3月12日には「退位及びその期日奉告の儀」や伊勢や橿原への「勅使発遣の儀」が行われるなど、代替わりの神事や儀式が着々と進行している。
すでに1か月ほど前のことだが、2月16日(土)午後、文京区民センターで即位大嘗祭違憲訴訟の会の「提訴報告会」が開催された。参加者は60人以上で、全国の原告241人という人数を考えるとかなりの参加率だった。
昨年12月10日東京地裁提訴後、まず12月に国賠訴訟と差止訴訟の2つに分離することを地裁が決定し、年が明け差止訴訟の部分について、一度の口頭弁論も開かないまま、2月5日に訴えの却下が通知された。異例の却下である。
これらの経過報告と裁判所への抗議、2月25日の第1回口頭弁論に向けた集会となった。
呼びかけ人の佐野通夫さん(大学教員・教育学/本会呼びかけ人代表)から、「行政裁判であっても、民事訴訟なのだから本来は当事者が互いに自分の言い分を法廷で述べ、それを主権者の代表である裁判所が判断すべきなのに、当事者の弁論も聞かず分離したり、却下するのは不当だ」という抗議をまず表明した。そして下記のスピーチを行った。
厳しい状況のなかでの闘い
われわれの訴えは異常なかたちで始まっている。2年前の8月、すべてのテレビ局が同じ時刻に、天皇の同じビデオ・メッセージをいっせいに流す、非常に恐ろしい事態が起こった。天皇の公務など存在しえないはずなのにそんなことを理由に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が国会を全会一致で通ってしまうという恐ろしい状況にある。
日本国憲法で天皇は国民の象徴ということになっている。かつて上野動物園でおサル電車の運転を初めは本物のサルがやっていたようだ、しかし運行上危険なこともあったので、人間が運転しサルは横に座ることになった。
天皇が象徴というのも本来そういうことで、勝手なことをしてよいわけではない。にもかかわらず今回の代替わりは、象徴なのに本来許してはいけないことから始まった。そして天皇は世襲である。ということは、死んだときに次の人が天皇になる。30年前、裕仁が死んだとき自動的に明仁になった。行事を行う必要は何もない。確かに即位礼は皇室典範(24条)に定めがあるが、カネをかけて大嘗祭を挙行するようなことは、前述の象徴としての行為と同様あってはならない。実際、前回の裁判で大阪高裁は違憲の疑いがあると明確に述べた。
しかもいまは大日本帝国憲法時代と同じ「美しい国」を唱えるアベ政権という恐ろしい政権なので、司法も前回と同じようなことをやろうとしている。
皇族は公務員として生きていて、元は税金の内廷費により、多くの国家公務員を使って暮らしている。そんなことを許してはいけない。本来それを裁くのが三権分立の裁判所なのにもかかわらず、こんなことを裁判所が預かるのはまずいと、すぐ却下してしまう。
そんな厳しい状況下でわれわれは闘いを組んでいかなければならない。原告のみなさんといっしょに闘っていきたい。
この訴訟の現況と見通し 酒田芳人弁護士
●提訴後の経緯
昨年12月10日東京地裁民事部に提訴した。提訴内容は、即位の礼・大嘗祭等の差止と、即位の礼・大嘗祭等に国費を支出することに関する国賠訴訟を併せたもので、民事10部に係属した。10部の担当は一般事件を取り扱う一般部である。通常はその後、事務的な連絡があるのだが、10日ほど後かかってきた電話は「差止訴訟に関しては分離されたのでお知らせする」というものだった。10部には裁判官が3人いるがその判断で、差止部分は行政裁判として行政裁判を扱う38部に係属することになった。こちらは一体として裁判を進める方針をもっていた。行政部で一般事件を扱うことはできるので、38部で併合審議してもらいたいと1月15日に申立書を提出した。
併合についての返事は通常1週間くらいでくるのになかなかこず、2月5日に民事38部から「本日、却下の判決を下した」という連絡が届いた。
一方、国賠訴訟は予定通り第1回口頭弁論が2月25日行われる。
●差止訴訟に対する却下判決
却下の根拠条文は民事訴訟法140条(口頭弁論を経ない訴えの却下)である。
却下と棄却とはそもそも違う。却下は、原告になる資格がないのに提訴するなど、中身の話をする前に形式的なところで門前払いにするものだ。棄却は、中身の話を聞いたうえ、言い分は認められないというものだ。集団訴訟の多くは言い分を聞き、1-2年口頭弁論を続けたうえで当事者としてふさわしくないので却下するというのが普通だ。30年前の代替わり裁判も数年の審議を経て却下となった。今回はまれな取扱いをされた。東京地裁は、差止訴訟に対し、意識的に国賠訴訟から分離し差止訴訟を却下し裁判を終結させようと判断したと考えられる。
