」をどうしても出したかったらしく小倉藩の武士の形見として「大日本史」が出てくる。こんなことはちょっと思いつかない。シナリオの曲芸に恐れ入った。
武士から「大日本史」を手渡されたのが質屋の息子・友之丞(三津田健)で、日清戦争のころには親の後を継いで質屋を営み「陸軍の父」山縣有朋の支援者になっている。その息子・友彦(笠智衆)は陸軍士官学校を卒業し日露戦争に従軍するが病弱で退役し工場の青年学校の教師になる。その妻・わかが絹代の役である。日中戦争が始まり気のやさしい長男・伸太郎(星野和正)が「支那」に出征する日、「天子さまからの預かり物」、「天子さまに差し上げた」と気丈に近所の人に言い、自宅の雑貨屋で掃除をしている。しかし、ラッパの音が聞こえると矢も盾もたまらず、音に引き寄せられていく。はじめは遠慮がちに通りを1本隔てた橋の上から見ていたが、どんどん隊列に近づき最前列にまで進み出て、息子を追い走り始める。だから見送りといっても国防婦人会の日の丸の小旗を打ち振るようなものではない。とうとう群集のなかで倒れて踏まれる。しかし再び立ち上がる。延々10分セリフなしで、博多の町や交差点をロングで撮ったり、絹代のアップにしたり、母の執念をカメラが映し出す。
よくこんな「反戦」映画を陸軍省後援で、それも昭和19年に公開できたものだと感心する。靖国神社遊就館の遺影写真でよくわかるが、44―45年の戦死が最も多い。
鈴木清順の名作「けんかえれじい」でヒロイン浅野順子が雪中行軍する陸軍の列に踏みつぶされる衝撃的なシーンがあった。その原型が1944年の木下の映画にあったことを発見した。
機会があれば、代表作である「愛染かつら」(1938-39)や「西鶴一代女」(1952)もみてみたい。
わたくしが田中絹代が出演した映画をはじめて見たのは、近代美術館フィルムセンターで上映していた小津安二郎特集の「大学は出たけれど」(1929年)や「落第はしたけれど」(1930年)だった。カフェの娘役や許嫁役がとてもかわいらしかった。その後小津の「非常線の女」(1933年) 、「風の中の牝鶏(1948年)、「彼岸花」(1958年)、五所平之助の「伊豆の踊子」(1933年) 、新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)も見た。
いまフィルムセンターで「生誕100年映画女優田中絹代」という展覧会と95点の作品の上映を開催中である。
展覧会は、?永遠のアイドル・絹代、◆絹代のアメリカ渡航(1950年)、?国民的スターの座へ(1948-56年)、?映画監督・田中絹代、?円熟の時代(58-77年)、◆絹代の遺品から、という構成になっている。映画のスチール、ポスター、シナリオ、絵コンテ、手紙、遺品のハイヒール・和服・帽子などが展示されていた。
絹代は下関生まれだが小学校2年で大阪に転出した。幼児のときから琵琶を習っており10歳で大阪琵琶少女歌劇に入り看板スターになった。当時の写真をみると意外なことに面長で利発そうだった。「伊豆の踊り子」などで丸顔の印象が強いが、後期の「彼岸花」などでは面長なのでこちらが本当のようだ。
ブロマイドが42枚展示されていた。セーラー服姿やテニスラケットを手にしたものがある。何と、水着姿もあった。当時と価値観が異なるからかもしれないが、それほど美人には見えない。やはり銀幕で映える女性なのだろう。スチールの「お嬢さん」(小津 1930)、「マダムと女房」(1931 五所)、「箱入り娘」(1935 小津)のほうがずっと魅力的だった。
スターになり1936年26歳で鎌倉に500坪の絹代御殿を建て、母や兄弟を呼び寄せた。近衛文麿別邸と藤原義江邸の間にあったそうだ。
1948年に溝口が書いた巻物の手紙があった。達筆の筆文字で読み違いもあるかもしれないが、「仕事御苦労様でした。小津君を待たせて済まないと思ってゐる。あなたも体と気持を休める閑もないと思ふといけない事だと信じる・・・」というものだ。
