12月6日まで「トキワ荘のヒーローたち マンガにかけた青春」展が2つの会場で開催されている。第一会場は池袋の豊島区立郷土資料館、第二会場はトキワ荘があった椎名町の豊島区立区民ひろば富士見台である。
下のスタンプラリーの絵は、縮小しているのでわかりにくいが、鉄腕アトム、チビ太、スポーツマン金太郎、仮面ライダー、ドラえもん、忍者ハットリくんなどのキャラクターが10人の作家の似顔絵とともに描かれている。バックにある建物が椎名町から1キロほど南にあったトキワ荘である。
トキワ荘は、1952年12月6日に棟上げした木造2階建てのアパートだった。2階には四畳半の部屋が廊下をはさんで10室あり家賃は3000円だった。53年1月、新築のアパートにまず住み込んだのは豊中から移り住んだ手塚治虫だった。次が、53年9月に新潟から上京し12月末に転居した寺田ヒロオである。手塚は、54年10月雑司が谷の並木ハウスに転居したが、その部屋に引っ越してきたのは藤子不二雄Aだった(隣室がF)。手塚が敷金と机をそのまま置いていき2人は感激した。55年には鈴木伸一、56年には鈴木の部屋の後釜に森安なおやが転入した。森安は牛乳配達をしており、鈴木が「昼間は部屋があいているので使っていいよ」と言うと鈴木の机より大きな机を持ち込んだ。また56年には、新潟の塗装店で働いていた赤塚不二夫、高校生時代に手塚に腕を見込まれ指名で助手を務めた石ノ森章太郎が宮城県中田町から転入した。石ノ森は、はじめ西落合に下宿したが、慣れない一人暮らしで体調を崩し赤塚のすすめで5月に移ってきた。58年には7か月だけだが下関から水野英子が居住し、森安の後釜によこたとくおが転入した。水野がたった7か月で部屋を出たのは、てっきり男ばかりでむさくるしく嫌気がさしたのかと思ったら、事実はまったく逆で「祖母と3か月の約束で上京したがあまりにも楽しかったのでズルズル居続け、7か月目にやむなく帰省した」とのことだ。その他通いで、長谷邦夫、つのだじろう、園山俊二らが頻繁に出入りした。
漫画家は10室のうち7室を使っていた。これほどの人材がトキワ荘に集中して入居したのにはもちろん理由がある。戦前、講談社の「少年倶楽部」の名編集長だった加藤謙一が1947年に発刊した「漫画少年」(学童社)の存在である。手塚は50年から「ジャングル大帝」を連載中で、加藤が手塚にトキワ荘を紹介した。この雑誌には投稿欄があり、石ノ森、藤子、鈴木、寺田、赤塚、つのだらは常連だった。一方、石ノ森は東日本漫画研究会を主宰し同人誌「墨汁一滴」を発刊し、石ノ森、藤子、鈴木、寺田、赤塚らがメンバーだった。また水野を少女クラブの丸山昭編集長に推薦したのは手塚だった。こういう人脈でトキワ荘は若手で才能のある漫画家の梁山泊となったのである。
会場には、各人の20代のころの漫画の原画が展示されていた。とてもていねいに描き込まれていた。このエネルギーが半世紀後に日本をアニメ産業の国へと押し上げ、実を結んだ。鈴木はその後、61年に藤子、石ノ森、つのだ、赤塚らとスタジオ・ゼロを設立し「おそ松くん」「パーマン」「怪物くん」などのアニメを生み出した。ちなみに鈴木は「オバQ」でいつもラーメンを食べている小池さんのモデルである。
寺田はたくさん部屋の写真を残しており、それをもとに当時の22号室が再現されていた。家具としては洋服だんす、食器棚、本棚が並び、本棚には坪田譲治全集、小川未明童話全集、おぢいさんのランプなど童話のタイトルが見えた。四角いちゃぶ台にはバヤリース、三ツ矢サイダー、とっくり、コップなどが置いてあった。仕事机はライトテーブルになっており、傍らには木箱の整理棚がありタイガーのラジオが置かれていた。火鉢もあった。冷暖房のない時代、やっと扇風機が手に入るかどうかだから真夏や真冬ずっと部屋にこもって仕事をするのは大変だっただろう。
窓のガラスは下3枚が磨りガラス、上1枚が透明ガラスというところまで忠実に再現されていた。四畳半といってもマンションサイズではないので、ずいぶん広くみえる。藤子はそれまで2畳に住んでいたので、すごい豪邸に引っ越したと感激したそうだ。
もっとも楽しい展示は「トキワ荘の暮らしと遊び」というコーナーだった。トキワ荘に住んでいたときの年齢は、18歳の石ノ森、水野を除き、みんな20代だった。毎晩だれかの部屋で宴会が開かれ、寶焼酎3対サイダー7のチューダーという酒を、キャベツの油いため、マグロフレーク、サケ缶などをつまみに、飲んでいたそうだ。麻雀牌、将棋盤、バットとグローブ、56年11月の野球チームと56年12月の宴会の写真が展示されていた。
