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江戸橋と三菱倉庫の130年

2020年10月01日 | 博物館など
地下鉄日本橋の北東300m、日本橋川のほとりに三菱倉庫江戸橋歴史展示ギャラリーというミニミュージアムがある。6階までの外観は昭和初期のビルを復元し、三菱倉庫本店のある日本橋ダイヤビルディングの1階だ。
このギャラリーは、正面入口から見て右手に「江戸橋倉庫ビル 倉庫建築の進化形」という1931年竣工6階建ての倉庫ビルを中心にしたスペース、左手に「日本橋江戸橋のうつりかわり」という近辺の歴史と倉庫業の歴史を重ね合わせたスペースの2パートに分かれている。といっても前者が3×4m、後者が4×5mほどのスペースなので、ビルのエントランスを利用した小さなギャラリーという体裁だ。警備の方はいるものの受付の人もいないし、説明パンフもない。そのせいもあり、早朝7時半という企業博物館として異例に早い時間からオープンしているようだ。

「日本橋 江戸橋」のうつりかわり 手前にあるのは明治から現代まで4代の江戸橋倉庫の模型
わたくしは倉庫業のことはほとんど知らない。それで三菱倉庫の歴史と合わせて、業界全体の流れの概要を知ることができた。
江戸時代の(東京の)蔵屋敷は、財物の保管施設というより領地の産物を売りさばく販売機関だった。そういえば形こそ変わったが、いま日本橋や銀座周辺に各県のみやげもの、食品など特産品のアンテナショップが多くある。明治になり蔵屋敷は営業倉庫へ変身した。

1870(明治3)年、土佐の下級武士出身の岩崎弥太郎は大阪・長堀の土佐藩邸蔵屋敷を使用して海運業の三菱(当時の社名は九十九(つくも)商会)を創業した。71年の台湾出兵時の兵と食糧の軍事輸送、74年2月の佐賀の乱の軍事輸送で業容を拡大した。
74年4月三菱は東京・南茅場町に本社を移し進出した。76年内務省から江戸橋の土地と倉庫を賃借し、土蔵を含む建屋を利用し荷捌きを開始した。77年の西南戦争でも兵と物資の移動を引き受け「政商」への道を歩んだ。
80年郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から三菱為替店が独立し、倉庫証券取扱いを開始した。倉庫証券とは倉庫に入れた荷物の引換証のようなもので、換金することができ、手形と同じく裏書して流通させることもできた(1950年ごろがピークでいまはほとんど流通していない)

三菱の七ツ蔵(三代歌川広重 1883
同年、郵便汽船三菱会社が江戸橋に7棟の煉瓦づくりの倉庫を建てた。通称「七ツ蔵」と呼ばれる。
江戸橋は日本橋のひとつ東側(下流)にある橋だ。日本橋は商人、職人の多い商工業地区で魚市場もあった。物資の集散地だが、川岸は延焼防止のため土手がつくられ倉庫が建ち並んでいた。全国からの物産が船で湊(中央区)に運ばれ、艀(はしけ)などに積み替え日本橋川を遡り日本橋に届けられていた。
隅田川風物図巻の動画があり、日本橋川の新川(中央区)にある豊海橋から日銀のある一石橋までの絵が映されていたがたしかに川岸に倉庫が建ち並んでいた。
したがってこの辺りに倉庫を持つのはメリットが大きく、かつ三菱本社から200-300mのごく近い場所だった。
85年三菱郵便汽船が、三菱為替店(85年8月までに閉鎖)の倉敷業務も継承したうえで蔵預かり業を開始し、87年有限責任東京倉庫を設立した(のち1918(大正7)年3月三菱倉庫に商号変更)。設立当時、倉庫は小松町、富吉町、松賀町、一色町の4地区26棟(すべて三菱社からの賃借)だった。いずれも江東区の深川地区の南西側(現在の佐賀、永代、福住近辺)にあった。取扱い品目は、米、昆布、木材、メリヤス、機械、石灰肥料などだった。
90年には江戸橋三菱の荷蔵の一部を使い始め、91年に米や紡績糸の取り扱いを始めた。また1890年の商法施行で倉庫業は貨物保管業と倉庫賃貸業(不動産業)に区分することになった。
当時、海運業からはじめた三菱は、政府系の共同運輸と83-85年の3年間闘い続けた末、二社合併で日本郵船を設立した(1885発足)。その結果、祖業の海運業を手放したため、事業として鉱山(73年岡山県・吉岡銅山、74年長崎市・高島炭坑など)、造船(84年長崎造船所貸下げ)、銀行(85年第百十九銀行買収(のちの三菱銀行)など事業多角化せざるをえなかった。ただし、その後三菱出身の吉川泰次郎が社長に就任したころ(1894)から郵船は再び三菱系の色彩を濃くしていった。   
日本橋周辺では73年に第一国立銀行、78年東京株式取引所、82年日本銀行が設置され「金融の町」へと変化していった。
1904-05年の日露戦争のころから日本で重工業や貿易が発展し、いっぽう都市化が始まり消費人口が増え、都市型倉庫のニーズが生まれた。1906年東京倉庫は神戸の和田岬に鉄筋コンクリート2階建て1万平方メートルの大規模倉庫を設置した。日本橋では1904年日本初の百貨店三越(社名は三越呉服店)が開業した。