●2月25日からの国賠訴訟について
争点は二つある。ひとつは政教分離違反で、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と国が主体となる宗教的活動の禁止で、89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため(略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」とカネの面で特定の宗教に支出することを禁止している。これに基づき、即位の礼、大嘗祭の宗教的な側面に着目し憲法違反を主張している。
もうひとつは国民主権原理違反である。そもそもだれがこの国の中心であるべきかと憲法が規定する基本的枠組みに、天皇のための即位の礼・大嘗祭の開催が反するのではないかという主張だ。根拠は憲法前文の初めのほうにある「ここに主権が国民に存する」「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く」で明確だし、11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」は、国民がなにより大事だということだ。それが天皇を中心に戴き、即位の礼・大嘗祭を国が全面的にバックアップして行うことがはたして国民主権原理の関係でふさわしいやり方か、というものだ。この点は大阪高裁判決でも言及された。
国がこの主張を認めるかどうかという点で、ハードルは二つある。大きいのは権利侵害の有無だ。仮に違反していたとしても、皆さんに具体的な損害はない。だから賠償請求は認められないというものだ。裁判所が原告敗訴にするスタンダードな言い方だ。もっとひどいのは憲法判断回避原則だ。憲法違反かどうかにはまったく触れず(つまり裁判所はなにもいわず)、とりあえず皆さまに慰謝料は発生する状況はなにもないのだから、請求は棄却するという判決だ。
重要なのは、即位の礼・大嘗祭の実施が憲法違反であることを、法律面、憲法の議論として裁判所に認めてもらいたいということだ。そのためにどうすればよいか、弁護団だけでなく皆さまの意見も伺いたい。また裁判所でこういうことをぜひ訴えたいということも伺いたい。
●今後の見通し
差止訴訟については、東京高裁に2月20日に控訴する予定にしている。訴えは不適法ではないから一審に差し戻し審議を求めるという内容だ。今回、30年前の訴訟同様、納税者訴訟の枠組みをとっている。それが行政事件の類型に定めがないという点で法律にないことは確かなので、そこをきちんと説明する。
国賠訴訟は、2月25日の第1回口頭弁論のあと、第2回はおそらく2-3か月後に行われることになるだろう。
(2月25日の口頭弁論で5月8日(水)に決定)
また弁護団の木村庸五弁護士から、裁判所の姿勢、体質について下記の補足説明があった。
政教分離に関し、裁判所はさすがに合憲とはいえない。そこで門前払いするのが基本的姿勢である。裁判所は、敗戦後のパージもなく戦前から同じ体制が続き、民主的基盤がない。とくにトップのほうはその流れを汲む。元・最高裁長官が日本会議会長になったりした。良心的裁判官も政府見解を覆すような一歩を踏み出すことができない。思い切った判決を出すと遠隔地に左遷される雰囲気がある。
東京地裁の行政部に来る裁判官は最高裁の意向を汲んだ裁判官が多い。しかし第1回口頭弁論もなしに却下するとまでは思わなかった。とくに悪質な動きだと考える。
もうひとつ最近気になることとして、一部のマスコミの報道がこの訴訟を「一部宗教者の訴訟」と報道していることがある。これはまったくの誤解だ。政教分離や信教の自由の問題の本質は国家と国民の関係の中心になるものである。国家が国民の内面に入り込んでくるのは、思想良心の自由の問題に関わる。だからここで譲ると思想良心の自由は侵され、集会結社の自由にも侵入してくる。そしてさまざまな面で国家が国民をかなり強く支配してくる。宗教をもつ人もそうでない人も国民全体にかかわる。こういう問題につながることをマスコミにもよく理解してもらい、自分たちに関係ない、一部の宗教者の問題ということを国民に刷り込まないよう働きかけていく必要がある。
天皇制の機能としての3つの装置
呼びかけ人の一人、鵜飼哲さん(フランス文学、思想研究)の、天皇制が機能として果たしている3つの装置という説明が興味深かったので、少し詳しく紹介する。
