11月3日は明治天皇の誕生日なので旧・明治節に当たる。かつて全国の小学校で「アジアの東 日いずるところ、聖の君の現れまして」と歌われた日だ。その本拠地の明治神宮は今年11月1日が社殿復興50年で、照明デザイナー・面出薫氏のアカリウムなど様々な記念行事が開催された。原宿口正面には「宙の玄関」というオーロラ提灯が並ぶ。東京など1都3県の崇敬会、明治記念館・農林水産物奉献会など関係団体、セコム、間組、松井ビルなど企業の数百の提灯が吊り下げられた。
境内に入場すると直径1mもの巨木が多い参道は、昼でも木漏れ日しか差さず薄暗いので夜になると暗闇になる。ところどころ左右に灯りが灯る「光の道」と名付けられたライトアップが施されていた。小学生のころ行ったキャンプ地の夜道のような感じだった。南側鳥居から200-300m歩いたところに道路を横切るように川がある。川を照らす照明は夜霧のように幻想的な雰囲気をつくり出し見事だった。 そのなかを女性グループ、子連れの家族、カップルが、まるで初詣のように群れを成して歩いていた。文化館前の広場のたこ焼きや甘酒の店には行列ができていた。初詣客日本一のこの神社、外人観光客も多くスペイン語や中国語が飛びかっている。
11月1日(土)夜には、近隣町内会ごとに祭礼用町会半纏を着用し表参道、北参道、西参道から提灯行列し、本殿で古澤巌と林英哲の奉納演奏のあと来場者全員のお祓い、最後には万歳三唱したという。まさに善男善女が参集する平和な光景である。
この神社は1912年7月明治天皇が死去したあと1914年に造営を開始し1920年に完成した。北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、日本だけでなく満州(中国東北部)、朝鮮を含め、約10万本の木が奉献された。日本一の大鳥居からして台湾の阿里山の巨木を伐り出したものだ。当時は日本領だったので仕方なさそうにも思えるが、1966年の落雷で建て直したときの木も台湾の大丹山の直径1.2m樹齢2000年の桧を使っている。1926年には、神宮外苑の造営も完了した。約10万本の木の奉献、延べ11万人に上る青年団の勤労奉仕、1000万円に及ぶ寄付金が三大美談だそうだ。 ところが1945年4月14日深夜1330発の焼夷弾を浴び明治神宮は消失した。46年5月末から仮社殿でしのいでいたが、55年6月再建を開始し58年11月1日に完成した。つまり今年が復興50年というわけである。氏子を持たぬこの神社は1946年明治神宮崇敬会を組織した。これを足がかりに復興奉賛会を設置し6億円寄付(法人1.5億、東京都の世帯1.5億、全国の世帯3億)を達成した。明治神宮の敷地は70万平方メートル(東京ドーム15個分)、復興社殿は2090平方メートルという規模を誇る。
1955年9月新宿貨物駅から神宮へのお木曳の行列には栃錦、鏡里、吉葉山ら裸の力士60人が行進した。58年11月の奉納歌謡大会ではコロンビアローズが「東京のバスガール」を歌った。
しかしこの神社は普通の神社ではない。日本の神社、とくに官国幣大社に指定された著名な神社は奈良時代、平安時代に創建された古い神社が多い。ところが明治以降に建てられた新しい神社がいくつかある。(以下、村上重良「国家神道」(岩波新書155 1970.11)を参考にした)。4種類あり、ひとつは明治神宮(1920)、平安神宮(1895)など天皇・皇族を祀る神社、2つ目は靖国神社(1869)、護国神社など天皇制のための戦没者を祀る神社、3つ目は湊川神社(1868)、藤島神社(1870)など南朝の忠臣を祀る神社、4つ目は台湾神宮(1900)、朝鮮神宮(1919)など植民地・占領地の神社である。つまり伊勢神宮、橿原神宮などと並ぶ明治以降の国家神道の中心的な神社である。国体の教義が確立し、官国幣社職制が公布されたのはそれほど古いことではなく1890年から1900年代のことである。神前結婚は日本古来からあったように思われがちだが、キリスト教の影響でつくられたもので1900年に行われた大正天皇の結婚式が始まりといわれる。「天皇陛下万歳」などの「バンザイ」という歓声は1889年2月11日の大日本帝国憲法発布式に始まったそうだ。
戦後、政教分離が実施され神祇院も廃止となったが、民間の宗教法人・神社本庁が設立された。明治神宮代々木口の東側にある。
「証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも」によれば、74年4月結成された「日本を守る会」の事務局は明治神宮会館で事務局長は副島廣之・権宮司であった。この会は天皇在位50年、元号法制定など右翼大衆運動をリードしてきた。97年5月日本会議に発展し事務局に外山勝志宮司が入った。99年には国旗国歌法制定、2007年「みどりの日」から「昭和の日」へを成功させ、憲法改正や首相による靖国神社公式参拝を目指し活動している。
広大な敷地の北のほうに宝物殿がある。1921年(大正10年)に開館した建物は校倉風大床造りという「おっ」と驚くほど巨大な高床づくりの建物である。明治天皇、昭憲皇太后にゆかりの品を展示したと説明がある。鉛筆、ペン、銀の花瓶、置時計、火鉢などでたいしたものは陳列されていなかった。高蒔絵の唐戸たんすがちょっと見ごたえがあったが、菊の紋のデザインの分をどう割り引けばよいのか迷うところだ。
明治天皇、昭憲皇太后の年譜が掲出されていた。昭憲皇太后のほうは、1869年東京行幸、73年富岡製糸場行啓、77年京都の梅宮大社、松尾大社などに参拝、1891年東京盲唖学校行啓などと少しは伝記の体裁になっているが、明治天皇のほうは1853年ペリー来航、64年寺田屋騒動、71年廃藩置県、90年帝国議会開設、1910年日韓併合など日本史の年表事項そのものしか記載されていない。天皇は人間を超越し、国家そのものということなのだろうか?
