エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XV-4

2021-10-11 08:19:42 | 地獄の生活

 「いま彼女は旅行用の大きな鞄を持っていたと仰ったではありませんか……ということは、こちらから歩いて出発したとは考えられません……馬車を頼んだ筈です……馬車を探しに行ったのは誰でしたか?……おたくで働いている誰かでしょう……その馬車の御者を見つけられれば正確な行き先が分かると思うのですが……」

 一瞬、この館の主と妻は疑惑を一杯に孕んだ視線を交わし合った。確かにイジドール・フォルチュナ氏はどこに出しても恥ずかしくないような身なりをしていたが、パリ警視庁の男たちがどのような者にも変装する術を心得ているということは周知の事実であった。特にオンブールの館のような施設を経営している者には、警察がワラキアの伯爵やロシアの皇女たちの溜まり場からいろんな情報を収集したがっているということは自明であった。というようなわけで、この館の主人はすぐさま態度を決めた。

 「貴方様のお考えは至極もっともでございます」と彼はフォルチュナ氏に言った。「このハントレーという奥様が出発の際馬車を雇われたことは明らかです。しかもおそらくは私どもの抱えている馬車でございましょう……。もしおよろしければ、こちらへ。御案内いたします」

 彼はいそいそと立ち上がり、フォルチュナ氏を中庭に連れていった。そこでは五、六台の馬車が待機しており、御者たちがベンチに座りパイプを吹かしながらお喋りをしていた。

 「お前たちの中で、昨日八時ごろ御婦人を乗せた者がいるかね?」

 「どんな御婦人で?」

 「年は三十から四十ぐらいの綺麗な奥方で、髪はブロンド、色白でふっくらしていて黒い服を着ていた人だ……ロシア革の旅行鞄を持っていた」

 「ああ、それなら俺が乗せたよ」と一人が答えた。

 フォルチュナ氏はその男の前に飛んで行きながら勢い込んで両手を広げたので、まるで彼の首っ玉にかじりつこうとしているかのように見えた。

 「ああ、それは有難い!」彼は叫んだ。「君は私の命の恩人だ!」

 相手の御者は大きく相好を崩した。命を助けたとあらば、たんまり心づけにありつけるだろうと思ったのだ。

 「あっしは何をすればよろしいんで?」と彼は尋ねた。

 「その奥方をどこまで送り届けたか教えてくれれば」

 「ベリー通りでさ」

 「何番地だ?」

 「さぁ……そこまでは……」

コメント

1-XV-3

2021-10-10 08:20:03 | 地獄の生活

彼はごく自然に、相手の女が思い出すのを助けたいという態度を見せつつ質問の矛先を変えた。

 「私がお尋ねしているその御婦人は」彼は答えた。「昨日、十五日の木曜、三時から六時の間に到着なさったと思います。みるからに苛立った心配そうなご様子だった筈ですので、きっとご記憶だと思いますが……」

 これを聞いて記憶を呼び覚まされたのはルーペを手にした男の方だった。彼こそがこの館の主人であり、若い女の亭主であった。

 「この方が仰っておられるのは二号室の女の方じゃないか。お前、よく知ってるじゃないか、なんとしても大サロンを所望すると言っていた人だよ……」

 若い女は額を叩いた。

 「ああ、そうだったわ!……わたしったら何を考えていたのかしら!」

 彼女はくるりとフォルチュナ氏の方に向き直って言った。

 「失念しておりまして申し訳ありません。その方はもうここにはいらっしゃいません。ほんの数時間しかここにはおられなかったのです」

 この答えはフォルチュナ氏を驚かせるものでは全然なく、予想していたのだったが、それでも彼は酷く驚いた素振りをした。

 「ほんの数時間ですか!」彼はオウム返しに答え、残念無念という様子をした。

 「はい、こちらには朝の十一時頃、大きな旅行鞄ひとつだけを持って到着されました……。で同じ日の夜八時頃お帰りになりました」

 「なんと、そうなのですか!……一体どちらに向かったのでしょう?」

 「何も仰いませんでした」

 フォルチュナ氏は今にも泣き崩れそうに見えた。

 「可哀そうなルーシー!」と彼は悲劇的な調子で叫んだ。「彼女が待っていたのはこの私なのですよ……私が手紙を受け取ったのは今朝のことだったのです。ここで落ち合おうと書かれた手紙を……胸の張り裂けるような思いでここを発ったに違いありません!郵便というやつは本当に当てにならない!」