天皇制は一つのメカニズムで、3つの装置から成り立つ。ひとつは思考停止装置だ。この国には天皇がいて問答無用で多くのことが行われてしまう。この国ではそれが小さいころにいろんな回路で刷り込まれ、「この国では問題にしてはいけないことがある」ことが心の根底に持ち込まれてしまう。教育以前に行われ、教育というよりむしろ調教に近い装置として働いている。天皇一家になぜ膨大な税金が支払われているのか、国に問おうとすると門前払いを食らう。このように思考停止装置として天皇制がある。
二番目に、天皇制は忘却装置である。一言でいえば、災害も多く、歴史のなかで大変なできごとが継起してきたこの国に住みながら、天皇がいるというだけで、あらゆる苦しいことが相対化されてしまうようにこの国はできている。一例として、立川の昭和記念公園がある。あの公園があるのは、米軍立川基地に反対して砂川町の農民が闘ったからだ。本当は砂川住民公園という名でいいはずだ。ところが「昭和」という名が課されてしまい、民間施設だが昭和天皇記念館があり、いまこの公園を訪れる人は、あたかも戦前と同じように井の頭公園や上野公園が恩賜公園といわれたのとよく似た印象を現在も持ち続けている。このようにして日本の民衆が何を勝ち取ってきたかということが、次の世代に伝わらないようにされている。このようなことが至るところにあるのではないか。
三番目に排除の装置として働いている。いまの憲法で国民を規定すると、憲法1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と10条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」がある。昨年102歳で亡くなった日高六郎さんの最後の著書「わたしの憲法体験」のなかで、憲法の成立過程で憲法10条がいかに旧憲法18条の引き写しであったか、これを防衛するため官僚がどれだけ必死になったかがていねいに想起されている。逆にいうと象徴が天皇でありえないような人びとはあらかじめ日本国民の枠組みから排除されていく、その点で憲法前文と憲法本体のなかにもズレがあるのではないかと考える。天皇制は植民地をもっていた戦前もそうだったし、現在もまた非常に深いところで排除の装置として機能している。
この三重の装置によって形成されてきているこの国の、けして自然ではないメンタリティのようなものを、かつて竹内好氏は「この国では一木一草まで天皇制が宿る」という言い方をした。しかし「一木一草的な考え方」はちょっとまずいと思う。今回の即位の礼・大嘗祭というと、批判派もなぜか、いまの天皇夫妻をイメージして議論してしまいがちだ。あちら側も、代替わり、あるいは時代が変わるたびに、新しい条件のなかに適合した新たな天皇制のシステムを構築しようと、それなりに必死だ。次の代に変わり、あちら側は新たな体制をどう構築していくかというところに議論を持ち込まないといけない。できる限り広く議論される必要があるし、わたしたちはそのためにいま闘おうとしている。
だからこそその入口のところで議論させないようにしている。今回の取扱いは非常に例外的なものだ。まず分離をし、是が非でも口頭弁論を経ない却下というかたちを目的意識的に追求したのではないだろうか。それは逆にいえば、これから天皇制についてわれわれのような一般の人民・民衆が自由に意見を交わし、公の場で議論する時代が来ることをたいへん恐れているからだと感じられる。だからわれわれの訴訟は一見地味で細やかに思われているが、非常に大事な試みだと思っている。共にがんばろう。
「万世一系の天皇」という思想の教化
桜井大子さん(女性と天皇制研究会)は「万世一系の天皇」という思想と、天皇制に組み込まれた産む性・女性の役割に着目した。
代替わりの目的のひとつは「万世一系」という思想をわたしたちに伝えることだ。いまも宮内庁のHPには天皇系図が出ていて、それも神武、綏靖から始まっている。いま125代だが、代替わりとはもう一代天皇系図が増えることだ。天皇の価値は、古代から連綿と続いていることだとされる。この代替わり期間は、天皇が神の末裔であり、古代から王族であったことが「ありがたい」、日本の文化や伝統だと思う人びとを増やしていく時間帯として、つくられ、消費されていると思う。
天皇は「神」だが、女性が産む。憲法2条で天皇は世襲制と定められ、皇室典範1条で男系男子と定められているので、女性が男子を生まない限り代替わりはできない。女性の体は男子を生む性ということが憲法1-8条に組み込まれていることの問題性を、この裁判でも表出させていきたい。
