◎ジェイド・タブレット-12-14
◎ニルヴァーナ-14
◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-4
◎イエスのことを三度しらばっくれたペトロは二度召命
現代人は、ほとんどすべての人が召命されて生きている。召命とは、自分が神とコンタクトするべく、神の側から召されること。
道元の言う現成(げんじょう)公案とは、自分が生きていること自体が公案となって日々を生きることだが、それと同じ意味。
禅では、啐啄同機と言って、原義は卵が孵化するときは、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、また親鳥も外からその殻を破ろうとすることだが、転じて自分の方からも仏法を得るために殻を破ろうとし、同時に仏法の方からも自分の殻を破ってくれようとすること。啐啄同機では、仏法の方から殻を破ろうとしてくれるのが召命。
人が召命されるというのは、どういうことか、イエスの最初期の弟子漁師のペトロはその典型例である。彼は、初代ローマ教皇となり、逆さ十字架にかかって亡くなった。
イエスが逮捕される直前に、ペトロは、『一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』などと啖呵を切った。
ところがその数時間後、イエスが連行された大祭司の家の中庭でペトロは素知らぬふりでいると、召使女と二人の男に『この人は、イエスの仲間だ。』と言われて、ペトロは、繰り返しとぼけ続けた。三度目にイエスが振り向いてペトロを見つめた。
ペトロは、あわてて外に出て激しく哭いた。
これは、イエスに借りを作ってもらったのである。
さてローマの有力者の美人妻クサンチッペが夫と同衾しなくなった。その原因がペトロの宣教にあることで、使徒ペトロは、ローマ官憲による捕縛が近づいているという情報を得て、ローマから脱出すべくアッピア街道を急いでいた。
『ペトロが市の門まで来た時、主がローマに入って来られるのを見ました。
主の姿を見て、ペトロは尋ねました。「主よ、ここからどこへ行かれるのですか」。
主はペトロに答えました。「わたしは十字架につけられるためにローマに行く」。
そこでペトロは主に尋ねました。「主よ、再び十字架につけられるおつもりなのですか」。
主は彼に答えられました。「そうだ、ペトロ、わたしは再び十字架につけられるのだ」。
それを聞いた時、ペトロはわれに返って、主が天に昇っていかれるのを見ました。そして大喜びで主を賛美しながら、ローマに戻っていきました。なぜなら、主が言われた「わたしは十字架につけられる」ということは、ペトロの身に起こるはずのことだったからです。
ペトロ行伝 第35章』
(ローマ教皇歴代誌 P.G.マックスウェル‐スチュアート/著 創元社P12から引用)
ペトロは、アッピア街道でイエスに借りを作ってもらい、これが二度目の召命イベントとなった。
一般に召命と言えば、信仰がゆるぎないものになる御霊を感じる体験を指すのだろうと思う。
ペトロの大祭司の庭の一件は紛れもない現実で、アーピア街道の一件は超常現象と、状況の種類が異なるように思うかもしれないが、神様から見れば同じ召命なのではないかと思う。
ペトロは、この二つの事件により、不退転となったのだ。二度借りを作るとは、露骨だが、実は召命とはそういうものなのだろう。行動も考えもうつろいやすいものだからこそ、ペトロのような見神は経ていたような者ですら、神様に二度借りを作ってもらわなければならなかったということなのだろう。
現代においては、単に生存競争を生き残って行くだけでも全身全霊をかけることを必要とされる。そんな多忙でいっぱいいっぱいの日々の中でも、「自分は何のために生きているのだろう?」「自分とは何なのだろう?」と考えることもあるだろう。
そうした疑問に真摯に素直に真剣に向き合う準備ができた人に、召命が起きる。
現代は、万人が神に出会う時代と言われて久しいが、それは、この時代に生まれてくること自体、既に万人が召命されたということなのではないかと思う。
召命とは、未悟の者のイベントだと思うが、召命と直接関係ないかもしれないが、悟りの前兆として次のようなものがある。
1. 坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがある。(身心脱落の前兆/宝慶記(道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。))
2. 油のようなものは、錬金術書の哲学者の薔薇園第8図で、天から降る露として西洋にも現れている。
3. 天の露は、古いタロット・カード(マルセイユ版)でも意識されている。天の露が登場するのは、大アルカナの最後の方の3枚で、月と太陽と審判である。