こ11月29日夜、紀伊国屋サザンシアターでこまつ座の「太鼓たたいて笛ふいて」(三演)をみた。
27歳のとき「放浪記」で一躍有名になり、戦時中は国民の戦意をあおり戦後は一転して反戦作家となった林芙美子の半生を描いたドラマである。
幕開きは1935年秋の朝、下落合の借家の茶の間。芙美子の母が徹夜で原稿を待つレコード会社社員に出くわす。芙美子(32歳)の「放浪記」が映画化され、美濃部達吉の天皇機関説が問題になった時代で、日中戦争勃発の2年前に当たる。ラストは16年後の1951年8月半ば昼少し前、芙美子の納骨を前にした林家自宅茶の間、芙美子を除く5人がいる。9月に対日講和条約と日米安保が調印された年だ。
登場人物は6人。芙美子(大竹しのぶ)と母・キク(梅沢昌代)、孤児院「ひとりじゃない園」を経営したものの貧苦の末に行き倒れ板橋貧養院に収容される島崎こま子(神野三鈴)、ポリドールの文芸部員からNHKの音楽部員、さらに内閣情報局音楽担当官に出世した三木孝(木場勝己)、キクの行商時代の弟子の時男(阿南健治)と四郎(山崎一)。時男は遠野で作男になり結婚しレイテ島へ出征した。四郎は大連で関東軍憲兵となりその後警視庁特高課刑事になる。登場人物の設定だけでもドラマが浮かび上がる。さすが井上ひさしのシナリオである。
芙美子は、三木が語る「戦さは儲かるという物語。戦さはお祭りであり、またとない楽しみごとでもある」という言葉に心をさらわれ、南京、漢口、ボルネオへ従軍記者として赴く。そしてラジオで「私は兵隊が好きだ。一つの運命が、一瞬の早さで、戦場の兵隊の上を、ひゅうひゅうと飛び交い、その生命、その生活、その生涯を、さんらんと砕いてゆく」(p112 以下ページ数は2002年11月新潮社発刊の戯曲本)と講演まで行う。
しかし45年3月には「こんどの戦さは総力戦、それが分かっていなかったあたな、そしてわたし、無知でしたね。無知な人間の妄想ほどおそろしいものはないわ」(p128)「太鼓たたいて笛ふいてお広目屋よろしくふれてまわっていた物語が、はっきりウソとわかったとき、・・・命を断つしかないと思った。わたしの笛や太鼓で踊らされた読者に申し訳がなくてね。(略)けれど死ぬのはやっぱり怖い」(p128)と思い至る。
戦後は、猛烈な勢いで小説を書く。戦争未亡人に夜の女、復員兵に戦災孤児。なぜワーカホリックのように書き続けるのか問われた芙美子は
「・・・責任なんか取れやしないと分かっているけど、他人の家へ上がりこんで自分の我ままを押し通そうとするのを太鼓でたたえたわたし、自分たちだけで世界の地図を勝手に塗り替えようとするのを笛で囃した林芙美子・・・、その笛と太鼓で未亡人が出た、復員兵が出た、戦災孤児が出た。だから書かなきゃならないの、この腕が折れるまで、この心臓が裂け切れるまで。その人たちの悔しさを、その人たちにせめてものお詫びをするために・・・。」(p149)「休んでいるひまはないんだわ。書かなくては、書かなくてはね。」(p173)と答え、51年6月心臓麻痺で急死する。享年47。
一幕はテンポが早く充実しているが、二幕(1945年以降)はちょっと尻切れトンボの感があった。7場の穂波村はまだよいのだが、8場安全ピンがちょっと弱い。初之輔のエピソードや四郎の悲劇の部分は演出を考えた方がよいのではないかと思った。
三演をみて、時男の遠野は「イーハトーボの劇列車」(1980)、四郎の大連は「円生と志ん生」(2005年)、三木のNHKは「私はだれでしょう」(2007年)とつながり展開されていることがわかった。
スタッフで特筆すべきは、服部基の照明である。プロローグの影ぼうし、4場「物語にほまれあれ」の放送局の黄色いボール電球、エピローグの白い骨箱が浮きあがるようなスポットライトは、すべて強い印象を残した。
4場の「ラジオ随筆・母を語る」6場の「ラジオ講演」、エピローグの「私の本棚」と3回ラジオ放送が流れるが、非常に効果的だった。また背景の原稿用紙のマス目も同様に効果を上げていた。
