◎ジェイド・タブレット-13-2
◎冥想自在-2
◎冥想自在の構造-2
◎あらゆる実感を経るということ
冥想は、一般にメディテーションを指すが、ダンテス・ダイジが冥想を戯れるという場合の冥想は、その意味ではない。全知全能にしてすべてのすべてであって、なにもかもなしである神にして、みじめで情けなく、髪の毛一本白くも黒くもできない人間であるもの、それが冥想。要するに全宇宙にも過去現在未来にも、個人にも共通して存在するクンダリーニのエネルギー・コードだが、そのことを「冥想」と呼んでいる。つまり冥想とは、意識、心理、身体の総称。個も世界全体も含む総称として冥想と呼んでいる。
よって、すべてを棄てられるようになって、初めて冥想自在の入口と言える。
留意すべきは、現代文明はメディテーションとしての冥想のめの字もない文明だが、アトランティス文明でも冥想は意識せられていたし、アトランティス文明に先行したレムリア文明においても生活の中に冥想は息づいていた(ダンテス・ダイジ/戯れに冥想を)。現代の近代西欧文明とはまことに冥想砂漠なのだが、砂漠を花で埋め尽くすように冥想で埋め尽くさねば、次の至福千年、みろくの世、千年王国はない。
翻ってそれでは、どうすればすべてを棄てることができるようになるのか。
すべてを捨てられるためには、成熟を求められる。すなわち、あらゆる実感を経た場合にすべてを棄てられるということ。
以前、成熟バロメーターとして以下三種を挙げた。
1.正師に出会う
2.メンタル体での脱身
3.究極への突入
このうち、『3.究極への突入』が、あらゆる実感を経たことのバロメーターとなる。
それでは、あらゆる実感を経たというのは、具体的にどういうことかというと、釈迦の最初のニルヴァーナ前夜の例が挙げられる。
釈迦は、その時百億の誕生と百億の死と再生を見た。さらには、釈迦前生譚ジャータカという釈迦が前世でライオン王だったり、鹿王だったり多数の前世でいかにして善業を積んできたかを描いた膨大な物語集がある。
もし万人が釈迦のような前世を繰り返さなければニルヴァーナに到達できないとすれば、地球が現代のような有様であっては、ニルヴァーナ到達者は向こう数十年にほとんど出ないし、自分の悟りどころか、その間人類はあっという間に滅亡してしまう。
そこで各人の適性に応じて、百億の誕生と千億の死と再生を一望のもとに見渡せるような冥想(メディテーション)が用意されていると考えるのだろうと思う。
成熟バロメータにあるとおり、日々人は善を行い、悪を行わず、冥想に真剣に取り組み、正師に出会わなければ、冥想修行の本番というべきものは始まらないのだ。
余談だが、ほとんどの人は、肉体死に際しても悟れない。一般に日本では亡くなることを仏になるというが、本当に仏になる人は極く少数で大多数の人は、仏にならず輪廻転生に回って行く。
よって、臨終を迎えることがニルヴァーナに到達することと同義であるとは限らない。
なるほど、臨終時に悟るケースは稀にあるだろうが、臨終が成熟バロメーターに含まれない理由は、その辺にある。
冥想(メディテーション)とは、人間に速やかな成熟を促す加速装置のようなものだが、何か他のシステムや仕組みに任せただけでは成らない仕掛けがついている。本気、真剣、真摯、謙虚、率直等々が伴っていなければ成功しないようなのだ。
この辺がまず正師が求められる所以である。