石川逸子さん(詩人)は「『天皇陛下万歳』、二度と聞きたくなかった言葉。1990年11月12日その言葉を聞きあっけにとられた。現天皇の即位式で海部首相が、はるか高御座に座る天皇を仰ぎ見『天皇陛下万歳』と三唱した」で始まる詩を読み上げた。
その他、この日参加した呼びかけ人で、小倉利丸さん(元大学教員・現代社会論)、星出卓也さん(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)、辻子実さん(靖国参拝違憲訴訟の会・東京)、関千枝子さん(ジャーナリスト)の4人のスピーチ、北海道、関西、沖縄など遠隔地から参加された方のスピーチがあった。
関西の方は、前回の国賠訴訟を担った方で、「前回は、昭和天皇の下血騒ぎで、歌舞音曲は自粛、テキやは自殺する、お祭りも中止と異様な雰囲気が生まれ、日常生活であれにはウンザリと原告になった人も多かった。署名感覚で委任状が集まり、原告が1700人に達した。今回は全然違う。「アベより天皇のほうがまし」という人や、労組へ行っても「反天皇制を打ち出すと人が寄りつかない」といわれることがある。前回は、天皇制の被害の話で「これは天皇教の強制的な布教ではないか。地下鉄のなかで逃げ場がないまま、無理に広告を見せられているようなものだ」という議論もあった」というエピソードの紹介があった。
会場からのフリートークでは、日本人と天皇制の問題、現行憲法の天皇条項の問題、原告は原告の立場で自由に意見陳述をしようとの提案、代替わりにこんなに税金をつかってよいのかと一般の人にアピールする、など活発に意見・提案が出され、最後に呼びかけ人の佐野さんから「裁判のなかで、いろんな観点から天皇制の問題を明らかにできるとよい」とのまとめで会を閉じた。
国賠訴訟の第1回口頭弁論は2月25日(月)に行われ、呼びかけ人の佐野さん、キリスト教徒のHさんの意見陳述と、弁護団の2人から陳述があった。弁護団から裁判所に対し、きちんと憲法判断をするようにとの強い要請だった。第2回口頭弁論は5月8日(水)14時半から東京地裁103号法廷で行われる(20分ほど前に抽選がある予定)。
今後も代替わりの儀式は目白押しに並び、166億円もの予算が計上されている。宮廷費であれ、内廷費であれ、出所が国民の税金であることに変わりはない。
すでに1か月ほど前のことだが、2月16日(土)午後、文京区民センターで即位大嘗祭違憲訴訟の会の「提訴報告会」が開催された。参加者は60人以上で、全国の原告241人という人数を考えるとかなりの参加率だった。
昨年12月10日東京地裁提訴後、まず12月に国賠訴訟と差止訴訟の2つに分離することを地裁が決定し、年が明け差止訴訟の部分について、一度の口頭弁論も開かないまま、2月5日に訴えの却下が通知された。異例の却下である。
これらの経過報告と裁判所への抗議、2月25日の第1回口頭弁論に向けた集会となった。
呼びかけ人の佐野通夫さん(大学教員・教育学/本会呼びかけ人代表)から、「行政裁判であっても、民事訴訟なのだから本来は当事者が互いに自分の言い分を法廷で述べ、それを主権者の代表である裁判所が判断すべきなのに、当事者の弁論も聞かず分離したり、却下するのは不当だ」という抗議をまず表明した。そして下記のスピーチを行った。
厳しい状況のなかでの闘い
われわれの訴えは異常なかたちで始まっている。2年前の8月、すべてのテレビ局が同じ時刻に、天皇の同じビデオ・メッセージをいっせいに流す、非常に恐ろしい事態が起こった。天皇の公務など存在しえないはずなのにそんなことを理由に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が国会を全会一致で通ってしまうという恐ろしい状況にある。
日本国憲法で天皇は国民の象徴ということになっている。かつて上野動物園でおサル電車の運転を初めは本物のサルがやっていたようだ、しかし運行上危険なこともあったので、人間が運転しサルは横に座ることになった。
天皇が象徴というのも本来そういうことで、勝手なことをしてよいわけではない。にもかかわらず今回の代替わりは、象徴なのに本来許してはいけないことから始まった。そして天皇は世襲である。ということは、死んだときに次の人が天皇になる。30年前、裕仁が死んだとき自動的に明仁になった。行事を行う必要は何もない。確かに即位礼は皇室典範(24条)に定めがあるが、カネをかけて大嘗祭を挙行するようなことは、前述の象徴としての行為と同様あってはならない。実際、前回の裁判で大阪高裁は違憲の疑いがあると明確に述べた。