この芝居は音楽劇でもあり、2幕9場のあいだに11曲の歌が歌われる。うち5曲は序曲のように「場」の前に歌われる。観客席の最前列中央で朴勝哲のピアノが演奏される。ピアノは舞台上にあるのが自然だが、そのためには「きらめく星座」のような「おし」のピアニストというキャラクターをつくる必要があり、次に新国立劇場のオーケストラボックスのように、舞台下に楽団を配置する方法がある。紀伊国屋ではムリなのでこうなっている。ピアノの横と後ろの席の方にはちょっと気の毒だが、いいプランだと思う。
役者は6人とも好演。芙美子の威勢のよさ、慟哭、決意、大竹しのぶは着実に大女優への道を歩んでいる。はじめて大竹の舞台をみたのは94年12月の「虎―野田秀樹の国性爺合戦」 (日生劇場 )だった。そのときは映画やテレビではいいけれど舞台はまだまだと思った。しかし2002年7月の「太鼓たたいて笛ふいて」で立派な女優になったと驚いた。そして2007年9月の「ロマンス」では三田和代クラスに成長しつつあると思った。5年後、10年後が楽しみである。
梅沢昌代は1995年「父と暮らせば」(再演)ですっかり感動し、それ以来、井上ひさしの芝居で何度か見ている。ますます存在感が増している。神野三鈴も、芙美子と対極の役柄をしっかりこなしていた。2002年の初演のパンフに燐光群の「最後の一人までが全体である」のチラシがはさまっていた。この芝居は見ていないのだが後でシナリオを読んで感心した。見逃して惜しいことをした。木場勝己は、すまけいの域に達しつつあると思う。
☆林芙美子の旧宅は中井にあり、いま新宿区の記念館になっている。1941年8月、38歳のときに新築した数寄屋造りの家である。斜面に建つ家の庭はとても広く、生前は孟宗竹が一面に植えられていた。訪問した日はとても紅葉がきれいだった。仕事部屋の書斎は障子を通して光がいっぱいに入り庭の緑がきれいに見える。
林は1903年生まれで22年に上京、30年5月から落合近辺に住んでいる。一方、村山知義は1901年生まれで1921年から落合に住んでいる。西武新宿線は1922年に開通したので新宿線か新宿あたりですれ違っている可能性がある。ただ性格や生活がまったく異なるので、親しくなる可能性はあまり考えられない。
27歳のとき「放浪記」で一躍有名になり、戦時中は国民の戦意をあおり戦後は一転して反戦作家となった林芙美子の半生を描いたドラマである。
幕開きは1935年秋の朝、下落合の借家の茶の間。芙美子の母が徹夜で原稿を待つレコード会社社員に出くわす。芙美子(32歳)の「放浪記」が映画化され、美濃部達吉の天皇機関説が問題になった時代で、日中戦争勃発の2年前に当たる。ラストは16年後の1951年8月半ば昼少し前、芙美子の納骨を前にした林家自宅茶の間、芙美子を除く5人がいる。9月に対日講和条約と日米安保が調印された年だ。
登場人物は6人。芙美子(大竹しのぶ)と母・キク(梅沢昌代)、孤児院「ひとりじゃない園」を経営したものの貧苦の末に行き倒れ板橋貧養院に収容される島崎こま子(神野三鈴)、ポリドールの文芸部員からNHKの音楽部員、さらに内閣情報局音楽担当官に出世した三木孝(木場勝己)、キクの行商時代の弟子の時男(阿南健治)と四郎(山崎一)。時男は遠野で作男になり結婚しレイテ島へ出征した。四郎は大連で関東軍憲兵となりその後警視庁特高課刑事になる。登場人物の設定だけでもドラマが浮かび上がる。さすが井上ひさしのシナリオである。
芙美子は、三木が語る「戦さは儲かるという物語。戦さはお祭りであり、またとない楽しみごとでもある」という言葉に心をさらわれ、南京、漢口、ボルネオへ従軍記者として赴く。そしてラジオで「私は兵隊が好きだ。一つの運命が、一瞬の早さで、戦場の兵隊の上を、ひゅうひゅうと飛び交い、その生命、その生活、その生涯を、さんらんと砕いてゆく」(p112 以下ページ数は2002年11月新潮社発刊の戯曲本)と講演まで行う。
しかし45年3月には「こんどの戦さは総力戦、それが分かっていなかったあたな、そしてわたし、無知でしたね。無知な人間の妄想ほどおそろしいものはないわ」(p128)「太鼓たたいて笛ふいてお広目屋よろしくふれてまわっていた物語が、はっきりウソとわかったとき、・・・命を断つしかないと思った。わたしの笛や太鼓で踊らされた読者に申し訳がなくてね。(略)けれど死ぬのはやっぱり怖い」(p128)と思い至る。