新漫画党8ミリ審査会委員長藤子不二雄の名で角田次朗宛ての「ボリショイ・サーカス」の表彰状があった。「きわめて心地よい軟調の色彩設計」なので「スイート賞」を贈ると評されていた。遊びを超えたまじめな活動に見えた。しかも丁寧かつきれいな筆文字で書かれていた。8ミリへの関心が高く、藤子の「キャツをネかすな」という、漫画家と編集者の15分のモノクロ映画が上映されていた
トキワ荘には、藤子の2人の母、石ノ森の母や美しい姉、赤塚の母も住んでいた時期がある。もちろん子どもの世話をするのが目的だが、赤塚の母はよこた、長谷、水野の食事もいっしょにつくっていた。おみおつけの味がなつかしいとよこたが書いていた。
西武新宿線椎名町で降り、踏み切りを渡り南口に抜けるとかなり大きな児童公園がある。昭和30年代には子どもたちが学校から帰ると毎日草野球をしていたのが目に浮かぶようだ。その先に第二会場がある。区民ひろば富士見台は老人クラブと児童館をいっしょにしたような施設で、2階建て建物のロビーで昭和30年代の椎名町が紹介されていた。
そこからさらに10分ほど旧目白通りへと住宅街を歩いたところにトキワ荘跡がある。いまは日本加除出版新館と民家になっている。
しかし近所には古い家屋がまだまだある。赤塚が59年ごろ借りた紫雲荘、昔のままのさつき荘、石壁の牛乳店、小料理みずほ、飲んで食べて歌える店ひかりなどだ。旧目白通りには南長崎ニコニコ商店街という商店街が300mほど続いている。ラーメンライスの「松葉」は今も営業中だ。東の山手通りとの交差点には、拡幅工事が始まる前の2002年まで音楽喫茶「エデン」が営業していたというので驚きだ。
少しあとの時期の統計だが1968年には豊島区の全世帯の45%がアパート住まいで、人口密度は都内2位だった。当時の商店街には、書店、貸本屋、レコード店、映画館があり、近くには何軒も銭湯があった。第二会場に、貸本のダイヤ書房の店頭、椎名町書店、松葉の店の人、焼きそば35円、カツ丼100円メニューがみえるだるまや、ケーキの片山菊香堂、町会の神輿(みこし)、トキワ荘前の藤子Aの写真が展示されていた。「三丁目の夕日」そのままだった。4畳半のレプリカと合わせ、60年代に地方から出てきた20代の若者たちがどんな空気を吸って生活していたのか想像できた。
商店街の西はずれの区立南長崎花咲公園には今年4月記念碑が設置された。10人の漫画家の似顔絵とサインの10枚のプレート、そして上にトキワ荘の模型が乗っている。
下のスタンプラリーの絵は、縮小しているのでわかりにくいが、鉄腕アトム、チビ太、スポーツマン金太郎、仮面ライダー、ドラえもん、忍者ハットリくんなどのキャラクターが10人の作家の似顔絵とともに描かれている。バックにある建物が椎名町から1キロほど南にあったトキワ荘である。
トキワ荘は、1952年12月6日に棟上げした木造2階建てのアパートだった。2階には四畳半の部屋が廊下をはさんで10室あり家賃は3000円だった。53年1月、新築のアパートにまず住み込んだのは豊中から移り住んだ手塚治虫だった。次が、53年9月に新潟から上京し12月末に転居した寺田ヒロオである。手塚は、54年10月雑司が谷の並木ハウスに転居したが、その部屋に引っ越してきたのは藤子不二雄Aだった(隣室がF)。手塚が敷金と机をそのまま置いていき2人は感激した。55年には鈴木伸一、56年には鈴木の部屋の後釜に森安なおやが転入した。森安は牛乳配達をしており、鈴木が「昼間は部屋があいているので使っていいよ」と言うと鈴木の机より大きな机を持ち込んだ。また56年には、新潟の塗装店で働いていた赤塚不二夫、高校生時代に手塚に腕を見込まれ指名で助手を務めた石ノ森章太郎が宮城県中田町から転入した。石ノ森は、はじめ西落合に下宿したが、慣れない一人暮らしで体調を崩し赤塚のすすめで5月に移ってきた。58年には7か月だけだが下関から水野英子が居住し、森安の後釜によこたとくおが転入した。水野がたった7か月で部屋を出たのは、てっきり男ばかりでむさくるしく嫌気がさしたのかと思ったら、事実はまったく逆で「祖母と3か月の約束で上京したがあまりにも楽しかったのでズルズル居続け、7か月目にやむなく帰省した」とのことだ。その他通いで、長谷邦夫、つのだじろう、園山俊二らが頻繁に出入りした。
漫画家は10室のうち7室を使っていた。これほどの人材がトキワ荘に集中して入居したのにはもちろん理由がある。戦前、講談社の「少年倶楽部」の名編集長だった加藤謙一が1947年に発刊した「漫画少年」(学童社)の存在である。手塚は50年から「ジャングル大帝」を連載中で、加藤が手塚にトキワ荘を紹介した。この雑誌には投稿欄があり、石ノ森、藤子、鈴木、寺田、赤塚、つのだらは常連だった。一方、石ノ森は東日本漫画研究会を主宰し同人誌「墨汁一滴」を発刊し、石ノ森、藤子、鈴木、寺田、赤塚らがメンバーだった。また水野を少女クラブの丸山昭編集長に推薦したのは手塚だった。こういう人脈でトキワ荘は若手で才能のある漫画家の梁山泊となったのである。