 この館の主人と妻は、頭と肩で同じ意味を表す仕草をしていた。

 「どうしろと言うのか? ……こちらには関係のない問題だ……放っておいてくれないかな」

 しかしフォルチュナ氏は、思わしい反応がないからといって引き下がるような男ではなかった。

 「彼女は鉄道の駅の方に向かったに違いないと思うのですが」と彼は食い下がった。

 「さぁ、それは存じません」

コメント

1-XV-2

2021-10-09 09:24:23 | 地獄の生活

 馬車が一台前を通った。フォルチュナ氏は呼び止め、乗り込んで御者に言った。

 「エルダー通り四十三番地、オンブールの館まで行ってくれ」

 その家にヨーロッパの怪しげなたまり場の名前を付けたのは偶然なのか、それともなにか冷笑的な考えの故なのか? オンブールの館というのは、遊び好きの貴族たちが好んでよく訪れる施設の一つであった。そこでで消費される何百万という金の魅力が彼らをパリに惹きつけてやまないのである。その場だけのワラキアの伯爵、素性の怪しいロシアの皇女、カードのいかさま師、色を弄ぶ女詐欺師といった連中は必ず歓迎され、王侯貴族のような贅沢が高い値で供されるが、信用は全くされない。

 誰でもそこに行くと、猊下とか閣下など自分の選んだ称号で呼ばれ、好みにより老僕を演じてくれる者とか、どんな手の込んだものでも二時間で描いてくれる紋章を付けた馬車などが用意されている。おまけにその場でお大尽に必要なものがすべて揃う手筈になっている。ひと月か、丸一日、あるいは時間決めで、カモの目を眩ませ、騙し、たんまりと搾り取るために必要なものが……。

 但し、信用貸しなんてものはない。客は前払いをしない場合、毎晩証明書を提示せねばならない。そして弁済が出来ない者、担保を与えられない者は猊下であろうが閣下であろうが即刻追い立てられ、無慈悲にも衣類等一切を奪われる……。

 フォルチュナ氏がオンブールの館の事務所に入ったとき、そこには非常に目端の利きそうな顔つきの若い女と、黒い天鵞絨の縁なし帽を被り手にはルーペを持った年配の男がおり、深刻そうに話し合いをしている最中だった。彼らは目とルーペを使って美しくキラキラ輝いている品、おそらく支払い不能になった客が差し出した抵当であろう、を吟味していた。フォルチュナ氏の立てた物音で若い女の方が顔を上げた。

 「何か御用でございますか?」と彼女は丁寧に聞いた。

 「マダム・ルーシー・ハントレーはおられますか?」

 相手はしばらく答えなかった。彼女の眼は天井に釘付けになり、まるで現在オンブールの館に滞在している外国の貴族の一覧をそこに読み取ろうとしているかのようだった。

 「ルーシー・ハントレー……」彼女は繰り返した。「思い当たりません。その名前の方はこちらにはいらっしゃらないと思います……ルーシー・ハントレー……というのはどうような方ですか?」

 いろんな理由でフォルチュナ氏は答えることが出来なかった。まずもって彼は知らなかった。だからと言ってどぎまぎすることは全くなかった。様々な顔を持つ彼の仕事によって鍛えられていたので、彼自身が答えるべきことを相手から聞き出すという高等なテクニックを持っていたからだ。

コメント

1-XV-1

2021-10-07 08:52:50 | 地獄の生活

XV

 