壁には神武から昭和まで124代の歴代天皇の肖像画が飾ってある。画家の馬堀法眼喜孝は旧一万円札の聖徳太子、千円札の伊藤博文、五百円札の岩倉具視の肖像画の作者である。
神武から9代・開化天皇までは顔の向きと装身具が違うだけで同じ顔同じ衣装である。おそらく「闕史八代」(帝紀は存在するものの事績(旧辞)が記されていない8代の天皇は架空のものとする説)を採用しているのだろう。女性天皇は10人(1人で2回やった人もいる)いるが、うち8人が6世紀から8世紀の飛鳥・白鳳・奈良時代に集中し、天皇16人中8人、すなわち5割が女性である。女系天皇は珍しくなかったということだ。百武源吾・元海軍大将の筆による教育勅語も展示されていた。境内では教育勅語やその口語訳のパンフも配布されていた。
帰りに授与所をのぞいてみた。お守り(300円~1000円)、絵馬500円、千歳飴などはどこの神社にもあるが、教育勅語(額入り5000円、筒入り700円)、国旗セット(1.5mの竿つき 1500円)、五箇条の御誓文硯屏2000円などはこの神社の特色をよく表している。買っている人はあまりみかけなかった。
原宿の町には、日の丸が翻っていた。来年は「天皇陛下御即位20年奉祝」の年で、11月には大々的な記念行事が開催される。すでに奉祝映画「平成のご巡幸」の上映が各地で始まっている。
明治神宮宝物殿
住 所:東京都渋谷区代々木神園町1-1
電 話:03-3379-5875
開館日:土・日・祝日(その他、春秋大祭期間など特別の日)
開館時間:9時~16時30分(ただし11月~2月は16時閉館)
入場料: 一般500円、大学・高校生200円、中学生以下無料
境内に入場すると直径1mもの巨木が多い参道は、昼でも木漏れ日しか差さず薄暗いので夜になると暗闇になる。ところどころ左右に灯りが灯る「光の道」と名付けられたライトアップが施されていた。小学生のころ行ったキャンプ地の夜道のような感じだった。南側鳥居から200-300m歩いたところに道路を横切るように川がある。川を照らす照明は夜霧のように幻想的な雰囲気をつくり出し見事だった。 そのなかを女性グループ、子連れの家族、カップルが、まるで初詣のように群れを成して歩いていた。文化館前の広場のたこ焼きや甘酒の店には行列ができていた。初詣客日本一のこの神社、外人観光客も多くスペイン語や中国語が飛びかっている。
11月1日(土)夜には、近隣町内会ごとに祭礼用町会半纏を着用し表参道、北参道、西参道から提灯行列し、本殿で古澤巌と林英哲の奉納演奏のあと来場者全員のお祓い、最後には万歳三唱したという。まさに善男善女が参集する平和な光景である。
この神社は1912年7月明治天皇が死去したあと1914年に造営を開始し1920年に完成した。北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、日本だけでなく満州(中国東北部)、朝鮮を含め、約10万本の木が奉献された。日本一の大鳥居からして台湾の阿里山の巨木を伐り出したものだ。当時は日本領だったので仕方なさそうにも思えるが、1966年の落雷で建て直したときの木も台湾の大丹山の直径1.2m樹齢2000年の桧を使っている。1926年には、神宮外苑の造営も完了した。約10万本の木の奉献、延べ11万人に上る青年団の勤労奉仕、1000万円に及ぶ寄付金が三大美談だそうだ。 ところが1945年4月14日深夜1330発の焼夷弾を浴び明治神宮は消失した。46年5月末から仮社殿でしのいでいたが、55年6月再建を開始し58年11月1日に完成した。つまり今年が復興50年というわけである。氏子を持たぬこの神社は1946年明治神宮崇敬会を組織した。これを足がかりに復興奉賛会を設置し6億円寄付(法人1.5億、東京都の世帯1.5億、全国の世帯3億)を達成した。明治神宮の敷地は70万平方メートル(東京ドーム15個分)、復興社殿は2090平方メートルという規模を誇る。
1955年9月新宿貨物駅から神宮へのお木曳の行列には栃錦、鏡里、吉葉山ら裸の力士60人が行進した。58年11月の奉納歌謡大会ではコロンビアローズが「東京のバスガール」を歌った。