しかもいまは大日本帝国憲法時代と同じ「美しい国」を唱えるアベ政権という恐ろしい政権なので、司法も前回と同じようなことをやろうとしている。
皇族は公務員として生きていて、元は税金の内廷費により、多くの国家公務員を使って暮らしている。そんなことを許してはいけない。本来それを裁くのが三権分立の裁判所なのにもかかわらず、こんなことを裁判所が預かるのはまずいと、すぐ却下してしまう。
そんな厳しい状況下でわれわれは闘いを組んでいかなければならない。原告のみなさんといっしょに闘っていきたい。
この訴訟の現況と見通し 酒田芳人弁護士
●提訴後の経緯
昨年12月10日東京地裁民事部に提訴した。提訴内容は、即位の礼・大嘗祭等の差止と、即位の礼・大嘗祭等に国費を支出することに関する国賠訴訟を併せたもので、民事10部に係属した。10部の担当は一般事件を取り扱う一般部である。通常はその後、事務的な連絡があるのだが、10日ほど後かかってきた電話は「差止訴訟に関しては分離されたのでお知らせする」というものだった。10部には裁判官が3人いるがその判断で、差止部分は行政裁判として行政裁判を扱う38部に係属することになった。こちらは一体として裁判を進める方針をもっていた。行政部で一般事件を扱うことはできるので、38部で併合審議してもらいたいと1月15日に申立書を提出した。
併合についての返事は通常1週間くらいでくるのになかなかこず、2月5日に民事38部から「本日、却下の判決を下した」という連絡が届いた。
一方、国賠訴訟は予定通り第1回口頭弁論が2月25日行われる。
●差止訴訟に対する却下判決
却下の根拠条文は民事訴訟法140条(口頭弁論を経ない訴えの却下)である。
却下と棄却とはそもそも違う。却下は、原告になる資格がないのに提訴するなど、中身の話をする前に形式的なところで門前払いにするものだ。棄却は、中身の話を聞いたうえ、言い分は認められないというものだ。集団訴訟の多くは言い分を聞き、1-2年口頭弁論を続けたうえで当事者としてふさわしくないので却下するというのが普通だ。30年前の代替わり裁判も数年の審議を経て却下となった。今回はまれな取扱いをされた。東京地裁は、差止訴訟に対し、意識的に国賠訴訟から分離し差止訴訟を却下し裁判を終結させようと判断したと考えられる。
●2月25日からの国賠訴訟について
争点は二つある。ひとつは政教分離違反で、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と国が主体となる宗教的活動の禁止で、89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため(略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」とカネの面で特定の宗教に支出することを禁止している。これに基づき、即位の礼、大嘗祭の宗教的な側面に着目し憲法違反を主張している。
もうひとつは国民主権原理違反である。そもそもだれがこの国の中心であるべきかと憲法が規定する基本的枠組みに、天皇のための即位の礼・大嘗祭の開催が反するのではないかという主張だ。根拠は憲法前文の初めのほうにある「ここに主権が国民に存する」「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く」で明確だし、11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」は、国民がなにより大事だということだ。それが天皇を中心に戴き、即位の礼・大嘗祭を国が全面的にバックアップして行うことがはたして国民主権原理の関係でふさわしいやり方か、というものだ。この点は大阪高裁判決でも言及された。
国がこの主張を認めるかどうかという点で、ハードルは二つある。大きいのは権利侵害の有無だ。仮に違反していたとしても、皆さんに具体的な損害はない。だから賠償請求は認められないというものだ。裁判所が原告敗訴にするスタンダードな言い方だ。もっとひどいのは憲法判断回避原則だ。憲法違反かどうかにはまったく触れず(つまり裁判所はなにもいわず)、とりあえず皆さまに慰謝料は発生する状況はなにもないのだから、請求は棄却するという判決だ。
重要なのは、即位の礼・大嘗祭の実施が憲法違反であることを、法律面、憲法の議論として裁判所に認めてもらいたいということだ。そのためにどうすればよいか、弁護団だけでなく皆さまの意見も伺いたい。また裁判所でこういうことをぜひ訴えたいということも伺いたい。