会場には、各人の20代のころの漫画の原画が展示されていた。とてもていねいに描き込まれていた。このエネルギーが半世紀後に日本をアニメ産業の国へと押し上げ、実を結んだ。鈴木はその後、61年に藤子、石ノ森、つのだ、赤塚らとスタジオ・ゼロを設立し「おそ松くん」「パーマン」「怪物くん」などのアニメを生み出した。ちなみに鈴木は「オバQ」でいつもラーメンを食べている小池さんのモデルである。
寺田はたくさん部屋の写真を残しており、それをもとに当時の22号室が再現されていた。家具としては洋服だんす、食器棚、本棚が並び、本棚には坪田譲治全集、小川未明童話全集、おぢいさんのランプなど童話のタイトルが見えた。四角いちゃぶ台にはバヤリース、三ツ矢サイダー、とっくり、コップなどが置いてあった。仕事机はライトテーブルになっており、傍らには木箱の整理棚がありタイガーのラジオが置かれていた。火鉢もあった。冷暖房のない時代、やっと扇風機が手に入るかどうかだから真夏や真冬ずっと部屋にこもって仕事をするのは大変だっただろう。
窓のガラスは下3枚が磨りガラス、上1枚が透明ガラスというところまで忠実に再現されていた。四畳半といってもマンションサイズではないので、ずいぶん広くみえる。藤子はそれまで2畳に住んでいたので、すごい豪邸に引っ越したと感激したそうだ。
もっとも楽しい展示は「トキワ荘の暮らしと遊び」というコーナーだった。トキワ荘に住んでいたときの年齢は、18歳の石ノ森、水野を除き、みんな20代だった。毎晩だれかの部屋で宴会が開かれ、寶焼酎3対サイダー7のチューダーという酒を、キャベツの油いため、マグロフレーク、サケ缶などをつまみに、飲んでいたそうだ。麻雀牌、将棋盤、バットとグローブ、56年11月の野球チームと56年12月の宴会の写真が展示されていた。
新漫画党8ミリ審査会委員長藤子不二雄の名で角田次朗宛ての「ボリショイ・サーカス」の表彰状があった。「きわめて心地よい軟調の色彩設計」なので「スイート賞」を贈ると評されていた。遊びを超えたまじめな活動に見えた。しかも丁寧かつきれいな筆文字で書かれていた。8ミリへの関心が高く、藤子の「キャツをネかすな」という、漫画家と編集者の15分のモノクロ映画が上映されていた
トキワ荘には、藤子の2人の母、石ノ森の母や美しい姉、赤塚の母も住んでいた時期がある。もちろん子どもの世話をするのが目的だが、赤塚の母はよこた、長谷、水野の食事もいっしょにつくっていた。おみおつけの味がなつかしいとよこたが書いていた。
西武新宿線椎名町で降り、踏み切りを渡り南口に抜けるとかなり大きな児童公園がある。昭和30年代には子どもたちが学校から帰ると毎日草野球をしていたのが目に浮かぶようだ。その先に第二会場がある。区民ひろば富士見台は老人クラブと児童館をいっしょにしたような施設で、2階建て建物のロビーで昭和30年代の椎名町が紹介されていた。
そこからさらに10分ほど旧目白通りへと住宅街を歩いたところにトキワ荘跡がある。いまは日本加除出版新館と民家になっている。
しかし近所には古い家屋がまだまだある。赤塚が59年ごろ借りた紫雲荘、昔のままのさつき荘、石壁の牛乳店、小料理みずほ、飲んで食べて歌える店ひかりなどだ。旧目白通りには南長崎ニコニコ商店街という商店街が300mほど続いている。ラーメンライスの「松葉」は今も営業中だ。東の山手通りとの交差点には、拡幅工事が始まる前の2002年まで音楽喫茶「エデン」が営業していたというので驚きだ。
少しあとの時期の統計だが1968年には豊島区の全世帯の45%がアパート住まいで、人口密度は都内2位だった。当時の商店街には、書店、貸本屋、レコード店、映画館があり、近くには何軒も銭湯があった。第二会場に、貸本のダイヤ書房の店頭、椎名町書店、松葉の店の人、焼きそば35円、カツ丼100円メニューがみえるだるまや、ケーキの片山菊香堂、町会の神輿(みこし)、トキワ荘前の藤子Aの写真が展示されていた。「三丁目の夕日」そのままだった。4畳半のレプリカと合わせ、60年代に地方から出てきた20代の若者たちがどんな空気を吸って生活していたのか想像できた。
商店街の西はずれの区立南長崎花咲公園には今年4月記念碑が設置された。10人の漫画家の似顔絵とサインの10枚のプレート、そして上にトキワ荘の模型が乗っている。