◎枯淡、峻厳、孤独
伝灯録15の洞山の章から。洞山の室に、燈明もつけないで真っ暗なところに、一人の僧が参禅にきた。以下の先生とは洞山のこと。
『ある夜、灯明に火がついていなかった。僧がでてきて、質問した。あとで、先生は侍者に火をつけさせて、今の僧をよび出させる。僧は、進みよる。
先生、「二つぶ三つぶ、香をもってきて、この上座にやってくれ」
僧は、袖をはらってさがるが、これがもとで道理に気づく。そこで、持っていた衣を売りはらって、みんなに食事を供養した。
僧は三年たって、先生にいとまをつげる。
先生、「気をつけてな」
ちょうど、雪峰がそばにひかえていて、こうたずねる。
「この僧、あんなふうに出ていって、いつ帰ってくることか」
先生、「あいつは行くことしか知らん、再来はできまい。」
僧は僧堂にかえり、自分の座席で、坐ったまま死んだ。雪峰がやってきて、先生に報告する。
先生、「それにしても老僧とは、三度生まれかわるほど距離がある」』
(禅の山河/柳田聖山/禅文化研究所p458から引用)
この僧は、暗がりで香をもらって大悟した。そして3年を洞山の下で過ごしたが、自分の座席で坐ったままの往生となった。誰も看取ることもなく、殺風景な僧堂でたった一人で死んでいったのだ。
大悟できずに逝った僧と洞山には三生の差がある。つまり今生でかの僧は死んだが、同様の生死を三回やって師の洞山の境涯に追いつくだろうと言っている。
僧は、衣を売ってすべてを棄てたかに見えたが、それでもすべてを棄て切れなかった。洞山と雪峰が見るところ、かの僧は臨終時にも大悟できなかった。肉体死と自我の死は異なる。
昨今欧米や日本に向けて難民が多いが、実は人間は皆難民である。人生に仮の宿はあるが、人生の荒野に安住できる安全安心な家などない。来ることは来たが、どこかに行こうにも行く場所などない。だがそれでも何の問題もないことを知っている。
これが禅僧の世界観であって、枯淡、峻厳、孤独が好きだから禅画もあのように孤独で取りつくしまがないというわけではない。彼らは寄る辺などない世界に生きているのだ。その世界こそが真実の世界だが、それは大逆転の先にある世界なのだ。