◎ジェイド・タブレット-13-3
◎冥想自在-3
◎冥想自在の構造-3
◎無用の用への動機
どうすればあらゆる実感を経ることができるか。あらゆる実感を得るためには、冥想しなければならない。
さて冥想には、メリットを求める冥想とメリットを求めない冥想があるが、あらゆる実感を得るための冥想は、メリットを求めない冥想である。メリットを求めない冥想とは、無用の用である。
無用の用には二つの次元がある。最初の次元は有の世界の中のこと。
最初の無用の用は、物質的なことより、精神的なことに価値があるということ。つまり金や権力や地位やセックスなどより、神、仏、聖なるものの方に価値があるということ。あるいは、自分のことより他人のことに価値があるということ。
OSHOバグワンは、無用の用のことを、『逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし、抑揚を生み背景を創り出すプロセス』としている。
すなわち物質的価値と精神的価値は相互に補完し合う、そして自分のメリットになることと他人のメリットになることは相互に補完し合うということ。
これは、利己と我欲優先の生活感覚では理解しずらいかもしれないが、死がなければ生に意味がなく、逆に生がなければ、死に意味はない。
また自分がなければ、他人や世界に意味はなく、他人や世界がなければ自分に意味がないということでわかる人がいるのではないだろうか。
これが最初の次元の無用の用の説明。
最後の次元の無用の用の説明を、OSHOバグワンは、これを時間進行の尺度において、説明している。
時間は、瞬間瞬間の想念の無数の連続だが、瞬間瞬間の間に隙間が都度発生している。
これを前提に、OSHOバグワン(Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から)は、
ヨーガ・スートラの著者であるパタンジャリは、「世界は映画、投影にほかならない」と言う。それは、現象という動画が無数の静止画と隙間によってできているということに気づいたから。パタンジャリは、世界の現象を形成する三種のグナが何も動かないで停止しているのを見た。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマが幻影で作られていることに気がついた。
隙間が無(ニルヴァーナ)であって、静止画が有(アートマン)ということになるが、OSHOバグワンは、隙間の方だけが真実だとはせず、
一つのものの表と裏であって、どちらも真実だという立場をとる。
というのは神である自分には、主観しかない。その主観には、無も有もあるからである。
これが第二の次元の無用の用の説明。
自分という人間は、自分が思い込んでいる自分と、神である本来の自分がある。
自分が思い込んでいる自分は、有の相の極く一面であって、神である本来の自分は有全体である。そして神には無の面もある。
すべては無から出て有を経由して無に消える。現象であるアートマン(有)がニルヴァーナ(無)に晋(すす)む。
つまり時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、
それを超スローモーションで見たパタンジャリが、現象である〈有〉の停止に気づき、実は世界はリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。
また現象である有(アートマン)と無(ニルヴァーナ)を並べると、一見無が無用に思えるが、有あっての無であり、無あっての有だから、これも無用の用である。
人はこのように理解してメリットを求めない冥想修行に邁進していく。
『あらゆる出来事も存在も、
すべて一回限りのものであり、
連続性とは、観念的虚構にすぎない。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP162から引用)