パスカル・フェライユールはこのようにして学業を終え、自分の能力を証明し、行く手に立ちはだかる戦いに備えていた。彼は弁護士を志望していた。ただ、自分でも十分承知していたのだが、この職業は財力という後ろ盾のない若者にとっては殆ど近づき難いものであった。しかし、強い信念を持ち、毎朝目覚めるとき前日望んだのと全く同じ願いを持ち続けることの出来る者にとって、越えられぬ障害など存在しないと言っていい。パスカルは学生登録をしたその日から、定員外職員(1948年までの行政用語)の書記として代訴人の事務所で働き始めた。この司法書記団の仕事は、最初のうちは非常にうんざりさせるものであったが、このおかげで法律上の手続きに慣れることが出来たばかりか、生活費や受験の費用を賄うことも出来たのだった。彼は最初の年の中頃には八百フランの給料を稼いでいた。二年目の終わりには千五百フランになった。三年が過ぎ、論文審査に合格すると、上司は彼を筆頭書記に昇格させたので、三千フランの給料を貰うようになった。彼はまた、多忙な弁護士のために必要書類を準備したり、個別の訴訟の趣意書を作成したりなどすることで、更に収入を増大させた。このようなところまで、しかも非常に短時間で辿り着くのは奇跡に近い快挙ではあったが、更に最も困難なハードルを越えねばならなかった。それは一か八か弁護士になるための危険に身を曝すには、現在の確実な地位を捨てなければならないということだった。これは重大な決断であり、パスカルは長い間逡巡していた。上司にとってあまりにも有用な補佐官が陥る危険に彼も陥り、身動きが取れなくなるのではないか、という怖れを彼も抱いていた。彼の上司は最重要な仕事を彼に任せる習慣がついているので、彼が辞めることを許してくれないのではないだろうか? それに、彼が独立するにしても、この代訴人との良好な関係を保っておくことはどうしても必要なことだった。彼が四年間働いて成果を生んできた顧客層は、彼の将来設計の最も確かな基盤であった。いくらかの葛藤がありながらも、彼はようやく満足の行く解決策を見出した。その素晴らしい術策とは、なにもかも真っ正直に打ち明けることであった。
彼がオフィスを構えて二週間も経たない頃、彼が執務室を開けると既に七、八通の書類がデスクの上で彼を待っていた。彼が担当した最初の数件では老判事たちの顔に微笑が浮かび、次のような有り難い託宣を彼らの口から引き出した。
「この若者は将来きっと大物になる」
しかし彼は派手さを求めることはなかった。自分に任された訴訟で勝訴することに専念し、依頼人をだしにして自らを目立たせることを優先させるようなことはしなかった。これは稀に見る節度ある態度であり、結局彼のためになった。開業した最初の十カ月でパスカルは約八千フランを稼いだが、その一部は初期の設備費に消えた。二年目になると彼は報酬を1.5倍に引き上げた。自分の身分が安定したのを見て、彼は母親に工場勤務を辞めるよう強く求めた。家の面倒を見てくれる方が、工場で働くよりもっと節約になると説得したのだが、それは尤もなことであった。12.11