一方小津からの手紙もあった。こちらは松竹大船の200字詰め原稿用紙にペンで書かれている。「お話ハ牛原先生と児井さんからお聞きのことと思ひますが、是非貴女の御協力を得たく御同意の程御願ひいたし度く存じます・・・」というものだった。
田中絹代は映画では和服の印象が強いが、遺品には赤い皮の22センチのハイヒール、羽根飾り付きの帽子、黒のハンドバッグなど洋装のものがあった。赤や黒といったシンプルな色が好みだったようだ。監督時代の皮のキャップも赤だった。
絹代は1960年代に「私はね、私の一番の活動期を戦争のブランクによって無駄にしてしまったのです。映画界の一年、二年は大きいですからね。それで戦後になって、一挙にこのブランクをとりもどそうとした。この気持が監督をやった基本です」と回想した。
高峰三枝子の長文の弔辞があった。1936年高峰が松竹大船に入社したとき絹代はすでに大幹部だったが、大部屋の高峰に「がんばって下さいね」と声をかけてくれたとあった。五所の「さようなら絹代さん」という弔辞もあった。
映画を2本みた。1本は渋谷実「母と子」(1938年)、絹代は珍しく令嬢役で、日本舞踊を披露するシーンもある。ただ妾の子で、原作が矢田津世子という女性作家のせいかテーマは「男性の身勝手」だった。シナリオの出来が悪いが、兄(徳大寺伸)に「だから純情になっていただきたいの」「母さん、あんまりかわいそすぎる」と意見する絹代のけなげさが光った。存在感があり、さすが女優田中絹代だ。また人をすぐ信じる母親役の吉川満子(「生まれてはみたけれど」の母親役)と大衆食堂の娘役・水戸光子(「暖流」のヒロインの看護婦)の笑顔がとてもよかった。
もう1本は木下恵介「陸軍」(44年)、絹代は実年齢で35歳だが出征する長男を見送る母の役を演じる。声は母だが、見かけは娘に近くちょっとチグハグな感じだった。
内容は陸軍省後援情報局國民映画そのものの映画だ。陸軍の創始から描きたかったようで、冒頭は小倉藩と奇兵隊の戦いから始まる。ただ天皇賛美(皇国史観)の書・水戸光圀の「大日本史」をどうしても出したかったらしく小倉藩の武士の形見として「大日本史」が出てくる。こんなことはちょっと思いつかない。シナリオの曲芸に恐れ入った。
武士から「大日本史」を手渡されたのが質屋の息子・友之丞(三津田健)で、日清戦争のころには親の後を継いで質屋を営み「陸軍の父」山縣有朋の支援者になっている。その息子・友彦(笠智衆)は陸軍士官学校を卒業し日露戦争に従軍するが病弱で退役し工場の青年学校の教師になる。その妻・わかが絹代の役である。日中戦争が始まり気のやさしい長男・伸太郎(星野和正)が「支那」に出征する日、「天子さまからの預かり物」、「天子さまに差し上げた」と気丈に近所の人に言い、自宅の雑貨屋で掃除をしている。しかし、ラッパの音が聞こえると矢も盾もたまらず、音に引き寄せられていく。はじめは遠慮がちに通りを1本隔てた橋の上から見ていたが、どんどん隊列に近づき最前列にまで進み出て、息子を追い走り始める。だから見送りといっても国防婦人会の日の丸の小旗を打ち振るようなものではない。とうとう群集のなかで倒れて踏まれる。しかし再び立ち上がる。延々10分セリフなしで、博多の町や交差点をロングで撮ったり、絹代のアップにしたり、母の執念をカメラが映し出す。
よくこんな「反戦」映画を陸軍省後援で、それも昭和19年に公開できたものだと感心する。靖国神社遊就館の遺影写真でよくわかるが、44―45年の戦死が最も多い。
鈴木清順の名作「けんかえれじい」でヒロイン浅野順子が雪中行軍する陸軍の列に踏みつぶされる衝撃的なシーンがあった。その原型が1944年の木下の映画にあったことを発見した。
機会があれば、代表作である「愛染かつら」(1938-39)や「西鶴一代女」(1952)もみてみたい。