●今後の見通し
差止訴訟については、東京高裁に2月20日に控訴する予定にしている。訴えは不適法ではないから一審に差し戻し審議を求めるという内容だ。今回、30年前の訴訟同様、納税者訴訟の枠組みをとっている。それが行政事件の類型に定めがないという点で法律にないことは確かなので、そこをきちんと説明する。
国賠訴訟は、2月25日の第1回口頭弁論のあと、第2回はおそらく2-3か月後に行われることになるだろう。
(2月25日の口頭弁論で5月8日(水)に決定)
また弁護団の木村庸五弁護士から、裁判所の姿勢、体質について下記の補足説明があった。
政教分離に関し、裁判所はさすがに合憲とはいえない。そこで門前払いするのが基本的姿勢である。裁判所は、敗戦後のパージもなく戦前から同じ体制が続き、民主的基盤がない。とくにトップのほうはその流れを汲む。元・最高裁長官が日本会議会長になったりした。良心的裁判官も政府見解を覆すような一歩を踏み出すことができない。思い切った判決を出すと遠隔地に左遷される雰囲気がある。
東京地裁の行政部に来る裁判官は最高裁の意向を汲んだ裁判官が多い。しかし第1回口頭弁論もなしに却下するとまでは思わなかった。とくに悪質な動きだと考える。
もうひとつ最近気になることとして、一部のマスコミの報道がこの訴訟を「一部宗教者の訴訟」と報道していることがある。これはまったくの誤解だ。政教分離や信教の自由の問題の本質は国家と国民の関係の中心になるものである。国家が国民の内面に入り込んでくるのは、思想良心の自由の問題に関わる。だからここで譲ると思想良心の自由は侵され、集会結社の自由にも侵入してくる。そしてさまざまな面で国家が国民をかなり強く支配してくる。宗教をもつ人もそうでない人も国民全体にかかわる。こういう問題につながることをマスコミにもよく理解してもらい、自分たちに関係ない、一部の宗教者の問題ということを国民に刷り込まないよう働きかけていく必要がある。
天皇制の機能としての3つの装置
呼びかけ人の一人、鵜飼哲さん(フランス文学、思想研究)の、天皇制が機能として果たしている3つの装置という説明が興味深かったので、少し詳しく紹介する。
天皇制は一つのメカニズムで、3つの装置から成り立つ。ひとつは思考停止装置だ。この国には天皇がいて問答無用で多くのことが行われてしまう。この国ではそれが小さいころにいろんな回路で刷り込まれ、「この国では問題にしてはいけないことがある」ことが心の根底に持ち込まれてしまう。教育以前に行われ、教育というよりむしろ調教に近い装置として働いている。天皇一家になぜ膨大な税金が支払われているのか、国に問おうとすると門前払いを食らう。このように思考停止装置として天皇制がある。
二番目に、天皇制は忘却装置である。一言でいえば、災害も多く、歴史のなかで大変なできごとが継起してきたこの国に住みながら、天皇がいるというだけで、あらゆる苦しいことが相対化されてしまうようにこの国はできている。一例として、立川の昭和記念公園がある。あの公園があるのは、米軍立川基地に反対して砂川町の農民が闘ったからだ。本当は砂川住民公園という名でいいはずだ。ところが「昭和」という名が課されてしまい、民間施設だが昭和天皇記念館があり、いまこの公園を訪れる人は、あたかも戦前と同じように井の頭公園や上野公園が恩賜公園といわれたのとよく似た印象を現在も持ち続けている。このようにして日本の民衆が何を勝ち取ってきたかということが、次の世代に伝わらないようにされている。このようなことが至るところにあるのではないか。
三番目に排除の装置として働いている。いまの憲法で国民を規定すると、憲法1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と10条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」がある。昨年102歳で亡くなった日高六郎さんの最後の著書「わたしの憲法体験」のなかで、憲法の成立過程で憲法10条がいかに旧憲法18条の引き写しであったか、これを防衛するため官僚がどれだけ必死になったかがていねいに想起されている。逆にいうと象徴が天皇でありえないような人びとはあらかじめ日本国民の枠組みから排除されていく、その点で憲法前文と憲法本体のなかにもズレがあるのではないかと考える。天皇制は植民地をもっていた戦前もそうだったし、現在もまた非常に深いところで排除の装置として機能している。