戦後は、猛烈な勢いで小説を書く。戦争未亡人に夜の女、復員兵に戦災孤児。なぜワーカホリックのように書き続けるのか問われた芙美子は
「・・・責任なんか取れやしないと分かっているけど、他人の家へ上がりこんで自分の我ままを押し通そうとするのを太鼓でたたえたわたし、自分たちだけで世界の地図を勝手に塗り替えようとするのを笛で囃した林芙美子・・・、その笛と太鼓で未亡人が出た、復員兵が出た、戦災孤児が出た。だから書かなきゃならないの、この腕が折れるまで、この心臓が裂け切れるまで。その人たちの悔しさを、その人たちにせめてものお詫びをするために・・・。」(p149)「休んでいるひまはないんだわ。書かなくては、書かなくてはね。」(p173)と答え、51年6月心臓麻痺で急死する。享年47。
一幕はテンポが早く充実しているが、二幕(1945年以降)はちょっと尻切れトンボの感があった。7場の穂波村はまだよいのだが、8場安全ピンがちょっと弱い。初之輔のエピソードや四郎の悲劇の部分は演出を考えた方がよいのではないかと思った。
三演をみて、時男の遠野は「イーハトーボの劇列車」(1980)、四郎の大連は「円生と志ん生」(2005年)、三木のNHKは「私はだれでしょう」(2007年)とつながり展開されていることがわかった。
スタッフで特筆すべきは、服部基の照明である。プロローグの影ぼうし、4場「物語にほまれあれ」の放送局の黄色いボール電球、エピローグの白い骨箱が浮きあがるようなスポットライトは、すべて強い印象を残した。
4場の「ラジオ随筆・母を語る」6場の「ラジオ講演」、エピローグの「私の本棚」と3回ラジオ放送が流れるが、非常に効果的だった。また背景の原稿用紙のマス目も同様に効果を上げていた。
この芝居は音楽劇でもあり、2幕9場のあいだに11曲の歌が歌われる。うち5曲は序曲のように「場」の前に歌われる。観客席の最前列中央で朴勝哲のピアノが演奏される。ピアノは舞台上にあるのが自然だが、そのためには「きらめく星座」のような「おし」のピアニストというキャラクターをつくる必要があり、次に新国立劇場のオーケストラボックスのように、舞台下に楽団を配置する方法がある。紀伊国屋ではムリなのでこうなっている。ピアノの横と後ろの席の方にはちょっと気の毒だが、いいプランだと思う。
役者は6人とも好演。芙美子の威勢のよさ、慟哭、決意、大竹しのぶは着実に大女優への道を歩んでいる。はじめて大竹の舞台をみたのは94年12月の「虎―野田秀樹の国性爺合戦」 (日生劇場 )だった。そのときは映画やテレビではいいけれど舞台はまだまだと思った。しかし2002年7月の「太鼓たたいて笛ふいて」で立派な女優になったと驚いた。そして2007年9月の「ロマンス」では三田和代クラスに成長しつつあると思った。5年後、10年後が楽しみである。
梅沢昌代は1995年「父と暮らせば」(再演)ですっかり感動し、それ以来、井上ひさしの芝居で何度か見ている。ますます存在感が増している。神野三鈴も、芙美子と対極の役柄をしっかりこなしていた。2002年の初演のパンフに燐光群の「最後の一人までが全体である」のチラシがはさまっていた。この芝居は見ていないのだが後でシナリオを読んで感心した。見逃して惜しいことをした。木場勝己は、すまけいの域に達しつつあると思う。
☆林芙美子の旧宅は中井にあり、いま新宿区の記念館になっている。1941年8月、38歳のときに新築した数寄屋造りの家である。斜面に建つ家の庭はとても広く、生前は孟宗竹が一面に植えられていた。訪問した日はとても紅葉がきれいだった。仕事部屋の書斎は障子を通して光がいっぱいに入り庭の緑がきれいに見える。
林は1903年生まれで22年に上京、30年5月から落合近辺に住んでいる。一方、村山知義は1901年生まれで1921年から落合に住んでいる。西武新宿線は1922年に開通したので新宿線か新宿あたりですれ違っている可能性がある。ただ性格や生活がまったく異なるので、親しくなる可能性はあまり考えられない。