多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

新宿・利佳 別名 新宿利佳大学

2007年06月13日 | 居酒屋・銭湯紹介
この店に初めて先輩に連れていっていただいたのは1991年秋のことなので、もう15年も前になる。
カウンター10席、小上がり3人の小さな店。基本的に料理は注文なしで次々に出てくる。
かつて、紀伊国屋の田辺茂一氏、文春の池島信平氏、東大の相良守峯先生、教育大の吉田精一先生、上野動物園の林寿郎さんらも贔屓にされていたらしい(もちろんわたくしが知らない時代の話)。先代ママ存命のころは夏季ゼミナールというイベントがあり、先日亡くなられた観世栄夫さんや上野動物公園の先生方の「丹頂鶴の二重唱」といった出し物もあった。客に大学の教員が多かったことから当時は「新宿利佳大学」とも呼ばれた。ママが学長、生徒会長が金子嗣郎先生(初代は相良守峯先生)だった。
この店は、客のだれとも自由に話してよいという暗黙のルールがあり、いろんな方のお話や漫談をお聞きした。故人に限定して挙げると、金子嗣郎先生(都立松沢病院)、廣西元信先生(通称マロ 松濤館)、徳川宗賢先生(国立国語研究所)、村上兵衛さん(評論家)らのお顔をなつかしく思い出す。

店はメトロビル3階にある。3軒酒場が並んでいる一番右の店
二代目ママの荒木かずほさんは東京芸術座の女優。かつてオムスク(ロシア)を中心に安部公房の「砂の女」の「女」を演じていたこともある。1970年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞した。
店のほうは、いまから8年前に引き継いだ(先代ママと縁戚関係はない)
店には劇団の創設者・村山知義が描いた「荒木かずほ像」(コピー)がある。この絵はママさんが20代のときのもの。村山知義の印象を聞くと、柔和な人だったという。わたくしは著作から「頑固で、偏屈な人ではないか」という印象を得ていたので意外な感じがした。村山の晩年、ペンを持てなくなったころにはテアトロに連載中の「演劇的自叙伝」の口述筆記を交代でやったそうだ。

価格は5000円前後。わたくしの行く店のなかでは高いほうだが、3月にコントをやったときには2回練習をみていただいたので、レッスン代も含めれば安いものだ。
住所 新宿区歌舞伎町1-23-14メトロビル3階
電話 03-3203-2681
月~金 18時~0時まで


☆『新宿「利佳」の二十年』(1978年12月文藝春秋事業出版)『新宿利佳の三十年』(1989年8月新潮社)がいずれも私家本として発刊されている。通販の古書販売で購入可能
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3 コメント

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すれ違いの日々 (増田春樹)
2009-04-02 23:02:41
 この店の名は友人から教わったので覚えている。彼の尊敬する時枝誠記先生が通われたお店であるからだ。場所は分からないが一度は言ってみたいと思っていたら何と私が言ったことがあるタイ料理の店『バンタイ』があるビルではないか。とは分かったものの未だ一度も行ってない。今住んでいるタイ国チェンマイからは随分遠い。でも今月末に帰国するから一度行って見ようかな。
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新宿・利佳 別名 新宿利佳大学 (多面F)
2009-04-03 23:04:59
投稿ありがとうございます。残念ながら利佳は、2008年9月30日49年の歴史に幕を閉じました。
 (2008年10月10日の記事を参照)
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20代のとき、通ってました。 (佐藤正隆)
2015-03-17 14:52:29
今から19年前、法政大学の学生でした。法政大学教授の須田忠彬教授(呑喜先生、呑喜さんと呼ばれてました)の紹介で御店に通うことになりました。友人の安藤広俊、横山智弘、鈴木信二と一緒によく行ってました。マダムの利佳さんのお別れ会も、1周忌にも伺うことが出来ました。御別れ会のときには僭越ながらマダムとの思いでを語りました。利佳さん所蔵の「利佳の20年」を利佳マダム最終営業日に利佳さんから頂きました。今でも大事にしております。
今は北海道網走におりますが、年に1回から2回は東京に来てゴールデン街の花の木に行っております。どこかの酒場でお会し、利佳の話を肴に御一緒出来れば幸いです。
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