この三重の装置によって形成されてきているこの国の、けして自然ではないメンタリティのようなものを、かつて竹内好氏は「この国では一木一草まで天皇制が宿る」という言い方をした。しかし「一木一草的な考え方」はちょっとまずいと思う。今回の即位の礼・大嘗祭というと、批判派もなぜか、いまの天皇夫妻をイメージして議論してしまいがちだ。あちら側も、代替わり、あるいは時代が変わるたびに、新しい条件のなかに適合した新たな天皇制のシステムを構築しようと、それなりに必死だ。次の代に変わり、あちら側は新たな体制をどう構築していくかというところに議論を持ち込まないといけない。できる限り広く議論される必要があるし、わたしたちはそのためにいま闘おうとしている。
だからこそその入口のところで議論させないようにしている。今回の取扱いは非常に例外的なものだ。まず分離をし、是が非でも口頭弁論を経ない却下というかたちを目的意識的に追求したのではないだろうか。それは逆にいえば、これから天皇制についてわれわれのような一般の人民・民衆が自由に意見を交わし、公の場で議論する時代が来ることをたいへん恐れているからだと感じられる。だからわれわれの訴訟は一見地味で細やかに思われているが、非常に大事な試みだと思っている。共にがんばろう。
「万世一系の天皇」という思想の教化
桜井大子さん(女性と天皇制研究会)は「万世一系の天皇」という思想と、天皇制に組み込まれた産む性・女性の役割に着目した。
代替わりの目的のひとつは「万世一系」という思想をわたしたちに伝えることだ。いまも宮内庁のHPには天皇系図が出ていて、それも神武、綏靖から始まっている。いま125代だが、代替わりとはもう一代天皇系図が増えることだ。天皇の価値は、古代から連綿と続いていることだとされる。この代替わり期間は、天皇が神の末裔であり、古代から王族であったことが「ありがたい」、日本の文化や伝統だと思う人びとを増やしていく時間帯として、つくられ、消費されていると思う。
天皇は「神」だが、女性が産む。憲法2条で天皇は世襲制と定められ、皇室典範1条で男系男子と定められているので、女性が男子を生まない限り代替わりはできない。女性の体は男子を生む性ということが憲法1-8条に組み込まれていることの問題性を、この裁判でも表出させていきたい。
石川逸子さん(詩人)は「『天皇陛下万歳』、二度と聞きたくなかった言葉。1990年11月12日その言葉を聞きあっけにとられた。現天皇の即位式で海部首相が、はるか高御座に座る天皇を仰ぎ見『天皇陛下万歳』と三唱した」で始まる詩を読み上げた。
その他、この日参加した呼びかけ人で、小倉利丸さん(元大学教員・現代社会論)、星出卓也さん(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)、辻子実さん(靖国参拝違憲訴訟の会・東京)、関千枝子さん(ジャーナリスト)の4人のスピーチ、北海道、関西、沖縄など遠隔地から参加された方のスピーチがあった。
関西の方は、前回の国賠訴訟を担った方で、「前回は、昭和天皇の下血騒ぎで、歌舞音曲は自粛、テキやは自殺する、お祭りも中止と異様な雰囲気が生まれ、日常生活であれにはウンザリと原告になった人も多かった。署名感覚で委任状が集まり、原告が1700人に達した。今回は全然違う。「アベより天皇のほうがまし」という人や、労組へ行っても「反天皇制を打ち出すと人が寄りつかない」といわれることがある。前回は、天皇制の被害の話で「これは天皇教の強制的な布教ではないか。地下鉄のなかで逃げ場がないまま、無理に広告を見せられているようなものだ」という議論もあった」というエピソードの紹介があった。
会場からのフリートークでは、日本人と天皇制の問題、現行憲法の天皇条項の問題、原告は原告の立場で自由に意見陳述をしようとの提案、代替わりにこんなに税金をつかってよいのかと一般の人にアピールする、など活発に意見・提案が出され、最後に呼びかけ人の佐野さんから「裁判のなかで、いろんな観点から天皇制の問題を明らかにできるとよい」とのまとめで会を閉じた。
国賠訴訟の第1回口頭弁論は2月25日(月)に行われ、呼びかけ人の佐野さん、キリスト教徒のHさんの意見陳述と、弁護団の2人から陳述があった。弁護団から裁判所に対し、きちんと憲法判断をするようにとの強い要請だった。第2回口頭弁論は5月8日(水)14時半から東京地裁103号法廷で行われる(20分ほど前に抽選がある予定)。
今後も代替わりの儀式は目白押しに並び、166億円もの予算が計上されている。宮廷費であれ、内廷費であれ、出所が国民の税金であることに変わりはない。