しかしこの神社は普通の神社ではない。日本の神社、とくに官国幣大社に指定された著名な神社は奈良時代、平安時代に創建された古い神社が多い。ところが明治以降に建てられた新しい神社がいくつかある。(以下、村上重良「国家神道」(岩波新書155 1970.11)を参考にした)。4種類あり、ひとつは明治神宮(1920)、平安神宮(1895)など天皇・皇族を祀る神社、2つ目は靖国神社(1869)、護国神社など天皇制のための戦没者を祀る神社、3つ目は湊川神社(1868)、藤島神社(1870)など南朝の忠臣を祀る神社、4つ目は台湾神宮(1900)、朝鮮神宮(1919)など植民地・占領地の神社である。つまり伊勢神宮、橿原神宮などと並ぶ明治以降の国家神道の中心的な神社である。国体の教義が確立し、官国幣社職制が公布されたのはそれほど古いことではなく1890年から1900年代のことである。神前結婚は日本古来からあったように思われがちだが、キリスト教の影響でつくられたもので1900年に行われた大正天皇の結婚式が始まりといわれる。「天皇陛下万歳」などの「バンザイ」という歓声は1889年2月11日の大日本帝国憲法発布式に始まったそうだ。
戦後、政教分離が実施され神祇院も廃止となったが、民間の宗教法人・神社本庁が設立された。明治神宮代々木口の東側にある。
「証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも」によれば、74年4月結成された「日本を守る会」の事務局は明治神宮会館で事務局長は副島廣之・権宮司であった。この会は天皇在位50年、元号法制定など右翼大衆運動をリードしてきた。97年5月日本会議に発展し事務局に外山勝志宮司が入った。99年には国旗国歌法制定、2007年「みどりの日」から「昭和の日」へを成功させ、憲法改正や首相による靖国神社公式参拝を目指し活動している。
広大な敷地の北のほうに宝物殿がある。1921年(大正10年)に開館した建物は校倉風大床造りという「おっ」と驚くほど巨大な高床づくりの建物である。明治天皇、昭憲皇太后にゆかりの品を展示したと説明がある。鉛筆、ペン、銀の花瓶、置時計、火鉢などでたいしたものは陳列されていなかった。高蒔絵の唐戸たんすがちょっと見ごたえがあったが、菊の紋のデザインの分をどう割り引けばよいのか迷うところだ。
明治天皇、昭憲皇太后の年譜が掲出されていた。昭憲皇太后のほうは、1869年東京行幸、73年富岡製糸場行啓、77年京都の梅宮大社、松尾大社などに参拝、1891年東京盲唖学校行啓などと少しは伝記の体裁になっているが、明治天皇のほうは1853年ペリー来航、64年寺田屋騒動、71年廃藩置県、90年帝国議会開設、1910年日韓併合など日本史の年表事項そのものしか記載されていない。天皇は人間を超越し、国家そのものということなのだろうか?
壁には神武から昭和まで124代の歴代天皇の肖像画が飾ってある。画家の馬堀法眼喜孝は旧一万円札の聖徳太子、千円札の伊藤博文、五百円札の岩倉具視の肖像画の作者である。
神武から9代・開化天皇までは顔の向きと装身具が違うだけで同じ顔同じ衣装である。おそらく「闕史八代」(帝紀は存在するものの事績(旧辞)が記されていない8代の天皇は架空のものとする説)を採用しているのだろう。女性天皇は10人(1人で2回やった人もいる)いるが、うち8人が6世紀から8世紀の飛鳥・白鳳・奈良時代に集中し、天皇16人中8人、すなわち5割が女性である。女系天皇は珍しくなかったということだ。百武源吾・元海軍大将の筆による教育勅語も展示されていた。境内では教育勅語やその口語訳のパンフも配布されていた。
帰りに授与所をのぞいてみた。お守り(300円~1000円)、絵馬500円、千歳飴などはどこの神社にもあるが、教育勅語(額入り5000円、筒入り700円)、国旗セット(1.5mの竿つき 1500円)、五箇条の御誓文硯屏2000円などはこの神社の特色をよく表している。買っている人はあまりみかけなかった。
原宿の町には、日の丸が翻っていた。来年は「天皇陛下御即位20年奉祝」の年で、11月には大々的な記念行事が開催される。すでに奉祝映画「平成のご巡幸」の上映が各地で始まっている。
明治神宮宝物殿
住 所:東京都渋谷区代々木神園町1-1
電 話:03-3379-5875
開館日:土・日・祝日(その他、春秋大祭期間など特別の日)
開館時間:9時~16時30分(ただし11月~2月は16時閉館)
入場料: 一般500円、大学・高校生200円、中学生以下無料