エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2020-12-07 09:39:24 | 地獄の生活

 

もしパリに研究や瞑想に適した物静かで平和な通りがあるとすれば、それはドゥルム通りであろう。この小綺麗で広々した通りはパンテオン広場から始まり、フイヤンティーヌ通りで唐突に終わる。そこで軒を並べる店々に華やかさは殆どなく、ほんの数えるほどしかない。左側、旧エストラパッド通りとの角に酒屋が一軒、ラ・ジュネスという小さな商店、それから洗濯屋、製本職人の店がある。右側には、『天文台通信』の印刷所、シャンソンという名前の材木商、錠前屋、果物屋、パン屋……それで大体終りである。

通りの残りの部分は、簡素な外観を持ち、庭に囲まれた広大な複数の施設によって占められている。それらはラ・クロワ修道院、及び神の贖罪崇拝の婦人の家である。更に向こうには、フイヤンティーヌ通りにかけて師範学校があり、乗合馬車の停留所がその向かいにある。

日中は厳粛な顔つきの人々以外は滅多に見ない。つまり、神父、学者、教授、図書館員といった人々である。人の動きが感じられるのは停留所からだけであり、笑い声が響くのを耳にすることがあれば、それは師範学校の退け時である。

夜ともなれば、オペラ座やモンマルトル大通りからは百里も離れた古いどこかの田舎町、例えばポアチエあたりにいると錯覚しそうなほどになる。よほど耳を澄ましても、パリの歓楽街の騒音がここまで聞こえてくることは稀である。

ド・コラルト氏に言わせると、世界の果てのこの通りに住んでいるのが、パスカル・フェライユールとその母親であった。彼らは三階にある、庭に面した五部屋からなる気持ちの良いアパルトマンに住んでいた。家賃は高く、千四百フランだった。が、パスカルの職業上、これは仕方のないことであった。なんとなれば、彼には仕事部屋と依頼人のための待合い室が必要だったからだ。他の点においては、母親と息子の二人暮らしは倹しく簡素なものだった。彼らの生活の面倒をみてくれるのは通いの家政婦一人だけで、彼女は朝七時に来て主な仕事をし、正午には帰って、後は夕食のために戻ってくるだけだった。フェライユール夫人が残りの仕事をし、依頼人が呼び鈴を鳴らせば恥じることなくドアを開けに行った。彼女はこのような仕事をすることで馬鹿にされる心配などしなかった。彼女の立ち居振る舞いは凛として、人々の敬意を呼び起こすようなものだったからだ。まるで「先祖の肖像画」から抜け出してきたよう、と彼女を評したド・コラルト氏は鑑識眼の正しさを証明している。実際彼女は、古きブルジョワ階級の女性と人が呼びたくなるような人間であった。貞節で優しく、非の打ちどころのない母であり、彼女が夫として選んだ男の家庭に幸福をもたらす存在である。

マダム・フェライユールは五十歳になったばかりで、実際その年齢どおりに見えた。彼女は苦労をしてきたのである。よく観察すれば、彼女の瞼の襞に涙の跡が染みつき、唇には雄々しい努力で押し殺されてはいるものの、それまでに舐めた辛酸を窺い知ることができるであろう。それにも拘わらず、彼女はぎすぎすした女性ではなく、重い雰囲気を漂わせることさえなかった。12.7

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