 

 フォルチュナ氏は小走りに店を出た。カジミール氏が追いかけてくるのではないかと思い、不安で身体が震えていた。しかし二百歩ほど走ったところで立ち止まった。呼吸を整えるためというより、混乱した頭を整理するためだった。まだそのような季節ではなかったが、彼はベンチに腰を下ろした。

 あの店の狭い個室の中で次第に酔っ払っていく相手と過ごした数時間は、彼には耐えがたいほどの苦痛だった。彼は正確な情報を得たいと思い、実際にそれを得たものの、それは彼の抱いていた希望を打ち砕くものだった。

 ド・シャルース伯爵の相続人の消息は誰にも分かっていないものと確信していた彼は、自分でその相続人を見つけ出し、何百万もの金が入るのだと教える前にうまく丸め込むつもりだった。

 ところがどうだ。消息を絶ち疎遠になったとばかり思っていたその相続人はずっとド・シャルース氏を監視していたばかりか、自分の権利をちゃあんと知っており、それを活用せんと待ち構えていたではないか。

 「俺のポケットに収まっているのは、間違いなく伯爵の妹が書いた手紙だ……」彼はつぶやいた。「自分の家に伯爵を迎えることはしたくないか、あるいは出来ない事情があって、彼女は慎重にとある邸に会いに来いと言っている……それにしてもこのハントレーという名前は一体何だ? そういう名前なのか、それともこの場合だけのための偽名なのか?彼女が駆け落ちした男の名前か? ……彼女が別れて暮らすようにしている息子の名前なのか?」

 ああしかし、いろいろと想像を逞しくしてみても何の役にも立たぬではないか! 要するに、はっきりしているのは彼には金が入ってこないということだ。ド・ヴァロルセイ侯爵のために被った赤字をそこで穴埋めすることを当てにしていたのに。彼にとっては四万フランをまた新たに失ったも同然であった。このときの気分としては、侯爵との絆を断ったことが悔やまれるほどだった……。しかし、彼は一度立てた決心を、たとえそれがどんなに望みのないものに見えようとも、一か八かやってみることもなく放棄するような男ではなかった。突然の驚くべき運命の変わり目というものが如何に些細な行為によって引き起こされるか、を彼は知っていた。

 「この妹とやらに会ってみたいものだ……」と彼は考えた。「その女がどんな立場にいるか、何を企んでいるか知りたい……。もし相談相手が必要なら、俺がなってやろう……何が起こるか分からんぞ……」10.7

コメント

1-XIV-10

2021-10-05 09:42:29 | 地獄の生活

「大変だ! えらいことになっちまった。よし、行くぞ……おっとっと、俺ときたら立っているのもやっとだ。邸の者たちは何と思うだろう……何を言われることやら……」

フォルチュナ氏は自分の部下であるシュパンを隅に連れていった。

「ヴィクトール」彼は早口で言った。「私はもう行くからな……払いはすべて済ませてある。だが馬車に乗せるとか何かで金が必要になるかもしれんから、十フラン渡しておく……残りは取っておけ。このどうしようもない奴をお前に任せるからな……よろしく頼む……」

十フラン金貨でシュパンの顔が少し明るくなった。

「いいっすよ」彼は口の中でぶつくさ呟いた。「酔っ払いの扱いにゃ慣れてますんで……祖母ちゃんが酒屋をやってたとき酔っ払いの扱い方のいろはを習いましたんでね」

「今の状態で邸に帰ることのないよう注意してやってくれ……」

「大丈夫、ご心配なく。彼とは仕事の話をしけりゃならないんで。そうするうちに、きれいに酔いを醒ますようにしてみせますって」

フォルチュナ氏がそっと立ち去る間に、シュパンは給仕を手招きして言った。

「ものすごく濃いコーヒーを一杯頼むよ。それとあら塩一つまみとレモン一個も。酔いを醒ますにはそれに限るからな」10.5

 

コメント