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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

青年団の「ソウル市民」

2011年11月07日 | 観劇など
青年団ソウル市民5部作連続公演が10月末から始まった。
ソウル市民 昭和望郷編」(初演)をみたのは2006年12月で、劇場も今回と同じ吉祥寺シアターだった。「ソウル市民」というタイトルのイメージからそれまでなんとなく敬遠していたが、観てみるとダイニング・テーブルを囲んで静かな会話が続く、いつもの平田オリザの芝居で、しかも沈潜する差別意識というテーマがかいまみえる秀作だった。昭和望郷編は世界大恐慌直前の1929年の秋の午後のストーリーだったが、それより前の他の2作もみようと待っていたら、早くも5年もの時間がたっていた。

「ソウル市民」の舞台は、1909年明治末期の夏の夕方のソウルの文具店、篠崎商店のダイニング・テーブルである。「来年から朝鮮人も日本人になる」韓国併合の1年前、伊藤博文がハルビン駅頭で安重根に射殺(10月26日)された年である。漱石の「それから」が内地の新聞に連載中、スバルの啄木の歌が女学生に流行していた時代である。
主な登場人物は、篠崎家の主人と後妻、息子と2人の娘、叔父(主人の弟)、書生、4人の女中(2人は内地からきた日本人、2人は朝鮮人)。もともと客の多い家だが、この日は出版や印刷を営む近所の堀田夫婦が訪れた。次女の文通相手の男性が内地から訪ねてくるはずだったが、その代わりに書生の小学校時代のクラスメイトの手品師が来訪する。ところが便所にいって、カバンや靴を残したまま消えてしまう。叔父といっしょにロシアに行こうとする女性が突然家に現れたり、後妻の妊娠が判明したり、長男が書置きを残し朝鮮人女中と駆け落ちしたり、手品師の助手の女性が訪ねてきたり、いろんなできごとが次々に起こる。しかし演劇そのものは粛々と進む。家出した長男を駅まで探しに書生に行ってもらって、主人が夕食にワインを開けるところで幕になる。

篠崎家は1880年、つまり明治10年代に先代が釜山に店を出し、明治末期にミルクティを飲み英字新聞がある日本人家庭なので、かなり裕福な家である。平田オリザはアフタートークで「当時考えられうるもっともリベラルな家庭を想定した」と語った。
昭和望郷編には、京城帝大の1期生で朝鮮総督府に勤務する朝鮮人が出てくるが、この芝居には、篠崎商店の主人が名付け親になった「日本語のうまい朝鮮人」女中の淑子(としこ)が登場する。
主人は「朝鮮を金儲けの場所とだけ思ってもらったら困るんですよね」という信念で仕事をしている。おじいちゃん(先代)の時代から、朝鮮人の使用人を含め、みんなでお茶を飲む方針の家である。
そんな篠崎家でも「悪意なき市民たちの罪」が日常会話のなかにしばしば現れる。
「こっちは、ほら、競争がないでしょう、商売でもなんでも」「まぁ、朝鮮人相手じゃねぇ、たかが知れてますからね」
「朝鮮語っていうのは、あの音は、文学には向いていないと思うのよね」「こっちの人の言葉って、刺々しいですからね」
「そういう(人間はみんな同じという)前提に立てば、朝鮮人だって、立派に文学はできるはずなのよね」
「一緒の国になれば、文学だって、もうちょっと、どうにかなるでしょう」
こういう発言をする愛子(次女)は文学好きの淑子と仲がよい。しかし淑子はなにも言い返さない。しかし謙一(長男)に(朝鮮人の女中と)「二人の時は、朝鮮語話せば」と言われると、陰で「しんじらんない」「私たちの勝手じゃないねぇ」と文句をいう。

海外の植民地が舞台ということで、国際色豊かである。いうまでもないが、まず日本人と朝鮮人が出てくる。外地なので、長男は東京に修行に行くことになっているし、内地から日本人女中を呼ぶ話もある。手品師は中国との国境の義州まで旅回りをする予定になっている。淑子は「国境にあるペクトゥ山(白頭山)は大きな山で頂上に池がある」という話をする。ペクトゥ山は朝鮮発祥の地と信仰され、また金日成ら抗日パルチザンの根拠地となった。日本は1905年に京城から義州まで鉄道を通し、この鉄道はその後、満州の奉天までつながる安奉線と接続した。
叔父は満州に行くと言いながら、ほんとうはロシアに向かいペテルブルグで女性と落ち合う計画を立てている。そして日露戦争が終わって4年「また、ロシア人が増えてきましたよね」という会話もある。また「ロシアのうしろにアメリカがいるからねぇ」「どうも、私、アメリカって好きになれないのよねぇ」というかたちでアメリカも登場する。
イギリスやフランスの租界のある上海ならさらに国際色が強い芝居になっただろう。しかし大陸にある町と日本のような島国ではやはり違う。そういえば「冒険王」は東洋と西洋の境界都市イスタンブール、「眠れない夜なんてない」はマレーシアの長期滞在型リゾート地が舞台だった。

役者では、ベテランの志賀廣太郎(父親役)、山内健司(叔父)、足立誠(手品師)がてがたい演技をしていた。また日本人女中役兵藤久美、健気な朝鮮人女中役 福島史麻が好演していた。

公演のあと、平田オリザと中沢けい(作家)のアフタートークが30分ほど、観客の質疑応答が15分ほどあった。以下、いわゆるネタバレ多数なので注意! 
2/3くらいは中沢ケイの発言だったが、平田の発言のなかでこの芝居に関係するものを紹介する。
この芝居が書かれた1989年は、昭和天皇死去(1月)、天安門事件(6月)、ベルリンの壁崩壊(11月)と大きなできごとが相次いだ。80年代は冷戦下で、映画「人間の条件」のように悪い日本の軍人と財閥、そして虐げられた朝鮮人という図式がイデオロギーで凝り固まっていた。そういうものを変えないといけないと考え、植民地支配が人間関係をどう歪ませるかについて書いた。
手品師がどこに消えたのかは作者にもわからない。はじめに出てくる朝鮮人がタコを食べるかなどタコのエピソードは、いくつか張った伏線のひとつで、後半のストーリーにはつながらない。いわば麻雀の迷彩打ちという捨て牌の手法を応用した。ただ、朝鮮生まれの叔父であっても日本人は隔離した生活を送り朝鮮語を話せない人も多くいて、朝鮮人の生活を知らないことの象徴ということはいえる。
テーブルに向こう向きに座っている人の会話については、小津安二郎の映画の背中越しのシーンに影響を受けている。

☆この芝居には「裸になったとき、朝鮮人と日本人の見分けはつくか」というセリフも出てくる。ここまで来れば、アーリア民族の人種的優越を主張しユダヤ人や同じアーリアでも障害者をガス室に送ったヒトラーや、「人をみると、まず差別する」石原慎太郎の発想までひとっ飛びである。「不逞鮮人を東京湾にたたきこめ!」と街頭で絶叫する「在特会」の20代、30代の若者たちはこの芝居をみていったいどんな感想を抱くのだろうか。
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