1923年の関東大震災で、魚河岸からの飛び火で江戸橋の荷蔵が焼失した。
そのため跡地に地下1階、地上6階の鉄筋コンクリートの堅牢な倉庫ビルを1929年6月に起工し30年12月に竣工した。江戸橋も、震災前は倉庫より少し東側(下流)にあったものが西側の新設された昭和通りに掛け換えられた。ビルの北東側がカーブしているのは、日本橋川と楓川に停泊した船から直接荷揚げするためだった。日本橋川に面する北側の屋上からは3基のホイップホイスト、楓川に面した建物東側には2本のテルファーが設置され、川から各階倉庫への荷揚げの強力な助っ人になり、昭和通りに面した西側には、2階から5階の倉庫各階から1階の放出口へスパイラルシュートという物流設備が設置され荷積みの効率化に資した。
31年1月21日に開催された竣工記念式の8分ほどの記録映画が流れていた。当時は社長は非常勤だったのか、三橋常務という人がトップでその下は取締役ではなく参事だった。来賓として俵商工大臣、町田農林大臣の姿もみえる。地下に貸倉庫とトランクルームがある。トランクルームはこの倉庫ビルの「売り」のひとつで、当時アメリカを視察して家具倉庫をみたのをヒントに、都市では市民の家財の安全保管のニーズがあると見込んだ新しい営業種目だった。またビルの付帯設備として、貸事務室、特別室、貴賓室、食堂や喫茶室などが出てきた。食堂は社員食堂などでなくホテルのレストランのようでスーツに蝶ネクタイのボーイが接遇していた。また和服生地などの商品陳列室も備え付けられていた。これは江戸時代の産物を売りさばく販売機関の名残なのだろうか。
支配人室、営業室、事務室の動画をみると、戦前のサラリーマン、たとえば「大人の見る繪本 生まれてはみたけれど(小津安二郎 1932)の父(斎藤達雄)と重役(坂本武)の姿をみるようだった。

当時のダイヤビルのパンフレットがあり、三菱倉庫の地図が掲載されていた。これをみるとこの近辺に常盤橋三菱倉庫、兜橋近くに越前堀三菱倉庫、永代橋近くの松賀町三菱倉庫、清洲橋近くの清住町三菱倉庫などずいぶん多くの三菱倉庫があったことがわかる。てっきり日本橋というと三井の本拠地三菱は丸の内という先入観をもっていたのだが、深川からは隅田川を隔てた対岸ということもあり、90年前の水上交通の時代にはそうではなかったのだ。
その後1935年には倉庫業法が公布され、倉庫証券は発行許可制となった。戦時体制に入り、倉庫業も他の業種と同様、国家統制で統合されていく。
1945年には焼夷弾90発以上の被災をしたが、幸い6階事務室の小火ですんだ。
昭和30年代にはモータリゼーションが進み、海上輸送からトラック輸送に変化する。トラックへの貨物の積み下ろしがしやすいよう、パレット/フォークリフト方式に荷役が代わり、倉庫の荷役作業も、安く安全に行えるよう効率的な棚保管に進化する。
コンテナによる一貫輸送のコンテナリゼーションが主流になり、海上輸送でもコンテナ船が就航し輸送革命を迎えた。ドア・ツー・ドア輸送のためコンテナ・ターミナルの需要が増え、品川や神戸の摩耶埠頭でオペレーション業務を行った。
日本橋も変わった。東京オリンピックで東京改造が行われ川筋が埋め立てられ水辺が消えていった。日本橋や江戸橋の上に首都高が走り、65年には楓川が埋め立てられ川が消滅した。隅田川べりにも、かつては水産会社などの倉庫が多くあったのに、バブル期に高層オフィルビルやタワーマンションに姿を変えた。
倉庫の立地も、大都市周辺や地方都市中心部だけでなく、内陸部へ広がった。62年愛知県小牧、63年大阪府茨木、64年埼玉県戸田に倉庫を新設した。
1970年にはダイヤビル全館がトランクルームになり、保管物は楽器、美術品、磁気テープ、文書などに変わっていった。
2014年には地下1階、地上18階の免振化した高層ビルに建て替えられ、一部にトランクルームが残ったものの主体は貸事務所になった。このビルには三菱倉庫本社以外に、日本旅行、東京海上日動あんしんコンサルティング、三井化学アグロ、野村證券、auじぶん銀行などが入居している(2020年現在)
しかし6階以下の外観は旧ビルのデザインを残した。鍛冶橋の三菱一号館もそうだが、こういう点は三菱グループは立派だと思う。
倉庫は、縁の下の力持ちのような存在だが、大正・昭和の水上交通が盛んな時代には川沿いの倉庫の役割がいまよりずっと大きく、また都市化とともに倉庫のニーズが歴史的に大きく変化したことを理解できた。
このギャラリーには、三菱の印入り法被、高さ3mほどの分厚い金庫の扉が1931年のビル建築時の位置のままで展示されている。

現在の江戸橋 首都高が上を走る。バックにみえるのが日本橋ダイヤビル。6階以下はかつての意匠のまま
 
三菱倉庫・江戸橋歴史展示ギャラリー
住所:東京都中央区日本橋1-19-1
電話:03-3278-6611
開館日:月~土曜日(祝日・年末年始などを除く)
開館時間:平日/7:30―19:30、土曜/7:30―13:30
入館料:無料

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